古代世界の午後雑記(移行中)


「古代世界の午後」更新履歴と雑記
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評論社『世界の女性史』全19巻(1976-78年)の概要

※古代ギリシア+アケメネス朝映画『アレクサンダー』(2004年米)Gyaoで無料放映中(こちら

 昨年春頃、女性史に興味を持って西洋女性史の本を何冊か読みましたが、『ドゥオダの遺訓書』→『更科日記』→中世日本史という展開で読書方向が変わり、夏場には2年ぶりのIMDb検索で南インド映画→インド関連(料理や女性著述家やムガル財政等)とどんどん女性史から外れてゆき、結局『世界の女性史』シリーズは図書館でざっと確認する程度で終わってしまいました。
 各巻は以下の構成となっています。

世界の女性史 第1巻 『神話の女 ー死と性と月と豊穣』 1978年
世界の女性史 第2巻 『未開社会の女 ー母権制の謎』 1976年
世界の女性史 第3巻 『古代(美の世界の女たち)』 1976年
世界の女性史 第4巻 『フランスⅠ ー愛の世界の女たち』1976年
世界の女性史 第5巻 『フランスⅡ ー自由の国の女たち』1977年
世界の女性史 第6巻 『イギリスⅠ ー忍従より自由へ』 1976年
世界の女性史 第7巻 『イギリスⅡ ー英文学のヒロインたち』 1976年
世界の女性史 第8巻 『イタリア ー南欧の永遠の女たち』 1977年
世界の女性史 第9巻 『アメリカⅠ ー新大陸の女性たち』 1976年
世界の女性史 第10巻 『アメリカⅡ ー新しい女性像を求めて』1977年
世界の女性史 第11巻 『ロシアⅠ ー大地に生きる女たち』 1976年
世界の女性史 第12巻 『ロシアⅡ・東欧 ー未来を築く女たち』 1976年
世界の女性史 第13巻 『中東・アフリカⅠ ー東方の輝き』 1977年
世界の女性史 第14巻 『中東・アフリカ Ⅱ ー閉ざされた世界から』 1978年
世界の女性史 第15巻 『インド ーサリーの女たち』 1976年
世界の女性史 第16巻 『中国Ⅰ ー儒教社会の女性たち』 1978年
世界の女性史 第17巻 『中国Ⅱ ー革命の中の女性たち』1976年
世界の女性史 第18巻 『日本Ⅰ ー王朝の世と女性の役割』 1977年
世界の女性史 第19巻 『日本Ⅱ ー目覚め行く女性の哀歓』 1978年


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by zae06141 | 2018-02-19 00:12 | その他歴史関係 | Comments(0)

~輝ける十四世紀~カレル四世のドラマ『ローマ人の王のための投票』(2016年)

 "輝ける十四世紀"とは、1978年に出版された、講談社世界の歴史19巻『ビザンツと東欧世界』に登場する章の題名です。現在"輝ける十四世紀"ないし"輝ける14世紀"で検索すると2件しかヒットしません。うちひとつは私のサイトです。そういう非常にマイナーな言葉なので、すこし普及努力をするために記事のタイトルに入れてみました。

 "輝ける十四世紀"とは、十三世紀のモンゴル禍の後、揃って名君が出現した東欧諸国の十四世紀のことです。その名君たちとは以下の4名のことです。

ボヘミア  カール四世(在1346-78年)(1316年生)
ポーランド カジェミシュ(在1333-70年)(1310年生)
ハンガリー ラヨシュ一世(在1342-82年)(1326年生)
セルビア  ステファン・ドゥシャン(在1331-55年)(1308年生)


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by zae06141 | 2017-07-22 00:19 | その他歴史関係 | Comments(0)

清朝バロック建築「北京圆明园(圆明园,円明園)」の復元建築物の画像

 清朝前期北京の宮廷に建設された円明園には、乾隆帝時代に西欧バロック建築の影響をうけた建築物が幾つか建てられました。これらは1860年、英仏とのアロー号戦争で廃墟となり、現在では一部の土台とその装飾建築だけが残されています。中国国内には、各地のテーマパークに円明園の復元建築があるようなのですが、ネットで「円明園,復元」で検索して出てくる復元建築の画像は「遠瀛観」の画像だけのようで、他の建築物の画像はなさそうです。深圳市の中央部にある有名な「世界之窓」というテーマパーク(世界の有名建築物の巨大ミニチュアパーク)の東隣にある、「錦繍中華」という、中国国内の有名建築物の巨大ミニチュアのあるテーマパークに円明園の復元建築群があるので、その画像を掲載してみました(画像は2015年秋訪問時のものです。なお、記事を書きながら調査したところ、円明園で検索しても画像は出てきませんが「谐奇趣」、「远瀛观」、「海晏堂」と、建築物ごとの名称で検索すると画像が出てくることがわかりました。各地の復元建築や復元図は若干結構異なっていたりすることがわかります)。

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by zae06141 | 2017-01-10 00:08 | その他歴史関係 | Comments(0)

オスマン帝国歴史地図帳『A Hitorical geography of the Ottoman Empire』(1650年まで) ver2

ずっと探していた、オスマン帝国歴史地図帳、ようやく求めていたものに近いものを見つけました。探していたのは、オスマン帝国の地方行政区区画(州県)変遷図です。オスマン帝国の領土拡張ー縮小地図はよく見かけますが、州県地図は見たことがありません。しかも数百年という広域支配の間の州県統廃合などに変わっているはずなので、そのあたりを知りたいと思っていました。

州県変遷図まではありませんでしたが、1525年と1650年のバルカン半島の州県地図が掲載されており取り合えず満足です(小アジアの地図は、地図に年代が書いてないので不明です。次に図書館にいった時に確認したいと思います)。また、この地図はいくつか珍しい地図が掲載されています。地図帳紹介の記事を作成しましたので、ご興味のある方はこちらをご覧ください

※12/25 追記
ランゴバルド諸侯国前半期(カール大帝による征服以前)の政治通史史料パウルス・ディアコヌスの『ランゴバルドの歴史』の邦訳が30日に知泉書館から出版されることを知りました(こちら)。今年はカロリング朝の史料『ニタルトの歴史四巻』の邦訳(こちら)も同出版社から出ていますし、2010年にはカロリング朝史料『母が子に与うる遺訓の書―ドゥオダの『手引書』』(こちら)を出すなど、知泉書館だけの話なのか、日本の歴史ファンの間でカロリング朝が密かに人気なのか不明ですが、カロリング朝ブームが来るのかも知れません。最近古代末期の一環として7世紀西欧(仏西伊)の社会経済文化史に興味があるので、あまり政治史に興味はないのですが、パウルス・ディアコヌスの『ランゴバルドの歴史』は買ってしまいそうです。
 更にいえば、イタリア半島中世については、カール大帝以後、(オットー大帝の使節)リウトプランド以前の200年間の政治社会経済文化史にも興味があり、そのあたりの概説書すら日本語書籍ではなかなかないので、何か史料がわからないかと、仕方なく今年塩野七生氏の『ローマ亡き後の地中海世界』(上)の前半を読んでみたのですが、予想通りひっかかるところばかりでなかなか読み進められないということになりました。例えば、もっとも特徴的な例として、イスラム勢力がルーニというジェノヴァ南東の都市を略奪しているのですが、p105で849年に「ルーニはこれ以降廃墟のままで残る」と書いているのに、p185の1016年の事件のくだりで「ルーニは、ムシェットとその配下の猛攻を浴びて廃墟と化す」と書いています。思わず太平洋戦争中、昭和天皇が、「サラトガが沈んだのはこれで4度目だが」と苦言を呈したとかいうエピソードを思い出してしまいました(これ本当なんでしょうか。昭和天皇実録に載ってるのでしょうか?)。

一度廃墟となって復興して再度廃墟となった可能性もあるので調べてみたのですが、どうやらそうではなく、849年のは略奪だけで、860年にはノルマン人に略奪されているので、「これ以降廃墟のままで残る」という部分は塩野氏の修辞だと思われるわけです。こういう筆のすさびというか、文章に酔ったような極端な表現をするようなところが塩野氏の作品をあまり好きになれなくなってしまった部分なんですよね(ギボンについても同じですけど。まあどちらも文学なので当然ではあるのですが、、、All of them なのか、Some of them なのか、one of themなのか、80
%なのか60、40、20%或いは数%なのか、こういうところは印象に大きく影響するので文学でないならば、厳密に表現する必要があると思うわけです)。あと860年のノルマンによる略奪の記載を書いていないところなども気になるわけです。しかし、塩野氏の文章は、中世イタリア人側の史料に刻まれた「イスラム海賊の恐怖」をそのまま描いている、と理解すれば納得できるわけです。もしかしたら本当に中世キリスト教徒側の史料にルーニは2回廃墟となった、と書かれているのかも知れませんし、それが事実ではなくても、当時の史料作者自身がイスラム海賊の恐怖を宣伝するためにそのような文章を書いたのかも知れませんし。こういうところをきちんと本文や註で出典を示し、更に検証もしてくれれば、「物語」ではなく、「中世キリスト教徒にとっての現実」を描いた(イスラム側の言い分や検証を欠いている)歴史書として読めるのですが、、、、
 ちなみに、この前発見した学生時代の読書リストを見ていて、オスマン帝国に興味を持ったルーツは、塩野氏の『海の都の物語』なのではないか、という気がしています。当時の塩野氏はよかったのになあ、、、というのは記憶だけの話で事実は違うかも知れないので、そのうち『海の都・・』もざっと見返してみたいと思います。私の記憶によれば、塩野氏が極端な書き方をするようになったのは、確か本人が、『ローマ人の物語』の真ん中くらい(2000年頃?)に、「もうこの先のキャリアを気にする必要もない年齢になったので、いいたいことを書くようになりました」と書いたor発言した後あたりから、という記憶があり、ご本人がわかってやっているのであればいいのではないか。ただし私には合わない文章・内容になってしまったけど。と思うようになりました。塩野氏の文章に単純に酔っていられた頃はある意味幸せではありました。しかしこれは、塩野氏も変わったが、私も変わったor知識がついた、ということなのかも知れないので、できれば来年『海の都・・・』等昔読んだ塩野本を読み直してみたいと思っています。

※※2017/Feb/28追記 
 26年ぶりに中公文庫版『海の都の物語(下)』をぱらぱらとめくってみて、2分もたたないうちに、以下の記載が目に飛び込んできました。

「発端は、四世紀になされた、コンスタンティヌス大帝のキリスト教公認にまでさかのぼる。大帝がキリスト教を、ローマ帝国の国教とせずに、他の宗教と同格にして、公認だけしていれば問題は生じなかったのであった(p408)」

この文章は、

「「大帝キリスト教を、ローマ帝国の国教とせずに、他の宗教と同格にして、公認だけしてい」た。その後の諸帝も「公認だけしていれば問題は生じなかったのであった」」

と、「大帝が」を「大帝は」に修正し、「た。その後の諸帝も」を補足して分割すれば問題ない文章となります。しかし、普通に読めば、「公認だけしていれば」の主語は「大帝が」であり、コンスタンティヌス大帝は公認だけにとどめておかなかったから問題が生じた=国教化したのは大帝である、と読めるのではないでしょうか。

ローマ帝国がキリスト教を国教化したのは同じ四世紀のことで、歴史の大勢には影響しないささいな間違いですが、いつか『海の都の物語』全編読み直したいと思っていた気持ちはかなりしぼんでしまいました。ざっとめくって1分ちょっとでこれが見つかってしまうのですから、全部をじっくり読み直すと、『ローマ亡き後の地中海世界(上)』同様ひっかかるところばかりでてきて読み進められず、いちいち調べなくてはいられなくなり、いやな気持ちになるだけ、という可能性が高いように感じます。南川高志氏の気持ち(こちらで紹介しております)がようやくわかった気がします。私の中で、『海の都の物語』に別れを告げる日が来たようです(とはいえ、ヴェネツィア史入門としては、やはり今でも本書はお奨めだと思います。その気持ちは変わりません)。

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by zae06141 | 2016-12-20 00:06 | その他歴史関係 | Comments(0)

東京国立博物館2016年特別展『古代ギリシャ 時空を越えた旅』と東洋館、上野の森美術館の『ブータン展』感想

※この記事は、長文であるため、2016年夏開催の東京国立博物館の『古代ギリシャ 時空を越えた旅展』にこれから行くための参考情報を得ようと考えている方は、本記事を「スキュフォス」で検索してその前後だけ読んでください(以下本文)。

 先月『黄金のアフガニスタン展』にいった後、東京国立博物館のサイトをチェックしていたところ、7/10日終了の東洋館の展示に興味深いものがいくつかあったので、一昨日いってきました。東洋館には一度もいったことがなく、アジアギャラリーの展示物も、リニューアル中表慶館で一部が展示されていた時に見学した程度だったので、目的は東洋館のアジアギャラリーのフル展示の見学にあり、『古代ギリシャ展』はあくまでついででした。私の場合、通常の展示会見学時間はだいたい2時間なので、今回、『古代ギリシャ』『東洋館』両方見学して4時間、9時半入場で13時半に終了し、いつも昼時行列ができている上野駅のアトレ上野の上野公園側にあるラーメン屋一蘭に、中途半端な時間にいけば並ばずに住むかも、という計画でした。しかし、結果的にえらいことになってしまいました。

 


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by zae06141 | 2016-07-10 00:57 | その他歴史関係 | Comments(0)

アッバース朝と唐・宋・元・清の財政規模

ビザンツやオスマン朝、イル汗国やファーティマ朝の財政規模について、各々比較しても整合性の ある数字が取れ、どうしても唐とアッバース朝の財政規模を比較してみたくなり、推計してみました。あまりきれいなロジックにはな らなかったのが残念ですが、一応整合性のある数値を得ることができました。ご興味のある方はこちらをご覧ください

これで、主要な大国の財政規模の記事が大体出揃った感じです。労働者の年収100万、食費30万と仮定して計算しています。

■ローマと漢については、こちらに記事があります

(1)ビザンツとオスマン朝と明について

 数字のお遊びで、オスマン朝の財政金額と明代の財政金額を日本円に換算して比較してみました。オスマン朝の換算方法は、こちらの記事にありますので、ここでは明代の換算式を書きます。

・『中国的貨幣金融体系(1600-1949)』(燕紅忠著/中国人民大学出版社/2012年) p234に明代歳入一覧表があり、その1602年は、

 米2837万石、布39.5万匹、絹14.8万匹、宝紗0.1万錠、銀458万錠

とあります。一条鞭法により布や絹、宝紗などは銀納に一括されたので、米2837万石を1石あたり1.15両(1600年頃のデータが見つからなかったので、1652年の値で換算)で換算すると3262万両、これに458を加えた3720万両を歳入合計額とする(布や絹は小額なのでここでは無視する)

・『明清中国の経済構造』(足立啓二/汲古書院/2012年)p161に、明末清初の農業経営のコスト細目一覧表があり、3人の農業労働者の賃金が51両(一人当たり17両)とある。17両を100万円とすると1両約5万8824円となる。

 以上の値から、明代の1602年の歳入は、2兆1882億3529万円となります。オスマン帝国の1582/3年の歳入は3764億8800万円です。オスマンは明の約1/6です。一方1602年頃の明の推計人口が1億5300万、16世紀のオスマン朝が約1500万なので、人口で1/10のオスマン帝国の歳入が1/6なのだから、オスマン朝の生産性は結構良いということになりそうです。

 しかし、これにはその先があります。明の財政は中央財政の歳入ですが、オスマン帝国は、直轄地であるアナトリアとルメリア(バルカン半島)の地方財政の一部も含んだ値だと考えられます。直轄州以外の地域は、貢納金だけが中央財政の収入とされており、アナトリアとルメリアは、「貢納金」相当額以上の税収であることから、非直轄州の地方財政の一部に相当する部分の税収額を、アナトリアとルメリアについては含んでいると考えられ、その結果、アナトリアとルメリアの税収額規模が、非直轄州の税収規模より遥かに多い額となっていると考えられます。こういうわけなので、仮にアナトリア・ルメリアと非直轄州を同じ税収範囲で税収額を算出し、明とオスマン朝の税収範囲を同等の基準にして比較すれば、どちらも人口規模に比例した同じスケールの歳入額となるのかも知れません。

 更に別の方向からの検討も可能です。

 明代の人口推計値は1億5300万ですが、史書に残る値は6000万人です。人口推計値は、中国史上他の時代のデータ、平和時は最大年率2%、平均1%の増加率を想定して算出したものです。恐らく、課税逃れの為に戸籍登録をしていなかった人口が多いものと考えられているようです。史書の数値では、明初から清初まで一貫して6000万人前後であり、これは実情と違うのではないかと疑問を持った清朝の康熙帝が、税額を固定することで、実際の人口を把握するようになって人口増加が見られるようになったことから、このように推定されているようです。明初から清初の間の平和時混乱時に年間人口増減率を割り当てて算出すると、1600年頃の明の人口は1億5000万程と推計される、という話です。

 明代の人口にはこのような留意点があるのですが、実際に人口が1億5000万人であったとしても、実際に納税していたのは史書に残る6000万人程度ですから、国家財政も、この6000万人に支えられていたわけで、このように考えると、6千万の人口で2兆1882億の財政を捻出しているということは、仮にオスマン朝人口が4倍の6000万とすると、3765億*4=1兆5060億円となり、明の方が徴税能力が高い、或いは、富裕だったと見なすことができます。なお、1兆5060億円という値は、人口5000万時の古代ローマ帝国の中央税収額1兆2800億円と近い値となっています。オスマン朝の徴税力は、古代ローマの徴税力に近い、ということなのかも知れません。

  ところで、明の2兆1882億円は、前漢末の中央財政額2兆5600億円と近く、どちらも政府把握人口が6000万人ですから、漢と明では、国家の徴税構造・人口などがあまり変わっていない、中国史は、ずっと静態的に同質的な国家体制が続いたことのひとつの証拠ともなりそうです。その反対に、漢代に比べて明末の方が商業が発展していたことは間違いないので、明朝の国家構造が旧態的なために、新興の商業の徴税機能が追いついていなかった、とも考えられます。

 このように、数字をあれこれ比較して考えてみると、いろいろと面白い側面が見えてきて楽しめます。


 話をオスマン朝に戻しますと、オスマン朝は面積が広いので、オスマン朝と比較するなら、ムガル帝国や明という先入観があったのですが、人口規模からすれば、同時代の日本と比較すると、案外数字が近くなるかも知れません。

 しかしなんというか、適当に資料から数字をもって来て少し計算しただけでも、それなりの値となるということは、それ程実情から遠い値では無い、ということなのかも知れません。


(2)ビザンツと同時代の北宋について

簡単に計算してみました。財政収入が1614億文、1石(66リットル)=1500文、一人年間9石消費するとして13500文を30万円すると、一文22.22円となり、円換算額で3兆5866億円となります。

■マムルーク朝、イル汗国、サファヴィー朝についてはこちらに記事があります

(3)マムルーク朝・イル汗国と同時代の元について

簡単に計算してみました。財政収入額6053億文、一石(94リットル)=5000文、一人年間5石消費するとして25000文を30万円とすると、1文12円となり、2兆4212億円となります。だいたい漢王朝と同じくらいです。元の人口はだいたい6000万人で、漢王朝と同じくらいなので、財政規模が同じになるのは、ありそうな話ですが、元朝の場合、歳入のうち5378億文(88.8%)が商税である点に大きな特徴がります。漢朝の場合は、163億銭のうち商税は38億銭で、23.3%ですから、税体系に大きな違いがあるのにも関わらず、だいたい同じ総歳入額になる点には興味深いものがあります。

(4)清と英国
 アヘン戦争時の英国と清ではどうなのか、これも簡単に計算してみました。



1842年頃の歳入3714万両。この前後の年の米価は一石2.26両。更にこの年の銀一両は1572文なので、2.26両=3553文。年間食料5石として、17765文=30万円とすると、1文=16.9円。賃金の面からみると、乾隆年間の日当140-200文。年間労働日数300日とすると6万文。これを100万とすると、1文16.67円でほぼ同一となる。3714万両は、9866億9095万円となる。

 地租と人頭税は、盛世滋生人丁として2462万人に固定している(残りは商税)ので、歴代王朝と比べても、財政規模はだいたいあっていることになります。清朝は小さい政府だったといえそうです。

英国

 1841年頃の年収はどのくらいになるのかも調べて見ました。1841年の英国の歳入は5300万ポンドで、うち3200万ポンドが借入金、その多くは国債です。これは、どのくらいの財政規模なのでしょうか。
 Henry Phelps Brown, Sheila V. Hopkinsの1981年の著書『A Perspective of Wages and Prices 』のp2にある13世紀から20世紀の英国賃金物価グラフ、及びp12にあるそのデータ表によると1841年頃の一日の労働者の賃金は32ペンスとなっています(Googlebooksでp13の物価表を見ることができます)。

 年間300日働くとして40ポンドになり、100万円を40ポンドとすると、1ポンド2.5万円です。すると、5300万ポンドは、1兆3250億円となり、清朝財政を上回ります。英国の純歳入は2100万ポンドで、約5250億円となり、清朝の約半分です。純収入だけでは到底財政的には及ばないところだったといえそうです。借入金含めると清朝の歳入を上回るわけですから、民間や外国の経済力を吸収する国債という技術は、非常に重大であったといえそうです。当時の英国が清朝に戦争をしかけたのは無謀ではなかったといえそうです。

 なお、この頃の英国の人口は2700万人程度で、清朝の納税者人数の2462万人を上回っていますが、近い数字です。対する中国の人口はこの頃4億1000万人。清朝の商税割合は約20%ですから、地租と人頭税2462万人分で、当時の英国に対抗するのは財政的に無理があったといえそうです。
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by zae06141 | 2015-02-26 00:12 | その他歴史関係 | Comments(0)

ファーティマ朝・マムルーク朝・セルジューク朝・イル汗国・サファヴィー朝の財政規模

 前回に続き、今回の過去の王朝の財政規模の話です。今回は、中世の西アジア、ファーティマ朝・マムルーク朝・セルジューク朝・イル汗国・サファヴィー朝の財政規模の数値と推計です。ご興味のある方はこちらを参照ください


 日本語資料があまりない、と思っていたファーティマ朝、探してみるとひととおりあることがわかりました。それら既存資料をまとめると、うまく一冊のファーティマ朝本が成立しそうです。私が妄想しているのは以下のような内容です。

第一部 ファーティマ朝
 【1】概要  ファーティマ朝国家論 莵原 卓 文明研究29号2010年 21頁
 【2】ファーティマ朝通史
 エジプトにおけるファーティマ朝後半期のワズィール職 莵原卓 史林 61巻6号(1998年11月) 31頁
 エジプトにおけるファーティマ朝後半期のワズィール職 莵原卓 東洋史研究41巻2号(1977年9月) 32頁
 【3】ファーティマ朝国家体制
  ファーティマ朝のディーワーン 莵原卓 西南アジア研究42号1995年 19頁
  ファーティマ朝のディーワーン2 莵原卓  東海大学紀要64号1995 21頁
 【4】 カリフ・ハーキム伝
  「Caliph of Cairo: Al-Hakim Bi-Amr Allah, 996-1021」掲載のマクリーズィー記載の異色のカリフ・ハーキム伝 英文で約40頁。これを翻訳して掲載
 
第二部 フスタート
  エジプトイスラーム都市アル・フスタート 出光美術館三鷹分館 1980年 (中近東文化センター研究会報告)  128頁
  【1】アル・フスタートの発掘報告 桜井清彦
  【2】フスタートの建設とアラブ支配 川床睦夫
  【3】エジプトの伝統的市場(スーク) 三木亘
  【4】東西交渉上のフスタート 家島彦一
  【5】陶磁の道 三木次男

第三部 同時代の旅行記に描かれたファーティマ朝
  【1】「ナースィレ・フスラウの旅行記訳注」 森本一夫監訳、長峯博之解題、北海道大学ペルシア語史料研究会訳 の解題 5頁
  【2】『回想録』ウサーマ・ブヌ・ムンキズ 藤本勝次他訳注 関西大学東西学術研究所 1987年 から解説(頁数不明)
  【3】イブン・ジュバイルの旅行記 (講談社学術文庫)  藤本勝次・池田修監訳 前書きと後書き計13頁

 これらを改稿して合計60頁くらいにまとめる。

合計 約360頁


 一部新規翻訳と改稿が必要そうな部分もありますが、基本、既存の論説・論文をそのまま編集することで、ファーティマ朝本が成立します。

360頁ではもの足りない感じもしますので、その場合は、

ファーティマ朝時代の書記の分類と職掌 莵原卓 東海大学紀要78号 2002年 11頁
ファーティマ朝前半期の書記規範 莵原卓 西南アジア研究 52号2000年 19頁
ファーティマ朝貴顕の商業活動 菟原卓 東海大学紀要69号1998年9月 11頁
「ジャウザルの伝記」にみる初期ファーティマ朝宮廷の内情 菟原卓 オリエント31巻2号1988年 16頁

などを加えれば、410頁くらいになります。ファーティマ朝は、本格的なシーア派初の政権、アッバース朝に対抗してカリフを名乗った最初の政権、異色の君主ハーキム、カイロを建設し後の時代に「エジプト」意識をもたらした政権、メッカとメディナを勢力下に置き、一時はバグダッドも占領、十字軍の到来など多くの特徴を持ち、イランのサファヴィー朝と並ぶ異色の政権であり、日本の学術団が首都フスタートの遺跡を発掘していたりと、様々な話題のある政権なので、是非是非こういう書籍が出て欲しい~と妄想し続ける毎日なのでした。

関連記事 ファーティマ朝:歴史と史料書籍「Exploring an Islamic Empire: Fatimid History and Its Source」
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by zae06141 | 2015-02-06 00:24 | その他歴史関係 | Comments(0)

古代・中世の農業生産性(収穫倍率)の比較

 古代・中世の農業の生産性はどの程度だったのでしょうか。これまで断 片的に、古代バビロニアについてはヘドロトスが300倍と書いているとか、西欧中世は4倍程度で古代ローマよりも生産性 が低かった、それを考えると、300倍とかは非現実的とか、インドでは古代から二毛作が行なわれていたため、西洋と比べ ると倍の生産力があった、といったような情報に接してきましたが、これら各数値を体系的・総合的に論じた書籍はないもの だろうか、と常々思っていました。少し探してみたところでは、どんぴしゃという書籍を見つけることができなかったため、 個別に論じている論文などを読んで見ました。その結果、個別には、各々詳細な論述があることがわかり、しかもあまりネッ トなどで取り上げられていないようなので、ここでまとめて紹介してみることにしました。ご興味のある方はこちらをご覧ください

 今回、中国古代の農業生産性を調べるために、粟が1升あたり何粒あるか数えるため、粟を購入したのですが、ついでに粟粥を作って食べてみました。米粒の1/10くらいの大きさしかないので、スープのようにしかなららないのではないか、と思っていたのですが、意外にボリュームが出て、腹持ちする粥ができました(作り方はこちらのサイトを参考にしました)。

 スーパーで売っているもち粟1/2カップを、ボウルに入れて4,5回研ぐ。その後なべに入れてカップ2杯の水を入れ、塩を小さじ一杯。火をつけて強火で一度煮立たせます。その後、弱火で20-25分煮ます。途中でお焦げができないように、時々火加減を見ながらしゃもじでかき回します。それだけ。
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 黍ご飯も作ってみました。作り方はこちらのサイトを参考にしました。

 スーパーで売っているもち黍一カップを3回程軽く研いで、そのまま水を黍の上まで入れて一晩寝かしておく。翌日1.5カップに水を入れて、強火で沸騰させた後、弱火にし、数分煮る。これだけ。塩は入れず、何の味付けもしなかったのですが、米のご飯程の旨みはないものの、結構普通に食べれました。
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 漢代の生活に、また一歩近づけた気がしました。
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by zae06141 | 2015-01-17 00:25 | その他歴史関係 | Comments(0)

2014年役に立った歴史関連書籍・論説・PDF

 昨年読んだ歴史関連の著作物は、書籍よりも雑誌論文やpdfが多いので、記事を分割してみました。昨年は基本的に数量経済史に繋がるものばかり読んでいたようです。昨年は、ローマ帝国の人口推計とGDPの数値の根拠とロジックや、ビザンツ帝国とオスマン朝の財政額の史料などを知ることができ、有用でした。そういうわけで、数量経済史関連のものが多くなりましたが、以下、昨年役立った書籍やPDFについて紹介したいと思います(以下more)。

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by zae06141 | 2015-01-08 00:47 | その他歴史関係 | Comments(0)

古代インドの書物

 最近『イスラーム書物の歴史』(名古屋大学出版会(2014年6月出版))という本を読みました。本文420頁で全22章、一章平均20頁で、正統カリフ時代、アッバース朝、ブワイフ朝、マムルーク朝、ティムール朝、サファビー朝、オスマン帝国、ムガル帝国など、イスラーム諸王朝の書籍事情や写本制作、蔵書具合、書道、挿絵絵画、科学書や現在の写本研究の現状などの切り口で、15名の筆者が、各々異なる観点で論じています。私は知識や情報の流通やそれらによる世界観の形成に興味があり、史上の書籍事情を扱った書籍を探してきたので、ど真ん中な内容でした。私の中では、これで、『ギリシア・ローマ時代の書物』、中国の書籍史通史本『中国出版文化史』、西欧中世の羊皮紙専門サイト 羊皮紙工房、西欧近世の『知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか』、『数量化革命』、と、洋の東西の書籍史・知識の流動に関する書籍が一通り揃った感じです。しかしインドの書籍史については抜け落ちているため、古代中世のインド及びヒンドゥー文化圏の近世インドの書籍本も探してみたくなってしまいました。


 そこでインド書籍史の本を探してみたのですが、英語書籍でも単著ではなさそうです。しかし一方非常に有用な日本語のpdfを見つけました(以下more)。

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by zae06141 | 2014-09-24 00:12 | その他歴史関係 | Comments(0)