古代世界の午後雑記(移行中)


「古代世界の午後」更新履歴と雑記
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カテゴリ:その他歴史関係( 42 )


書籍「オスマン帝国500年の平和」「大英帝国インド総督列伝」「インド 厄介な経済大国」など

 今回も、全部図書館です。

 「オスマン帝国500年の平和」

 いつ行っても図書館になかったのですが漸く借りれました。人気があるようで、既にかなりよれよれ。今まで日本語で出ているオスマン帝国の書籍といえば、スレイマーンまでの拡大期と18世紀以降の衰退期の領土の話(例えば鈴木董「オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」」、新井政美 「オスマン帝国はなぜ崩壊したのか」など)、高校生向け歴史地図帳でも、オスマン帝国の拡大と縮小の2図が掲載されているのが普通。私は安定した平和な時代とその社会に興味があるので、16世紀末から18世紀末の社会や経済・政治体制が知りたいのに、なかなかそこに詳細な言及のある日本語書籍に出会ったことがありません。そういうわけで、林佳世子氏が「オスマン帝国の時代」や「西アジア史(2)」で、多少16世紀末から18世紀末の社会や経済・政治体制を描いていたし、林氏も、本書の冒頭で、「オスマン帝国の内側を描く」と記載しているので、本書にはかなり期待してしまっていたので、少しがっかり。

 例えば、古代ローマやビザンツ帝国については、少し調べれば属州の区画や官僚機構が掲載されている書籍を見つけることができますが、オスマン帝国についてはこうした図を殆ど見たことがありません(州区画については、三浦 徹「イスラームの都市世界 (世界史リブレット)p17にアナトリアの州と都市、推定人口表が出てくる程度)。役人の出世は個人的な人脈だったものの、職務については整然とした中央集権官僚機構があった、とあるので、できれば地方も、せめて中央の官僚体制図くらいはあって欲しかったのですが、それもなし。中国などは、高校向け参考書にさえ中国の唐、宋、明、清の中央官僚体制図が出てくるのに、近世オスマン帝国で官僚体制図が描けないとは思えないのですが、何か理由でもあるのでしょうか。。。(表は無いものの、官職については「岩波講座世界歴史 (5)帝国と支配」掲載の鈴木董「イスラーム帝国としてのオスマン帝国の方が詳しい感じ。ちなみに林氏は本書で、オスマン帝国は「イスラーム帝国ではない」と冒頭で強く述べておられますね。。。。)
 更に、1581年以降財政赤字となり、1720年に黒字に転化、とあり、独特な単位で課税する徴税請負制度をとっていたため、人口は推定しかできなくても、課税資料は多数残っているようなのだから、拡大期の略奪経済が終了した後の17,18世紀の財政数字についても知りたいところだったのに掲載なし。1581年と1720年の収支の話が、史書に記載された結果情報だけなのか、具体的な数字が残っているのかの記載すら無いのも残念でした(林氏の「オスマン帝国の時代」のp44に、16世紀後半の各州の徴税額と合計額の表が掲載されているだけに本書でもっと細かい情報が得られるものと期待しておりましたので、ここでも少しがっかり。ウラマーのキャリアパス表は多少は参考にはなりましたが。。。。

*2010/11/10追記
徴税額と体制図については、「記録と表象 史料が語るイスラーム世界」第二章「オスマン朝の文書・帳簿と官僚機構」に掲載がありました。膨大な帳簿資料などが総理府文書館に残されており、現在研究が進展中のようです。

 とはいえ、オスマン帝国通史なのだから仕方が無いか。。。通史で社会・政治・経済を詳細に描くのは無理なのかも(とはいえ、林氏は、冒頭で、19世紀は扱わない、と言いながら、結構な配分で19世紀も記載しているんですよね。その分17,8世紀の社会・経済・統治体制を書いて欲しかったところですが、18世紀で打ち切ると大方の読者には中途半端な印象を与えることになって売れなくなってしまうのだろうなぁ、とは思います。そこで、是非林氏には全領土については、17,8世紀、バルカンとアナトリアについては、14世紀末から18世紀末までの社会・経済・統治体制を扱った書籍を出して欲しいものです(絶対売れそうにないから無理だろうけど。でも 永田 雄三 「前近代トルコの地方名士―カラオスマンオウル家の研究」のようなちょっと詳細過ぎる書籍が出ていたりするのだから、可能性がまったく無いわけじゃないと期待したいところです。私は、「前近代トルコの地方名士―カラオスマンオウル家の研究」を読む程オスマン帝国に興味は無いのですが、サファヴィー朝からガージャール朝時代までの地方名士の研究書なら読んでみたいと思っています。たしかイランのこの時代については地方志が結構残っていたと思います。

大英帝国インド総督列伝

 最初に紹介した2つの書籍、及び最近嫌韓現象への興味から、歴史ある文明国を植民地化した統治の成功例として英国のインド統治に少し興味が出てきたので参照してみました。英国統治時代のインドに関する書籍に目を通すのは高校時代に読んだ講談社版世界の歴史「変貌のインド亜大陸」以来25年ぶりくらい。まあそれぐらい興味がなかったのですが、ほとんど知識もなかった分新鮮です。まず何より、「インドは総督の墓場」と言われるくらい過酷な勤務だったこと、実際33名の総督中7名、及び総督夫人5名が在任中または帰国途中、帰国直後に死亡し、インド総督が政治的キャリアとして役に立ったのは半数程度、首相に次ぐ地位と言われながら、帰国後首相になれた人は皆無だったとは知りませんでした。まだ1/3程しか読めておらず、図書館から借りてきたのですが(図書館では歴史欄ではなく、何故か政治欄の分類)結構面白そうな書籍です。ちなみに、2週間程前には、「世界のなかの日清韓関係史-交隣と属国、自主と独立」を読んだのですが、これに後のインド総督カーゾンの、当時の朝鮮半島情勢に関する見解が登場しているのも、英国のインド統治に興味を持ったきっかけのひとつです。


 インド統治の秘訣は全然わかりませんでしたが、インド総督業務が英国本国政界の政争・党争に大きく左右されていた、というか、英国政界の政争そのものを読んでいる気分になりました。独自政策を執ったり、赴任中に政権党が交替したり、本国のインド担当大臣と相性が悪かったり、ましてやインド側に立った政策をとったりすると、たとえ治績を挙げたとしても、帰国後哀れな処遇が待ち受けているなど、インド総督って割りに合わない職務だったんだなぁ、とさえ思えました。プラッシーの戦いで英国のインド支配の先鞭をつけたクライブが帰国後自殺に追い込まれていたり、カーゾンさえ、帰国後10年以上冷や飯を食っていたりと、野心家よりも寧ろ政争に敗れるか・そもそも政争に興味の無い、本国からの指示に唯々諾々と従う、インド総督が引退前の花道職でしかないタイプの方が、よい老後を過ごせているような印象を受けました。

 ところで、アンガス・マディソンが算出した1820年のGDP番付(こちらのサイトにベスト10あり)で、何で英国領土だったインドが別枠扱いになっていたのか、やっと理由がわかりました。インド政府独自に関税を設定し、英国からの輸出品から国内産業を保護するなど(インド側に立った総督は、関税撤廃に抵抗したり、インド側はポンド建て国債を買わされていた為、ルピーが大暴落した時対抗措置をとったり。でそういう総督の末路は上に記載したとり。。。)、表向きは独立国的な部分もあったからなのですね。読んでいて、非関税障壁撤廃や、スーパー301条、日米自動車摩擦、日米半導体摩擦、年次改革要望書など、結局は米国の指示に従うことに近いことになっている戦後の日米関係を連想してしまいました。。。
 もうひとつわかったことは、英国が最初に支配を広げた領域であるベンガル、東海岸、カンジス側流域は、人口密度の高い地域だったのですね。インドは旅行も出張もしたことが無いので、地理的な感覚がもてないのですが、少しイメージできるようになりました。

 で、結局、日本の朝鮮支配時代の参考になるようなものは得られなかったので、今度は「インド植民地官僚」という書籍を借りてきたのですが、冒頭を読むと、1892年以降の内容となっていて、既に統治にきしみの出てきていた時代を扱っているのであまり参考になりそうないのでした。

 「インド 厄介な経済大国」
  
 「大英帝国インド総督列伝」で独立まで少し知識がついたので、その後の歴史を読もうと思っていて探していたらこの本にたどり着きました。 「大英帝国インド総督列伝」は局所的な情報だったので、もっと戦後から最近までのインド社会を包括的に描いた書籍を探していたところ、丁度良い書籍となりました。現代インドについては、IT関連であれば、勤務先自体がバンガロールにも拠点を持っていることもあり、だいたい様子はわかるのですが、それ以外となるとNHK特集の「インドの衝撃」くらいしか知識がありません(あとはインド鉄道紀行を読んだくらい)。ただ、中国のIT業界は製造業同様、先進国の下請けなのに、インドには、欧米IT企業が開発拠点を置き、特に金融関連製品などは全面的にインドに任せてしまうなど、中国とは随分異なった感じです。中国の経済発展は、農業振興>軽工業>(重工業)>エレクトロニクス>サービス業、と通常の先進国や新興国が辿っている道なのに、農民が工場に出稼ぎに行っている風も無く、出稼ぎ先は都市スラムという印象。製造業で思いつくのもタタとミッタルくらい。一体どういうことなのか、本書を読んでやっと理由がわかりました。中国は、漢民族という一見一民族に見える民族と強力な政府から、国民国家に見えますが、実態は欧州に近いイメージを持っています。が、インドは欧州以上な感じですね。万華鏡というのか立体モザイクというのか、インドについての月並みな形容ですが、多様性、ごちゃごちゃ性に幻惑されてしまいました。一度くらいインドに旅行に行ってもいいかなー、一度はタージマハルを見てみたいし。と思っていましたが、1、2回行ったところでは何もわからなさそう。中国程インフラが発達していないから、2,3年駐在したとしても廻りきれなさそう。中途半端に手をつけない方がよさそうに思え、今後インドに行くことは無いんじゃないかという気になってきてます(暑いとこ嫌いだし古代遺跡も少ないというのもあるけど)。

 しかし、2005年の情報で、労働人口4億7000万人のうち、所得税を払っているのが3500万、うち2100万が公務員で、残りのうち製造業が700万、IT業が100万程度、HIV患者が510万で南アフリカの530万に次ぐ2位(こちらの世界基金のHPでは600万となっており、おそらく南アを抜いて世界第一)というのも驚きです(ちなみに中国でもHIVは広まっていて、ああいう国ですからテレビなどではやりませんが、病院に行くと、「エイズを知ってますか?どのようにすると感染するか知ってますか?などというアンケートに答えさせられ、国民にそれとなく情報を広める活動をしているようです)。

 ところで、「厄介な」というタイトルは、岡田英弘「やっかいな隣人、中国人」を連想してしまいますが、「厄介」の意味が違うんですよね。内容を読めば、「巨像を扱うような」というようなニュアンスがわかるのですが、間際らしいので、原題の「In Spite of the Gods: The Strange Rise of Modern India 」をうまく言い表す題名にして欲しかったと思います。


 「真説 レコンキスタ―“イスラームVSキリスト教”史観をこえて」

 これも前回、に引き続きレコンキスタ時代のスペインの経済力の調査の調査の為に参照しました。Amazonの紹介に、「世界の最新研究成果を踏まえ、誤ったレコンキスタ像を修正。宗教対立ではなく社会経済的要因による領土拡大という真相」とあったので、期待したのですが、殆どただの通史。レコンキスタ成功の要因として、法律・政治・物欲・宗教・経済の5つが挙げられていて、そのうち、物欲と政治がもっとも重要とし、略奪経済が主たる要因としているようです。一方で、入植運動(経済の一要素)も要因として挙げられるが、これについては、「スペイン形成に決定的な影響を与えたこの入植は、本書の目的とやや異なるこので別にさせてもらった」とあとがきに記載が。。。。。。そこが一番知りたかったのに。。。。まあ、でも著者によると、スペインやポルトガルの世界雄飛は、経済力が原因ではなく、略奪経済の延長だった、ということのようです。そうなると、大航海時代にスペインが集めた富がストローのように西欧に流れてしまった理由もわかります。また、高山博氏「中世地中海世界とシチリア王国」も参照しましたが、政治制度の話ばかりで経済数値は無し。「中世の覚醒」も参照しましたが、これを読んでも、12世紀ルネッサンスは、イベリア半島やシチリア島が繁栄したからというよりも、西欧側で関心を持った学者がトレドやシチリアに行った、ということになりそうです。



 政府の財政・金融政策について理解する為の基礎知識として、マクロ経済を復習しました。

「マクロ経済学・入門 第2版(2001年版)」

 最初から4冊読もうと思ったわけではなく、適当に書棚から取り出して、よさそうなものを集中的に読もうと、まずは出版年代順に読み始めたのですが、結局これが一番充実していて私のレベルでは役立ちました。とはいえ、同じ入門編でもこうも違うのか、という感じで驚きました。結局4冊全部目を通すことになってしまいました。数式以外はほぼ全部読みましたが(関数グラフの意味が理解できれば十分なので数式は全て読み飛ばし。あと設問もSkip)、だいたい大学時代に学んだ論理で合っていたので少しほっとしています。大きな発見は、私が受講したマクロ経済の授業では、ケインズ経済学は批判されていて、その時受けた講義は、マネタリズムと呼ばれているものであったことを知りました。私のマクロ経済の考え方はマネタリストの考え方だったんですね(恥ずかしいことを書いてますが、私は歴史学科で社会学と人類学の理論を専攻してたので、経済はこの程度なのです)。それにしてもグラフも多く、チャート式の参考書のようで、本書は素人には理解し易く、よくできていると思います。ただ、私が読んだ第2版は、本書出版以降に問題が多発した金融派生商品や重要度が増しているオープンエコノミーについては十分な記載が無く、第3版も2005年の出版で、サブプライム問題などの記載が無いので、買おうかどうか迷ってます。

マクロ経済学<やさしい経済学シリーズ>  浜田文雄 東洋経済新報  2002年
(何故か書籍紹介ホームページが無い)

 この本はこの手の本としては珍しく縦書きです。しかも、数式が記号ではなく、文字で書いてあり(国民所得=国民総生産-(間接税-補助金)-固定資本減耗 という感じ。しかも、縦の行で横書き(つまり、本を横にしないと読めない))、非常に読みにくかった。とはいえ、最初の書籍に書いてないこともあり、結局最後まで目を通してしまいました(が、必要な箇所のコピーをとった筈なのにどこかに行ってしまったので、本書の何が良かったか紹介できないのでした)。全体的な分量は少ないのですが、理論のチャート式参考書のような前書と比べると、具体的な例えが多く、その点参考になったような気がします。グラフが殆どないのは×かな。

「マクロ経済理論入門」 2005年

 3冊目になると、大分理解も進んでくるので読み飛ばし部分も増えましたが、この本では、具体的な事例が多く(日本の資本収支と貿易収支の2004年までの比較や1981-2001年の間のGDP成長率の内訳など)参考になりました。単に出版年代順に目を通しているとはいえ、だんだん具体例が増えていき、丁度良い学習効果が得られました。ただ、これは素人の入門書というよりも、学部生向け入門書という感じです。



「マクロ経済学 (現代経済学入門)」 2009年

 
 最後のこれは、2009年の出版ということで、サブプライム問題など、近年の金融派生商品やオープンエコノミーに結構な紙幅を裂いていて、その点有用でした。ただしこちらも学部性向けという感じです。数式は難しくなるばかり。。。。本書のp14に、1981年から2007年までの実質GDP成長率に寄与した項目の内訳が掲載されており、出典はこちらの内閣府国民経済計算(p10(ただしこのPDFは1997以降のみ掲載))となっています。これによると、1980年代は、確かに外需よりも内需寄与度が圧倒的ですが、2000年代小泉政権時代の2%程度の成長率の時は、外需1.3%程度に対し、内需1.5%程度となっています(合計が2%にならないのは、マイナス項目もあるため)。外需が50兆円程度だから、内需が重要、と発言されている政治家の方がおられますが、本当にそうなのでしょうか。。。。

 総じて、東大経済学部卒の現金融相は、ケインズどまり、という印象でした。

ところで、本年度の年次経済財政報告が内閣府から発表されましたね。ネットで見るのは結構大変なので、出版されたら購入しようと思っています。今回の参院選のマニュフェストではどの党も明確な成長政策のためのデータが出しているところはありませんでした。結局官僚じゃなきゃ駄目なんじゃないの(少なくとも今のところは)という印象があります。
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by zae06141 | 2010-07-24 23:52 | その他歴史関係 | Comments(2)

書籍「海のかなたのローマ帝国/ローマ経済の考古学/渤海の歴史と文化/サウジアラビアを知るための65章」等

 この週末2日間、終日図書館にこもって色々読みました。朝開館直前に行って閉館まで1日11時間、しかもどういうわけか集中力が持続し続けるという私としては近来稀な出来事。幾つかについては書評をAmazonなどに記載したものもありますが、それ以外のものも多いので、書籍紹介も兼ねて簡単にフィードバックしたいと思います。といっても沢山目を通したので斜め読みが多く、一冊全部読んだものは少ないのですが。。

「海のかなたのローマ帝国」
 きっかけは先週「ローマ帝国 (〈1冊でわかる〉シリーズ) 」を読んだこと。本屋で南川高志氏が記載している解説を立ち読みし、少し興味は持っていたのですが、今更入門書的な書籍を買うまでもないと思っていたところ、蔵書数も少ない近所の町内図書館にあったので借りてきて読みました。啓発される視点が多く、特に「ローマの支配の地方への浸透ぶりの実際」と「英国のインド統治とローマ帝国」などが参考となりました。2003年に出版された時はローマ時代のブリタニアのなどという辺境を扱った「海のかなたのローマ帝国」の意義が理解できなかったのですが、「ローマ帝国 (〈1冊でわかる〉シリーズ」に啓発されて読んでみたところ、かなり有用でした。ギボンの「ローマ帝国衰亡史」が18世紀後半に登場し、インド赴任時代のチャーチルが愛読したなどの話や、熱心なローマ研究ぶりなど、英国は植民地時代の最初から、ローマ支配を参考にしていたものと思い込んでいたのですが、その先入観を覆されました。19世紀末までは、「衰亡史」も没落を主軸に捉えた反面教師のように受け取られていたのですね。それにしても南川氏の文章は上手いですね。たまたま私にとって相性が良いだけなのかも知れませんが、どうにも引きずり込まれてしまい、飛ばし読み、斜め読みができず、結局2/3を読まされることになりました。巻末で、今後はドイツ、フランスなどの地方支配の実態の研究に向かう、との記載がありましたが、今後の研究(の書籍化)が楽しみです。

・「ローマ経済の考古学

 431ページもある分厚い大著です。ローマ帝国各地の貨幣、農地、鉱山、採石場などの状況を丹念に分析した書籍です。読み物としては面白くはありませんが、資料としては非常に有用だと思いました。分厚いので斜め読みどころか、拾い読み、全ページ目を通しましたが、実際に読んだ分量は50ページ程ですが、参考になりました。紀元前後から250年の銀貨の銀含有率の変遷表は良く目にしますが、318-340年の資料ははじめて。コンスタンティヌスと内戦中のリキニウス支配時代の東方の銀貨の銀含有量が極度に低くなり、それが内戦の資金捻出の為、との分析は説得力がありました。しかし、この年代の銀含有量は3.5%以下というのも驚きです(2世紀までは70%以上、250年で40%程度)。また、英国、スペイン、シリアその他各地の田園地帯の遺跡を分析し、都市とヴィラと一般農民の分布の分析などは、当時の農地の景観を具体的にイメージすることができて有用でした。同じような分析が、各地のついて延々と繰り返し続くので、読み物としては飽きてしまうと思うのですが、南川氏が英国について書いている田園風景と似たような景観が帝国全土に広がっていたことが良くわかります。遺物の出土範囲から、地方のローカルな交易圏を分析する点などは、こうした話は、オリエントとインダス文明の交流など、異なった文明の交流などではよく目にする話ですが、ローマ帝国内のローカル経済という地味な分野でも地道に行われていることに少し感動しました。


・「渤海の歴史と文化
 後に続く後継国を持たず、蜃気楼に浮かぶ楼閣のごとく忽然と現れて消え去った渤海には幻想的なロマンを感じ、惹かれるものがあります。とはいえ渤海史は一応講談社の「渤海国」で概説に目を通しており、渤海史に限らず詳細な政治史にはあまり興味が無いので(ギボンのローマ帝国衰亡史やタキトゥスさえ一部しか読めていないのでした)、前半の歴史の部分は全て飛ばし、目を通したのは最後の章、朝鮮、日本、中国の史料一覧と解説、及び3国の渤海認識の歴史的変遷、及び3国とロシアを合わせた研究史と研究動向と文学・思想・絵画など文化関連の章だけ。中国と韓国の間で争点となっている論争の背景などに興味があったのと、最近は史料や研究史に興味が傾いてきていることもあり、最後の章はそんな私にはうってつけでした。

 それによると、韓国が渤海国を自国史に編入したのはナショナリズムが勃興した日本統治時代から戦後のことだと思っていたのですが、李氏朝鮮時代の著作の一部に、既にそうした見解が見られていたとは知りませんでした。新羅と渤海を南北時代と称するのも、近年のイデオロギーの産物ではなく、李氏時代の著作に既にあったのですね。また、史料一覧については非常に詳細で(というか、もともと史料が少なすぎなので、ニッチ史料まで紹介できるということなのでしょうが)、秋田県の多賀にある碑文まで紹介されているのには驚きました。中国の歴代史料にも、「旧唐書」系と「新唐書」系で見解が分かれている(前者は高句麗の別種説、後者は靺鞨説)のもへぇ~という感じ。

 中国の研究史や渤海認識についても、韓国の学者にしては冷静な記述がなされているように思えましたが、その次の日本の渤海認識の章を、本書の監訳者である濱田耕策氏が書いていることから、「この翻訳はかなり訳者が手を入れているのでは?」との疑念も出てきてしまいましたが。。。。(濱田氏のパートでは「渤海は日本に朝貢している、と当時の日本側は認識していた」という記載が出てくるのですが、韓国人がこういう文章を書くとは思えないのでした)。そういう疑念があるとはいえ、結果的にはあまり偏向色を感じない、冷静な学究書籍となっていると思えます。渤海史書籍としてはかなり有用なのではないかと思えました。それにしても、国王だけではなく、臣下や将軍までが唐から官位をもらっていたとなると、中国が自国内の地方政権と主張するのもわかる気もするのですが、近代以前の中国の冊封体制は近代的な概念では理解し難い独特の論理でできているので、渤海独立国論争は解釈に振り回されて永遠に続くのでしょうね。。。。

・「疾駆する草原の征服者―遼 西夏 金 元 中国の歴史
 読んだのは杉山正明氏の、契丹研究の為の中国取材旅行の章と東丹国の章だけ。歴史シリーズで著者のエッセイが長々と続くのは珍しいと思うのですが、面白かったです。気になったのは1点、宋代の人口について、「宋の優勢を印象づける為、単に史書の数字を3倍しただけの1億3千万という説は受け入れがたい。史書の通り4000万と考える」というのはどうかなぁ。前回の記事でも記載した通り、宋代の史書記載の人口に疑念があり、1億という推定値を出しているのはそれなりの根拠があってのことなので、そうした研究を無視するのは研究者としてどうなのかなぁ。この人の場合、中国中心史観を相対化したいのはわかるのですが、思い入れが強いあまり「戦争といっても余程の例外を除きモンゴルは戦わなかった」「モンゴルは負けることが多かった」(「遊牧民から見た世界史」p361)などと書いてしまう姿勢が気になります。政治家が「秘書がやった」、金正日が「拉致は部下が勝手にやった」などと言っても通用しないのと同じで、「2回目の元寇は高麗と南宋がやった」などとは誰も思わないと思うのですが。。。。「遊牧民から見た世界史」は著者の思想の普及を図ったアジ本なので構わないのですが、講談社の中国の歴史シリーズみたいな書籍でやるのは学者としての信用を損なうように思えます。見解を異にする人を説得できる客観的な主張をするのが学者の務めだと思うのですが、杉山氏の場合、シンパを増やすことにしかならない姿勢が見られるのが残念です。

・「サウジアラビアを知るための65章
 最近、イスラーム研究者や親イスラームの方々を「護教論者」と糾弾する人々がいる人を知りました。そういう方はアラブ研究者である池内恵などを絶賛しているようです。が、彼はあくまで「アラブ」の研究者であって、イスラーム全体の研究者では無い筈なのですが、反「護教論者」は池内恵をもって、イラン研究者(桜井啓子など)を糾弾しているのが不思議です。更に不思議なのは、反「護教論者」の一人にせっせとAmazonレビューを書いている方がおられ、イスラーム関連のレビューを全て拝見したところ、サウジアラビアだけは、批判していないことがわかりました。結局反「護教論者」って、親米派なのね。と思うとともに、私自身があまりサウジについて読んだことが無いことにも思い至り、今回何冊か目を通してみました。
 まず最初にわかったことは、「イランを知るための65章」では、55名の執筆人がおり、私の知る範囲で著名なイラン研究者は殆ど参加しているのに対し、「サウジアラビアを知るための65章」では池内氏が入っていない点。執筆者が11名と少ないので、池内氏も貴重な戦力だと思うのですが、なんで?派閥とか?本書は決してサウジ礼賛の書ではなく、マイナス面も多数記載しているので、池内氏の辛口記事を入れても問題ないように思えるのですが。。。池内氏の守備範囲はエジプト・シリア・ヨルダンという印象もあるのですが、ひょっとして彼はサウジについてはあまり知らないのではないか?と思えてしまいました。とりあえず本書は役に立ちましたが、生の生活情報が殆ど無いので、在住者の経験も知りたいと思い、次の2作を読んでみました。

・「恋するサウジ
・「不思議探検サウジアラビア
 読み始めるまでこの2作が同じ著者だとは思っていなかったのですが、何か違いがあるかも知れない、と思い、一応目を通しましたが、内容は殆ど同じ。ただ、後者は文章より読者の興味を引くような可愛いイラストが主体で、更に本書には本来DVDが付されていて、どうやら本書のメインはそちらにある模様。で、読んだ感想なのですが、富裕者向け観光ガイドという感じ。著者は「古い情報に誤解している方も多い」「70ヶ国を訪問したが、こんなに親切で安全は国は無い!」「アメリカをそのまま持ってきたようなショッピングモールがある。英語も良く通じる」「常識の違いは、ポイントを抑えることで楽める」と感動を熱く語っています。素直に感動した気持ちを伝えたいのだという気持ちはわかるのですが、サウジに恋するあまり、盲目になってしまっている、という感じ。あとがきで「テロが無い」とまで書くに至っては、こういう人が早稲田大学の客員教授だとはビックリです(外務省の海外安全ホームページのサウジアラビアのページに本書出版当時のテロ被害情報があります)。貧乏国を嫌悪する様子が見られるのも気分が悪くなりました。なんというか、北朝鮮で豊富な石油が出れば、北朝鮮もサウジアラビアみたいになれるんじゃないの。で、そこにアメリカンショッピングモールがあれば著者も礼賛するようになるんじゃないの。と思いましたね。まあ著者はサウジに招待されて視察するくらいだから、サウジの広報を勤めるのが仕事なのかも知れませんが、それにしても能天気すぎるのではないかと思います。と同時に、イランや中国を批判する人の意識も少しわかりました。イランや中国が好きな私も(決してムッラー体制や共産党を支持しているわけではないのですが)、きっと郡司さんと同じように見えているのでしょうね。

・「アルジェリアを知るための62章
 最近アルジェリア大使館の個人ビザ取得のページをネットで読んで、「アルジェリアも平和になり、開放的になったのか」と、最新情報に更新する為にざっと目を通しましたが、ジェトロの報告書みたいな内容でした。これじゃあ読者はアルジェリアに赴任する商社マンくらいしかいないんじゃないの、というくらいサウジアラビアよりも政治と経済に偏った内容。まあでも未だにテロ発生国のイメージがあったので、国内がだいぶ安定したことがわかっただけでも目を通した甲斐はありました。

・「スペイン・ポルトガル史 (新版 世界各国史)

 フィフリストの記事でも記載しましたが、最近12から15世紀のスペイン・ポルトガルと、12世紀のシチリアに興味を持ち出したので、レコンキスタ時代のイベリア半島経済、特に統計情報を知りたいと思い、その部分だけ目を通しましたが、殆ど通史だけ。16世紀に入ると人口や輸出入額などの数値が出てくるのですが、レコンキスタ時代はほぼ政治史だけ。まあ予想はしていましたが残念。

・「世界歴史大系 スペイン史〈1〉古代~近世
 こちらは2008年の出版であり、かつスペインのみを扱い、しかも2分冊であるにも関わらず、レコンキスタ時代の経済情報は「スペイン・ポルトガル史 」と同じような感じ。それ以外でも数値情報が少ないように思えました。

・「ポルトガル史
 こちらもレコンキスタ時代の経済情報は少ないのですが、単なる通史と期待していなかったところ、1527から32年に行われた全国人口調査の数値が掲載されているのは拾い物でした。各州とベスト13位までの都市人口表や、17世紀以降の英国との経済関係の数値情報などが掲載されていて有用でした。

ところで、スペイン関係の部分を記載していて、何故図書館に行ったのか思い出しました。そもそも、高山博氏の「中世地中海世界とシチリア王国」を借りに行ったのでした。先に図書館のホームページで在庫を確認してからいけばよかったのですが、以前置いてあった記憶がありでかけてみたところ、置いてなかったので、借りて直ぐ帰ってくる筈が、終日こもることになってしまったのでした。

・「イスラム世界は何故没落したか
 西欧の勃興時期に興味がでてくると、同時に、イスラームはいつ停滞・没落したのか?にも興味が出てきてしまうようです。本書にその辺を期待してみたのですが、基本的にオスマン朝をしか扱っておらず、しかも、基本的には「停滞をいつ意識したか」という点とその後の対応を扱っていて、停滞した時期やその理由などを知りたかったので、この点期待外れでしたが、天文計算や暦については緻密ではあったけれども、日常の時間や度量衡は指の大きさを基準にするなど「絶対尺度」が無かった点や、14世紀に既に機械時計が発明されていた西欧人にとっては、16世紀に既にイスラーム人の時間感覚がルーズに思えるなど、色々と参考になる情報が掲載されていて有用です。西欧がイスラーム文化に興味を持ち、言語を学習したり政治的にも常駐大使を派遣するなど多方面で興味を持ったのに対して、オスマン側では案件ごとにしか大使を派遣せず、しかもその大使も西欧の社会や文化に興味を持たないなど(西欧を見下していたから)、など、。まだ1/3程しか読んでいないのでちゃんとした書評はできないのですが、没落要因の一部は参考になりました。図書館から借りてきたので引き続き読み通したいと思っていますが、西欧を見下す思考は、西欧の発展に負けた理由ではあっても、停滞した理由では無いと思うので、停滞理由については他著にあたってみたいと思います。


 というわけで、各書数行程度のコメントで終わらそうと思って書き始めたのですが、えんえん大部な記事となってしまいました。最近仁木稔氏が、次回著作執筆の為の資料調査をブログにアップしていて、実のところ、それに触発されて、数行コメントを書こうと思ったのですが、誰も読みたくなくなるような長大なものになってしまいました。今後は控えることにしたいと思います。
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by zae06141 | 2010-06-29 00:43 | その他歴史関係 | Comments(10)

清代中期の役人洪亮吉の一人当たりを養う耕地面積論とアンガ・スマディソン推計の清代一人当たりGDP

 基礎的なデータであるにも関わらず、ネット上にあまり流通していないようなので「唐、宋、金、南宋、元代の年代別人口一覧表」作りました。ご興味のある方はこちらの表をご覧ください。これで、後漢と唐代から元代、明代以降の中国の人口変遷の概要を把握できるものと思います。日本版Wikiにも少し中国歴代人口変遷の表が記載されていますが、これらは史書記載の「口数」だけが記載されており、「実勢値」についての検討が省かれています。特に宋・南宋代については、史書記載の値はかなり問題のある値であることから、推計値も記載しました。それによると宋代、金・南宋代の人口は1億近く、明朝後期の数値に近いものとなり、宋代の繁栄を裏づける数値と言えそうです。宋・金代は、前漢・後漢、唐、明、清と異なり、農民反乱によるカタストロフィを迎えたわけでは無く、今回人口表作成にあたって引用した書籍の推定によれば、宋から金・南宋代に切り替わる時にも、大きな人口減少が無かったことから、お決まりの人口過剰によるカタストロフィは(王朝の衰退は人口過剰だけが原因ではないのは勿論ですが)無く、宋代の生産性向上や新規農地開拓などの要素の方が上回っていたのかも知れません。

 ところで、清代中期の役人、洪亮吉(1746年-1809年)によると、「一年一人の食糧を計るとおよそ四畝が必要となる。十人の家では四+畝が必要となる」と同時代人の証言(しかも身近な実例で実証し易い内容)があり、(洪亮吉の記述の原文はこちらの法政大学菊池道樹氏の論文から引用(p9-p10))、1766年(乾隆三十一年)ぐらいを境に一人当たり四畝を下回ったとのこと(こちらの中国語頁には、1766年には3.5畝で、既に正常な生活水準下回っている(而在乾隆三十一年(1766),全國人均土地約為3.5畝。已低於正常生活水平的標準)とあります)。1766年は、推計人口約2億8千万人くらいなので、清朝は結構なキャパがあったようです。明朝が、推定1億6千万を天井に人口減少となり、最後は農民反乱で滅んだことを思うと、清代前半は意外と生産性上昇があったのかも知れません(こちらの滋賀大学の石田與平氏の論文によると、1661年から1810年の間の人口増は2.7倍で耕地面積の増加は13%とあります)。なお、清代の四畝とは、約2456平米のようです(幻想山狂仙洞様のサイト、中国歴代度量衡換算表参照)。

 ついでながら、前漢末期の一人当たり耕地面積と比較してみると、前漢末期は人口5959万で82700万畝、1人あたり約13.9畝で、上記度量衡換算表によれば、6440平米となり、清朝の方が2.62倍の生産性となることになります。とはいえ、前漢末期の数字が、洪亮吉の言うよう、「必要な耕地面積」であるとは限らず、過剰な値なのか、余裕のある値なのかが不明なので、単純な比較はあまり意味の無いところですが。。。。(清朝末期の人口で比較したら同じくらいの生産性になってしまうかも知れません)。と、ここまで考えてきて思いあたったのですが、アンガス・マディソンが、紀元前後の世界の一人当たりのGDPの試算をしていて(こちらの氏のサイトに紀元1年から現在までのGDPをまとめたCSVファイルがあります)、紀元1年が450ドル、1820年が600ドルと、たったの約1.3倍のGDP向上となっています。私はこれをかなりうさんくさい値だと思っていたのですが、仮に1766年の一人当たりの生産力を四畝とし、その後の人口増大は1人当たりの収入低下を招いたとなると、1766年の2億8000万に対して1820年は3億8千万人ですから、約35.7%の人口増=約26%の収入低下となり、前漢代と比べて2.63倍の生産性があっても、1820年の実収入は、1.93倍程度に留まります。アンガスの出した1.3倍と比べて差はあるものの、それほど出鱈目な値ではなさそうな気がしてきました。一方で、ローマ帝国の550ドルが1820年の欧州で1200ドル程度(2.18倍)となっているのに比べると、1.3倍と1.93倍では大きく印象が異なります。1.93倍であれば、それほど欧州にひけをとらないことになりますね。。。。まあいづれにしても数字のお遊びに過ぎませんが。。。。

 ちなみに唐代の数字も計算してみました。「通典」(巻二田制下)で、天宝14年の戸数は891万戸、人口は5291万(とはいえ杜佑は別の箇所(「食貨」巻7の「歷代盛衰戶口」)にて、戸数を1350万戸と推定している。これに準じて人口を計算すると7695万人となる)、耕地面積は143000万畝、1人当たり、27.02畝、前傾「中国歴代度量衡換算表」では、唐代の1畝は580.326平方メートルであるから、1人当たり約15684平米となり、漢代の倍以上となってしまいます。これに対して、渡辺信一郎著「中國古代の財政と國家」p470では、一頃で50石の収穫があるとして、1430万頃で7億1500万石の収穫があるとしている(著者は1400万と数字を丸めて計算しているので、7億石と算出しているが、ここでは1430万を用いて再計算した)。また、1人当たり1日の必要量を0.2石とし、0.2*365*5291万=38624万石(ここでも著者は、360日、5300万と数字を丸めているので、365日と5291万を採用しました)、つまり、生活必要量は、生産量7億石の約54%となります。ということは、先に算出した15684平米の54%である8469平米が、1人当たりの必要耕地面積、ということになります。この数字でも、漢代の生産性よりも低いことになってしまいますが。。。。。
 そこで、杜佑が推定している戸数から算出した7695万人で計算してみることにします。すると、必要量は5億1673万石という数値が得られます。全生産量の72%が生活必要量ということになります。一方1人当たりの耕地面積は18.6畝。唐代の1畝で計算すると、1万794平米となります。この72%が一人当たりの必要耕地面積となるので、7772平米。つまり、漢代の6440平米を少々超えてしまう値(少し生産性が落ちた程度)となりますね。。。。、 、もっとも、漢代の場合は、「1人当たりの必要耕地面積」は不明ですし、唐代の、1万畝で50石の生産性の根拠も、渡辺氏の著書に出典の記載が無い為、あくまで参考以下、数字のお遊びにしかなりませんが。。。。。
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by zae06141 | 2010-06-25 23:58 | その他歴史関係 | Comments(0)

卑弥呼の発音はやはりピミコ?

昨夜のNHKの日本語に関する番組「みんなでニホンGO!」では、現在の日本語の「ハヒフヘホ」は、古代では「パピプペポ」であり、平安期になって「ファフィフフェフォ」となった、との話をやっていた。根拠は、言語学者の金田一京助だったか金田一春彦氏だったかが作成した、「万葉時代の発音で読む万葉集」「平安時代の発音で読む枕草子」の録音資料や、一般に、言語は辺境地帯ほど、古音が保存されるという学説により、現在の石垣島で、標準語でのハ行音がパ行音とされる単語が多い、など。「春過ぎて」で始まる持統天皇の短歌を「パル過ぎて」、「春はあけぼの」で始まる枕草子を「ファルはあけぼの」と音読する資料は興味深いものがありました。

 そこで思い出さされるのが、唐朝に亡命したサーサーン朝の最後の王ヤズダギルドの子、ペーローズが、唐書では、「卑路斯」と記載されている件。無論唐書が書かれた時代(五代、宋)と魏志倭人伝の書かれた3世紀後半とは開きがあり、ペーローズも、近世ペルシア語ではフィールーズと音価が変化しているので、卑弥呼も、フィミコであった可能性もあります。ひとつ共通しているのは、ペーローズからフィールーズへの、P音からPh/F音への変化が、推測される万葉時代から平安期日本語の変化と共通している点。

 卑弥呼の発音はがピミコ、或いはフィミコという説は従来からあるようですが、ペーローズの発音との共通点を考えると、やはりピミコかフィミコに近く、少なくとも「ヒミコ」ではなかったのではないかと思えてきてしまいます。

 とはいえ、唐代に成立した「魏書」で、ペルシアは「波斯」と書かれ、これはファールスの音写とされているが、「ファールス」は近世ペルシア語発音で、中世ペルシア語では「パールス」。唐代に成立した「魏書」が、「Ph/F」音の「ファ」で、五代・宋代に成立した唐書の方が、Ph/Fではなく、P音を使って、ペーローズを「卑」としていたというのは矛盾することになってしまうので、このあたり、どうなのでしょうね。

なお、youtubeに、源氏物語を当時の発音で読んでいる映像があがっています(朗読 源氏物語(Tale of Genji) 若紫1 平安朝日本語復元による試み)。
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by zae06141 | 2010-04-23 23:58 | その他歴史関係 | Comments(2)

国立国会図書館アジア情報室記事紹介:ブーラーク印刷所の歴史と各国図書館事情

 このところ千一夜物語や「カリーラとディムナ」などアラビア文学の情報を調べていたら、「カルカッタ版」、「ブーラーク版」などの言葉を目にするようになり、少し調べてみたところ、ブーラークとは19世紀初頭にカイロに開設された印刷所のことであり、それに関する有用な紹介記事が、国立国会図書館のサイトにありました。

 「アラビア文字活字印刷の普及とムハンマド・アリー時代のブーラーク印刷所」

 この記事によると、アラビア文字の印刷は西欧において開始され、それらがオスマン朝に輸入されたものの、イスラーム世界の印刷業の開始が遅れたのは、主に2つの理由とされています。
 
1.知識は師弟相伝の記憶によって伝えられるべきもの
2.欧州印刷の活字では、美しいアラビア文字の書体を表現できなかった

 さらに、髙松洋一氏の「オスマン朝における活版印刷の導入 - イブラヒム・ミュテフェッリカの印刷所開設(1727) を中心として」という論考では、「1485 年にはすでに、オスマン朝においてムスリムがアラビア文字によって印刷を行なうことは、勅令により禁じられていた」とされています。印刷本による知識の普及が近代西欧飛躍のもっとも重要な要因のひとつであることを考えると、このようなオスマン政府の措置は自らの可能性を閉ざしてしまったものとして非常に残念です。とはいえ、同論考によると、そのオスマン朝でも、欧州製作のアラビア文字の印刷本の輸入は行われており、イスタンブールでは、アラビア文字を利用しない、非ムスリムのトルコ語やペルシア語文献の印刷は行われていたそうですから、もう少しアラビア学芸最盛期の書籍の現存になどが行われていてもよさそうにも思えるのですが、そこまで裾野は広くなかったのでしょうね。

 一方、紙がサーサーン朝時代に中国から輸入されるようになり、紙の製造技術がアッバース朝時代に伝わったイスラーム世界に、同様に中国から印刷術が伝わらなかったのだろうかとの疑問があります。この点については、箕輪成男氏の「紙と羊皮紙・写本の社会史(p155)」に、エジプトのエルハイユムという場所で発見された、900-1350年頃に比定されるパピルスには、印刷されたアラビア文字が記載されているとのこと。同書でも、印刷術が広まらなかったのは、文字の美観にあるとされています。中国から伝わったかどうかは定かでは無いものの、アラビア学芸最盛期には印刷技術があったらしいことと、13世紀以降アラブの退潮とともに最盛期の学芸著作の多くが損失していったということを考えると、情報の流通をコントロールすることは秩序の安定に寄与することはあっても、文化の発展は遅滞もしくは退行してしまうものなのだ、と思わずにはいられません(そう考えると、現世界でネットを制御しようとしている発展中諸国家も、大局的には停滞しかもたらさないのではないかと思うのです)。

 さて、「アラビア文字活字印刷の普及とムハンマド・アリー時代のブーラーク印刷所」には、18世紀初頭ハンガリー出身のイブラヒム・ミュテフェッリカの印刷所作成活動や、ブーラーク印刷所成立の経緯、ブーラーク印刷所で印刷された書籍の分野・言語別分類などが掲載されていて有用です。

 また、この記事の掲載されている、国立国会図書館のアジア情報室というところが出している通報所収の記事は、単なる記事の概要紹介レベルを超えた情報量があり、非常に便利です。

 情報の流通に興味のある私としては、昨今のアジア各国図書館事情を調査した下記報告記は非常に興味深く参考になりました。

ベトナムの出版事情および統計にみる国外の著作動向: アジア情報室通報第2巻第2号

タイの出版界の状況について : アジア情報室通報第5巻第4号

インドネシアの出版、書店、図書館――出張報告 : アジア情報室通報第6巻第3号

エジプトとトルコの出版事情―出張報告 : アジア情報室通報第5巻第2号

カザフスタンの出版事情と図書館-出張報告:アジア情報室通報第6巻第4号

タイの出版、書店、図書館、日本関係機関―出張報告 : アジア情報室通報第6巻第2号

パキスタンの諸言語資源をめぐる現状と課題 : アジア情報室通報第4巻第4号

モンゴル国立中央図書館について: アジア情報室通報第2巻第3号

 アジア情報室の皆様にはこれからも有益なご活動と、サイトへの記事掲載のように、国民へのフィードバックを継続を期待したいと思います。
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by zae06141 | 2010-02-21 22:43 | その他歴史関係 | Comments(0)

1937年と1941年のGDPベスト15国

 アンガス・マディスン教授のExcel表を見ているうちに、戦前の日本の国力はどのような数値となっているのだろうか、と、興味が出てきてしまったので、少し調べてみました。ちょっと検索したところでは特にまとめてあるサイトは見つからなかった為、ここで紹介してみます(ここで言っているGDPとは、マディソン教授が考案した補正値ですので、ご注意ください)。なお、教授のシートは、植民地は含んでいないようなので、旧植民地についてデータがあるものについては、それを加算したものも記載します。

【1】.1937年のGDP(植民地別)

1.米国     832,469
2.ソ連     398,017
3.ドイツ    317,783
4.中国     296,043
5.英国     294,025
6.インド    250,768
7.フランス   188,125
8.日本     165,017
9.イタリア   142,954
10.インドネシア 78,485
11.ポーランド  58,980
12.アルゼンチン 55,650
13.カナダ    50,733
14.ブラジル   48,355
15.オランダ   46,716

【1】.1937年のGDP(植民地込み)

1.米国      854,688 (フィリピンを含む)
2.英国      551,464 (インド、マレーシアを含む)
3.ソ連      398,017
4.ドイツ     317,783
5.中国      296,043
6.日本      195,680 (韓国、台湾含む*1)
7.フランス    188,125 (アルジェリア、ヴェトナムなどのデータ無し)
8.イタリア    142,954 (リビアのデータ無し)
9.オランダ    125,201 (インドネシア含む)
10.ポーランド  58,980
11.アルゼンチン 55,650
12.カナダ    50,733
13.ブラジル   48,355
14.スペイン   45,272
15.チェコスロヴァキア 41,578

*1 教授のシートで「韓国」となっている部分の1937年のデータに、北朝鮮部分を含んでいるかどうかは不明。当時の日本の領土であり、資料が残っているので、北朝鮮部分についても調査は可能だと思うのですが、教授の過去GDP算出は、現在の「領土」ベースで記載していることが多いので、この部分はなんともいえないところです。

【2】1941のGDP(植民地別)

1.米国       1,098,921
2.ドイツ       401,174
3.英国        360,737
4.ソ連        333,656
5.インド       270,531
6.日本        212,594
7.イタリア      153,517
8.フランス      131,052
9.インドネシア    89,316
10.カナダ       71,508
11.アルゼンチン   61,986
12.ブラジル      54,981
13.スペイン      52,726
14.オーストラリア  48,271
15.メキシコ      40,851

*マディソン・シートでは、中国のデータが欠損しています。

【2】1941のGDP(植民地込み)

1.米国       1,098,921 (フィリッピンのデータ無し)
2.ドイツ        740,477 (フランス、ベルギー、オランダ、ギリシア含む。ユーゴはデータ無し)
3.英国         622,012 (インド、マレーシア含む)
4.ソ連         333,656
5.日本         287,416 (韓国、台湾含む、ヴェトナムのデータ無し)
6.イタリア       153,517 (リビアのデータ無し)
7.カナダ        71,508
8.アルゼンチン    61,986
9.ブラジル       54,981
10.スペイン      52,726
11.オーストラリア  48,271
12.メキシコ      40,851
13.スウェーデン   31,395
14.トルコ        27,158
15.スイス       26,851

 占領にはコストがかかる為、被占領国のGDPをそのまま加算することに意味があるのか、という議論もあるかと思いますが、まあ数字のお遊びですから、加算してみました。これを見ると、1941年当時のドイツが、イタリアとあわせると、英国とソ連相当くらいにはなるので、「米国の参戦さえなければ、いけそうだ」、と考えたのも納得できそうな値にはなります。1937年当時の日本も、中国相手だけなら、なんとかなる、と考えてしまう程度には、そこそこの数値となっています。しかし、米国があまりにも突出している為、米国が参戦した時点で終わったのは無理からぬところだと言えそうです。
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by zae06141 | 2010-01-03 09:29 | その他歴史関係 | Comments(3)

紀元前後と2008年の世界人口の内訳

 アンガス・マディソン教授の資料が、教授のサイトで公開されています。ここの資料をもとに、各時代の人口とGDPをまとめた「世界日本化計画」というサイトを見つけました。大変な労作で、非常に参考になります。こちらのURLに、一覧頁があります
 私の興味は、特に下記の4つの資料にあり、どれも興味深く参考になりました。

紀元1年世界全体の人口とGDP
紀元1年のローマ帝国の各地域の人口とGDP
紀元1000年の世界全体の人口とGDP

 しかし、古代イラン史に興味のある私としては、イラクの人口とGDPが低過ぎる点に納得できなかった為、マディソン教授の資料、Statistics on World Population, GDP and Per Capita GDP, 1-2006 AD (Last update: March 2009, horizontal file, copyright Angus Maddison) を参照してみたところ、そもそも教授の資料の数値におけるイラクの値に原因があることがわかりました。McCormick.Adams教授の南イラクの研究によると(こちらに以前まとめたパルティア・サーサーン朝時代に関する概要があります)、パルティア・サーサーン朝のイラクは、パルティア・サーサーン時代は大変繁栄していて、それが、サーサーン朝末期の混乱とイスラームの侵攻による破壊を経て、都市や集落の規模が、イスラーム初期には、サーサーン朝期の半分程度にまで落ちていることが明らかにされています。GDPも人口も、パルティア・サーサーン朝とイスラーム期では大きな相違があったことがわかるのですが、マディソン教授のデータでは、イラクの人口は、紀元1年に100万、紀元1000年に200万となっていてイランの紀元1年と1000年が400万、450万となっている点と比べると、非常に低い値に留まっています。ところで、湯浅赳男氏「文明の人口史―人類と環境との衝突、一万年史 」の5章第8節「イスラーム文明と人口」の章p118では、ラッセル氏の(「後期古代と中世の人口」)研究を引いて、7世紀のイスラーム期イラクの人口を910万と記載しています。7世紀のイスラーム期とは、既にサーサーン朝末期の混乱による農地荒廃と、イスラーム初期における、南イラクの一部地域が放棄された時期であり、イスラーム帝国の重心は、アラビアとシリアにあった時期です。バグダードの建設も8世紀後半。となると、サーサーン朝の繁栄のピーク期は、910万を上回る人口とGDPがあってもおかしくはないということになります。紀元前後のパルティア期でさえ、Adams氏の主張では初期イスラーム期を上回る値となっていることから、パルティア期にも900万前後の人口があったとしてもおかしくはないと言えそうです。

 ところで、湯浅氏の前掲書p124では、他の研究者の例も引いて、初期イスラーム期のイラク人口について、ベロッホ氏の600から800万、イサウィ氏の500から600万という数値を引いていて、いづれにしてもマディソン教授の掲載している紀元1年の100万、1000年の200万という値とは大きな幅があります。これら人口推定の根拠として、当時のエジプトの税収よりもイラクの税収の方が高く、そのエジプトの人口が400万から500万とされている為、イラクの人口が、各氏とも500万以上の値を示す結果となっているとのことです(ちなみにマディソン教授のデータでも、エジプトの紀元1年に450万、紀元1000年に500万となっていて、上記各氏の値とほぼ同じ値となっている)。

  というわけで、所詮は数字のお遊び、イラクに910万という数値を適用し、紀元1年の人口グラフを修正したものを作成しました。その他、グラフ作成時に加工したポイントには下記のものがあります。

・ローマ帝国の人口は、湯浅氏の著作に掲載されている、ベロッホ氏の数値5400万を採用(内訳はこちら)。マディソン氏の算出値だと、東方領土の数値に欠損が多いこともあり、掲載値だけを採用すると、4000万強にしかならないこともあり、領土全域について記載のある5400万を採用した。
・中央アジア・北アジアの人口は、「中国人口通史(4):東漢巻-中国人口通史叢書 袁延勝 著 人民出版社」記載の値、約635万を採用(こちらに数値をまとめた資料があります
・インドネシア以外の東アジアと、コーカサス・シリア、地中海東海岸の値が、マディソン・シートに記載が無い為、数値の記載のあるアジア諸国の値をアジア合計値から差し引いたものを、4等分し、1/4づつ東南アジアとパルティアに配分した。残りの1/2はローマ東方領土と中央アジア・北アジアに相当する為、こちらは、上記5400、635万に含まれているものとみなし、省いた。
・旧ソ連の値も、コーカサス、中央アジアに含まれる部分があるため、390万のうち100万を「その他欧州」に加算し、他は省いた。

 以上の加工の結果、紀元1の人口グラフは下記となりました。

a0094433_16562572.jpg


 ローマ帝国が22%、パルティア圏7%、インド31%、漢帝国29%となりました。
 更に、参考までに、マディソン教授のシートから2008年の人口割合のグラフも作成してみました。古代世界と比較しやすくする為、欧米圏、イスラーム圏の間は白い線を引きました。下記は、欧米圏25%、イスラーム圏12%、インド20%、中国20%となっています。

a0094433_16563332.jpg


なお、下記加工を行っています。
・インドの値は、バングラディッシュ、スリランカ、ネパールを含む
・中国は、香港・台湾を含む
・インドネシアとマレーシアは、東南アジアに含む

 結局、結論ありきの牽強付会な結果としかなっていないとはいえ、欧州とローマ、インド、パルティアとイスラーム、中国の割合は、それ程大きく変わっているわけではない、ということになっています。とへいえ、サハラ以南のアフリカと東南アジアの人口増加が非常に目立つ結果となっていることがよくわかりました。7世紀に、アラブが急激に世界史を動かしたように、アフリカや東南アジアが世界を動かす日がやってくるのかも知れません。
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by zae06141 | 2010-01-02 19:15 | その他歴史関係 | Comments(0)

東京の地下鉄路線図と漢代領域図って似てる感じがします(+少しまじめな中国歴史地図の話)。

 という、どうでもいい話題(後半は少しまともな話です)。

上が漢代(Wikipedia掲載)、下が東京地下鉄路線図。漢代地図は、ちょっと上下の縮尺を縮小していますが、そうすることで一層似てくるような気がします(特に大江戸線の路線が)。

a0094433_1133086.jpg

こちらのWikipedia掲載地図を加工しました

a0094433_114059.jpg


ところで、中国版Wikiの漢朝の項目を見ると、紀元前87年と紀元2年の漢代地図が2つ掲載されています。

紀元前87年の地図はこちら

紀元2年の地図はこちら

両者を見比べると、紀元2年の領域図では、あきらかに隙間が増え、領域が縮小していることがわかります。今資料を参照したわけではないのですが、福建省のあたりは、紀元87年当時には、武帝が内地移住政策をとったため、一部の居住者が残っていたものの、基本的には放棄されていた筈です(史記か漢書にそのような記載がある)。
 ところで、中国科学技術院が出している谭其骧編公式歴史地図によると、前漢は、後期の状況を記載したものと(具体的年号は書いていない)となっていて、こちらで参照することができます。これによると、当時の浙江省には、西部都尉とか、東部都尉、南部都尉などの役人の駐在所があり、現福建省を統括していた筈なので、前87年の地図が、福建省全土を覆っているのは、そのへんの事情を詳細に反映しているものなのかも知れません(更には、現福州のあたりに、治県という役所もありました(治県の遺跡情報はこちら)。

 一方、谭其骧編公式歴史地図の後漢代の地図(こちら)では、西部都尉、東部都尉、南部都尉は掲載されておらず、現福州に、東治、現温州に永寧が置かれており、Wikiの地図を拡大してみると、そのあたりも点として塗りつぶされているようにも見えます。つまり、中国語版Wikiの2つの掲載地図は、かなり正確な状況を著しているものなのかも知れません。

 ところで、私としては、Wikiの紀元2年の地図の方が、当時政府がちゃんと把握していた領土、実情に即しているように思え、この地図は結構好きです。同じ理由で、Wiki掲載の秦朝の地図や、三国時代の地図も、一般的な地図では、塗りつぶしてある箇所が、ちゃんと隙間だらけになっているところが、リアルな感じがして好きです。

 ところで、中国版Wiki掲載中国歴史地図でちょっと興味を引かれるのは、明代の地図。我々が一般的に目にするものと同じような明代地図(1580年)なのですが、中国政府の公式見解では、この時代はチベットは領土になっているんですよね。谭其骧編公式歴史地図でも、後期明代地図(1582年)では、チベットはちゃんと明朝領として塗りつぶされています。中国版Wikiは、中国国内でも参照できるので、この辺が鷹揚というか、単に放置されているだけというか、まあこんな感じではありますね。

 最近のWikiの中国歴史地図では、ここでご紹介したような、単にベタで領域を塗りつぶすのではなく、実際の把握地域を正確に記そうという努力が見られる地図が増えてきて、この点は非常に嬉しい傾向だと思っています。最近は、宋朝のもできたようです(半年前には確か無かった。ただ高麗領がちょっと広すぎな気がしますが。。。)。そのうち唐朝や清朝もできるかも知れません。あと、西晋の行政区画地図というのも中国版Wikiに掲載されています。こちらも大変珍しい貴重な資料だと思います。
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by zae06141 | 2009-12-29 02:13 | その他歴史関係 | Comments(0)

書籍「ペルシア語が結んだ世界」

 最近面白い歴史書籍に続けて出会いました。「夢想の中のビザンティウム」、「ガラスの中の古代ローマ」、「古代仕事大全」、そして、本書「ペルシア語が結んだ世界」です。中国の歴史以外の書籍に飢えていたこともあり、古本が出るまで我慢できず、いづれも高額な書籍ながらジュンク堂書店の割引セールス(といっても5%だけだけど)にも嵌められたこともあって買ってしまいました。で、「ペルシア語が結んだ世界」がよみ終わり、「夢想の中のビザンティウム」も大体終わってきたところ。どちらも元はとれた感じがしています。「夢想の中のビザンティウム」は次回にして、今回は「ペルシア語が結んだ世界」の感想。

 もともと、17世紀のイスラーム世界は、安定した時代ということで興味を持っていたのですが、オルハン・パムク「わたしの名は紅」で、ティムール朝が身近な過去として描かれ、アクバル治下のインドが「同じ世界」とも感じられる描き方をされていたことで、単なる通史ではなく、よりミクロな視点で、この時代・地域を知ることができないだろうか、と思っていたところ、本書が出たので、早速読んでみました。

 非常に面白く、様々な知見を得ることができ、3000円はいい買い物だったように思えます。

 まず、近世イスラム世界でのペルシア語の位置づけについての認識を改めさせられました。
 オスマン朝・サファヴィー朝・ムガル朝でペルシア語が行政・文芸語だったのは知ってはいたものの、漠然と、ラテン語やサンスクリット語・古代漢語・シュメール語などが、口語としては死語となって以降も、学術分野や行政分野で古典文語として生き延びたのと同じで、近世イスラーム世界におけるペルシア語も同じようなものだったのではと思いこんでいました。行政で利用されていたので、近世におけるラテン語などとは違っていることはよく考えればわかることなのですが、なんとなくラテン語やシュメル語のようなものだとの思い込んでいたのでした。しかし、実際は近世の欧州各国の宮廷におけるフランス語などと同様に国際共通語としての流行であると認識が改まりました。

 更には、このペルシア語の流行は、古代ペルシア以来の歴史的イラン世界が直接影響しているものと思い込んでいて、この影響関係自体は誤りではなさそうなのですが、「歴史的イラン世界」についての認識の方が改めさせられることになりました。古代地中海世界や中華世界、インド世界と並ぶ、「大イラン圏」という認識は元々あったのですが、イラン世界の中心はあくまでパルティアやサーサーン朝だとの考えがあり、中央アジアは、イラン系言語を話すイラン系民族の地ではあっても、イラン世界の周辺だと軽視していました。中央アジアは、イラン本国に対して、「トゥーラーン」の地にあたり、中国本土に対する、匈奴と西域に相当する縁辺地帯なのではないか、との考えです。とはいえ、「ヴィースとラーミーン」などでは、パルティアの中心はメルブであり、また、近年の考古学上の成果からは、古代メルブが、メソポタミアに匹敵する程古くから開けた、かなりの先進地帯であったらしいことが推測されるようになってきているなど、なんとなく、イラン世界は、メソポタミアやファールス地方など南西部と、メルブを中心とするホラサーン地方と2つの中心があったのではないかと薄々感じてはいたのですが、本書を読んで(本書では古代については言及されていないものの)その印象は強まりました。ダリウス3世やヤズドギルド3世がメルブ方面へ逃亡したのも、西から攻められたから単に東へ逃亡した、というだけではなく、メルブ方面が、イラン世界のひとつの中心だったからではないのか、とさえ思ったりしています*1。750年のアッバース革命の中心地はホラサーンであり、アッバース朝のマームーンの拠点がメルブだったのも、辺境だから反乱を起こしやすかった、というだけではないような気がしてきました。アラブ征服後のペルシア文芸復興運動が、サーマーン朝下で発展したのも、以前は、中世初期の西欧におけるキリスト教文化の保存が、ブリテン島で行われたのと同様に、周辺地域で古い文化が保存される現象なのかもと思っていたのですが、これも事実は逆で、このあたりが古来から中心地だったからなのかも知れません。そう考えると、近世フランス語が欧州宮廷で流行し、フランスが近世欧州の文化的中心となった背景には、西欧の中でラテン語文化を保存した地域だった背景があったのと同様、サーマーン朝の領域が、ひとつの中心地帯だったからなのかも知れません。そう考えると、歴史的イラン世界と言える地域は、旧サーサーン朝の領域である所謂「イーラーン・ザミーン(イーラーン・ザーミーン)」と呼ばれる地域だけではなく、アム川の北、「トゥーラーン」をも含む地域なのかも知れません。

*1 ゾロアスター教の伝説では、ゾロアスターを保護したヒスタスペス王はバクトリアの王だったとの説があり、更に、シチリアのディオドロスの伝えるセミラミス伝説では、セミラミスが東方へ遠征し、バクトリアを支配したとの話もでてきます。こうした伝説も、当時のマルギアナ、バクトリアあたりがひとつの中心地帯だったことを伝えているのかも知れません。

 ところで、近代国民国家史観からすると、サファヴィー朝はイラン史、ムガル朝はインド史となり、セルジューク朝やチムール朝などは収まりが悪い感じがあったのですが、これについても、本書を読むうちに、「ペルシア語文化圏」と括ることですっきりするようになりました。チャガタイ汗国やイル汗国の領域は概ね、イラン世界=ペルシア語文化圏であって、チムール朝の征服行動は、旧モンゴル帝国を意識してアナトリアやロシア、インドへ遠征したとはいえ、王朝の領土は「ペルシア語文化圏」にだいたい一致しているように思えます。同時に、ムガル朝はインド史ではあっても「インド世界」とは思えなくなり、サファヴィー朝は「ペルシア語文化圏」の中心というわけではなく、一端に過ぎないと感じられるようにもなりました。

 このように、全時代を通じた、イラン世界の認識にまで影響を受ける結果となりました。私にとっては、これだけでも十分有用な書籍と言えるわけですが、本書には、他にも得がたい内容があります。

 最近は、通史的な、時代の縦軸を描いた書籍に飽き足りなくなってきて、特定の時代のみに注目した歴史書籍をよみたいと思うようになってきました。だいたい、概説史を読んだ後は、その時代の政治や経済・社会・文化史など、テーマを絞った書籍を読みたくなるわけですが(例えば漢代貨幣史とか明代経済史とか)、最近はこの段階も通り越して、更によりミクロな視点の記述を読みたいと思うようになってきています。典型例は、「万暦十五年」のような、時代の横軸を描いた書籍です。現在読んでいる「夢想の中のビザンティウム」も、「12世紀フランスの文学史」ではなく、「12世紀フランス文学を通して見た、当時の西欧人のビザンツ認識」に絞り、一見文学作品の製作年代の推論や紹介を行っているようでいて、全体としては、第四回十字軍によるコンスタンティノープル征服に至る西欧人の心性の探求となっていて、ミクロな視点から時代の横軸を描いた内容となっています。「ペルシア語が結んだ世界」でも、8人の論者が、異なった視点や素材を用いて10世紀から19世紀のペルシア語文化圏について論考を寄せていて、領域はアナトリア、クリミア半島、イラン、中央アジア、インド、中国に跨っており、時代の横軸を描いていると言える側面があります。本書の魅力と思えるのは、論者の専門分野や、残存資料の制約から来る偶然の産物なのかも知れませんが、論者が取り上げる素材やトピックが、地域毎に、詩人伝や法律文書、歴史書、トルコ語文学作品、知識人の著作などと異なっている点にもあるように思えます。歴史書についてはクリミア汗国、法律文書については、西トルキスタン、スーフィー文書についてはイランなど、それぞれのトピック毎に地域と時代が異なる為、「ペルシア語文化圏」の全体を扱った通史ではなく、特定の時代について、全部のトピックを網羅したわけでもない、いわば、「ペルシア語文化圏」の世界を斜めに横切ったような著作となっている点が、本書の魅力となっているように思えるのです。
 本書を通じて、、詩人伝の成立過程や法廷業務・知識人の教育課程・歴史書の歴史観など様々な、ミクロな切り口からこの歴史的世界の社会を一端伺い知ることができると同時に、他の地域や時代での同様な事柄はどうなっているのだろう、と、更に詳細な内容への関心を掻き立てられました。

 とまあ、久しぶりに記事を書いているので、結構な長文、しかもだらだらと冗長な文章となってしまいましたが、まだ書き足りないので、一部の内容を分割することにしました。イラン史やインド史、トルコ史などの枠組みではなく、「ペルシア語文化圏世界」という枠組みで、この時代の詳細を扱った書籍が、今後も増えて欲しいと思います。


 ところで、「ペルシア語が結んだ世界」の内容自体については、古代ペルシアに関する2つの知見を得ることができました。一つは近世ペルシア語圏の歴史認識。もうひとつはブズルグミフルに関する情報です。

「5章18世紀クリミアのオスマン語史書「諸情報の要諦」における歴史叙述」では、4冊の歴史書が紹介されています。

・バイダーウィー「歴史の秩序」(1275年)
 -アダム以降の諸預言者、古代ペルシアの諸王朝、イスラームのカリフトイマーム、アッバース朝(以下略)
・シャラフッディーン・アリー・ヤズディー(-1454年)「世界征服者の歴史」(1430年頃)
 -天地創造と預言者達、トルコとモンゴルの伝承、モンゴル帝国史、ティムールの祖先、ティムール伝
・ミールホーンド(-1498年)「清浄の楽園」
 -天地創造と諸預言者、古代ペルシアの諸王朝、ムハンマド、正統カリフ、ウマイヤ朝、アッバース朝(以下略)
・アブデュルガッサール(17世紀末-18世紀中頃)「諸情報の要諦」
 -ピーシュダーディー朝、カヤーニー朝、アレクサンドロスからサーサーン朝の間の諸王、サーサーン朝、周辺地域、ムハンマド、ウマイヤ朝、アッバース朝(以下略)

 以上の書籍中の古代ペルシアの部分は、フィルダウシーの「王書」をネタ本としているとのことですが近世ペルシア語圏においては、古代ペルシアが、「正統王朝」的に扱われていることがよくわかります。アブデュルガッサール「諸情報の要諦」は、最終的にモンゴル帝国とティムール朝を経由してオスマン朝の歴史に接続しているオスマン語書籍であるにも関わらず、トルコやモンゴルの創世神話ではなく、イスラームの創世神話(ユダヤ教の創世神話に古代ペルシアが接続している)となっている点に、この時代・地域の歴史認識が見て取れると言えそうです。

 一方、ブズルグミフルの伝記を読むのは、今や夢のひとつとなってしまっているのですが、ブズルグミフルとホスロー1世の問答が、ハムドゥッラー・ムスタウフィー(1281頃~1349年頃)の「選史」(1330年)の「賢者伝」、ブズルグミフルの項や、ハイダーウィー(が著者と推測される)の「精髄」(13世紀)に掲載されていて、アブデュルガッサールは、「諸情報の要諦」に「精髄」経由で、この問答を掲載しているとのことです。これはひょっとしたら、中世ペルシア語文献「ブズルグミフルの回想」ののとかも知れません。そうして、ひょっとしたら、「賢者伝」所収ということは、人生訓(ハンダルズ)ではなく、伝記かも知れません。アブデュルガッサールは英訳はでていなさそうなのですが、ハムドゥッラー・ムスタウフィーはどうなのでしょうか。調べてみる価値はありそうです。
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by zae06141 | 2009-11-28 23:59 | その他歴史関係 | Comments(0)

善く敗るる者は亡びず ~小説「鷺と雪」~

 「善く敗るる者は亡びず」

 いままであまり深く考えたことがなかったこの言葉が、最近心に響いています。
 きっかけは、北村薫の直木賞受賞作「鷺と雪」の中での引用。

 「鷺と雪」は、書籍としては「街の灯」「玻璃の天」から続く短編集3部作のシリーズものですが、この中の「玻璃の天」の第1話「幻の橋」と「鷺と雪」第3話「鷺と雪」の2箇所でこの故事成語が引用されています。当初「街の灯」を読んだ時は、昭和の東京の風景を、詩情に満ちた表現で再現したライトなミステリーという感覚で、主人公が少女であることから、「空飛ぶ馬」シリーズの昭和初期に舞台をとった焼き直し版という感触もあったので、「悪くないけど、直木賞を取るほどの作品だろうか」と思っていたのですが、「鷺と雪」まで読み終えてみると、「善く敗るる者は亡びず」というこの言葉が、戦前戦後の日本の興亡を的確に捉えた言葉だと思えるようになり、時間が経つにつれて、じわりと胸に迫ってくるようになりました。

 「善く敗るる者は亡びず」は、「漢書」の「刑法志」に登場する言葉で、「善く師する者は陳せず」「善く陳する者は戦わず」「善く戦う者は敗れず」に続く言葉で、これらの言葉は、「幻の橋」(文庫版p84)では以下のように解説されています。

 「うまく軍を動かす者なら、布陣せずにことを解決する。しかし、その才がなく敵と対峙することになっても、うまく陣を敷ければ、それだけでことを解決できる。さらに、その才がなく実践となっても、うまく戦えば負けない」

 ところが、「幻の橋」でも「鷺と雪」でも、「善く敗るる者は亡びず」については、特に解説がありません。そこで、「漢書」を取り出してきて、この含蓄ある言葉が一体どういう経緯で使われているのか、問題の箇所の前後を見てみました。すると、語源となった背景として語られている事件は、意外にしょぼい話であることがわかりました。春秋時代の楚の昭王(前515-489年)の時代、闔閭(前514-496年)王の元、急速に力をつけた辺境の国呉が、楚からの亡命者伍子胥に率いられて楚の都、郢を陥落させ、昭王が隋国に亡命し、その後、楚の家臣申包胥が秦に救援を求めにいき、秦公の庭で7日7晩救援を訴え続け、その忠誠心にうたれた秦公が出兵し、昭王は郢を回復することができた、という事件です。これが「善く敗るる者」なのかなぁ。単に敗北して亡命し、他国に救援を求めて、他国の力で回復しただけで、歴史上ありふれた出来事だし、特に含蓄ある内容の感じられる事件ではないじゃないの。と少々がっかりしてしまったのですが、しばらくしてくると、この言葉は、寧ろ、「鷺と雪」において、作者によって、この言葉が持つ本来の意味を付与されたと思えるようになってきました。

 この言葉が、日本を日中戦争へと向かわせた、いくつかあるターニングポイントの中の、おそらくもっとも重要であろう事件のひとつである226事件前夜に、その後の全てを予感させる言葉として、登場人物たちに語らせたこと、そうして、「亡びず」という言葉通り、戦後の日本が復興を遂げたという結果があること。「鷺と雪」終盤の記述をひとたび読んでしまうと、これ以上に、「善く敗るる者は亡びず」という言葉にさわしい使われ方、背景となった事件は無いのではないか、と思えるほど、絶妙な引用だと思えるようになってきました。

 「鷺と雪」は、終盤近くのこの言葉一発で、単なる軽目の時代劇短編連作を越えて、重厚な歴史作品に匹敵する程の「歴史作」となったように思え、この作品が直木賞受賞作であるのも納得できるようになりました。

 更には、最近の日本が戦後繁栄のピークを越え、衰退期に入ってきているのではないかとの議論もある昨今の日本人にとっては、「善く敗るる」という言葉は、「今後の衰退をどのように乗り越えるのか」という観点で、胸に迫るものがあるのではないでしょうか。負けが見えている戦い、衰退期の社会にとって、「善く敗るる」という言葉は、その後の具体的な希望が見えない段階においてこそ、力となる言葉なのではないかと思うのです。この意味では、この言葉がやたらと胸に響いているのも、昨今の私自身の状況にも重なるようにも思えるのです。40歳を越えて人生後半に入り、成功をしているとは言えない状況で残りの人生をどのように生きるのか、という点で、今の私には、「善く敗るる」という言葉は、重要なキーワードとなりつつある感じです。

 久々に味わい深い歴史小説に出会ったという点、現在の日本や、自分自身と重なる点、など、多くの点で、「鷺と雪」は、私にとって強い印象を残す作品となりました。
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by zae06141 | 2009-10-25 18:37 | その他歴史関係 | Comments(0)