古代世界の午後雑記(移行中)


「古代世界の午後」更新履歴と雑記
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カテゴリ:世界情勢・社会問題( 23 )


「ジャーナリズムが倒れると社会が崩壊する」=「ローマの没落は全世界の没落」と同じこと

 風邪を引いてしまいました。ニュースを見ると今年最初の寒波が来ていて、典型的な冬型の気圧配置となったとのこと。本日朝から調子が悪かったのですが、外出中に悪化してしまいました。やはり深圳で購入してきたスラックスは日本の冬には耐え切れないようです。というわけでぐっすり眠って治さなくてはならないのですが、本日放送のNHKの「クローズアップ現代:変わる巨大メディア・新聞」を見てしまった為、少しだけ記載。

 題名は悪くないと思うのですが、「新聞崩壊=ジャーナリズムが崩壊すると権力を監視できなくなる」という視聴者洗脳文句が何度も繰り返された点などに、マスコミの自衛プロパガンダ番組という気がしました。表題の文言も、登場した立花隆氏の「ジャーナリズムが倒れると社会が崩壊する」の言(録画してチェックしたわけではないので100%このとおりの文字だったかまでは責任が取れませんが、このような趣旨の発言でした)。これにしたって、立花氏は既存の情報流通体制内の人だからそう考えるだけじゃないのかな。紀元410年のローマの陥落時、ヒエロニムスは

「世界の光りが消えた。都市ローマにおいて全世界は没落した」
「ローマが没落するならば、地上の何者が安泰でありえようか」
(引用元:講談社「世界の歴史」旧版三巻「永遠のローマ」 弓削達著 p135)

と手紙に書き送ったそうですが、それと同じことなんじゃないの。 「ローマ=世界そのもの」であった人にとっては、ローマの陥落は世界の没落だったかも知れないけど、そうでない人にとっては滅亡でも何でもなく、世界は残ったのと同様に、IT革命で変動を迫られている旧体制に依存して恩恵を得ている人にとってはIT革命の危機が「社会の崩壊」と思えるだけなのでしょう。立花氏言の「社会の崩壊」とは、本質的には、「旧社会の崩壊」という意味に過ぎないように思えます。

 番組を通して、「新聞」と「ジャーナリズム」の語句が倒置的な語句として曖昧に使われていたのも少し気になりました。ITはジャーナリズムを維持できないのかな。迫られているのは「旧体制のありかたの変革」なのであって、ジャーナリズムそのものの有無では無いのは明らかなのですが、この点が明言されず、「新聞の崩壊=ジャーナリズムの崩壊=権力の監視ができない」とプロパガンダを繰り返している印象を受けました。 「ITはジャーナリズムを担えないのか?」「ITデジタル革命における今後のジャーナリズムのあり方」など、前向きな視点と議論をもっと出して欲しかったところです。

 そもそも新聞だけがジャーナリズムなのでしょうか?
 権力を監視できるのはジャーナリズムだけなの?

という論点まで30分の番組に期待するのは難しいのかも知れませんが。。。。権力の監視なら市民団体や政治団体だってやってるんじゃないの? そもそも既存の大メディアと権力との癒着部分はあり、伝えないことも多いでしょ。新聞の一面に記載するかどうかで、「社会的重要事項にランキングをすることが可能」、という点は新聞、特に大新聞にしてはじめて可能なことなのだと思うのですが、権力の監視だけなら、各種社会団体と新聞の相違はカバーできる範囲と影響範囲が異なるだけなのではないかと思うのですが。。。 そもそも、「社会的重要事項にランキングをすることが」自体が「大新聞の権力」であるように思えますし、そうした権力を彼らが手放したがらないのは無理からぬところかとは思いますが、現在のネットの課題のひとつは情報の氾濫・乱造にあり、この点は現時点では新聞には適わない点です(反対に新聞が提供する統計データなどは、常に最新のものをネットで見ることができるようになっているのでネットが有利)。

 また、ネットは、中国のような言論統制国での国でさえ「人肉検索」などができてしまうツールです。重要なのは、健全な社会倫理の維持と情報公開の為の法整備なんだと思うんだけど。。。。まあ中国政府に折れたGoogleなどのように、ITがそもそも権力に迎合してしまえば意味が無いということになってしまいますが、こうした癒着はマスコミでも同じことだと思うのですが。。。。

 健全な社会倫理とは、情報セキュリティ法や所属組織の内部法令を侵してでも遭遇した違法または既存法では抜け落ちていても、社会的に異常だと考えられることを内部告発・リークする人間を社会が育て続ける(例えば匿名の掲示板に書き込むなど)、ということであり、情報公開の為の法の整備とは、不審な情報を目にした社会団体が公開を請求した時に情報公開させる、という法律を意味しています。この点では、番組の中で、確か解雇された米国の記者が「権力を追求しつづける人は一定以上必ず発生する」と語っていたように思うのですが、こういう使命感を持った人間は必ず出続けると思うのです。新聞が崩壊しても、ジャーナリズムという社会的機能は崩壊しないように思うのですが。。。。。
 
 良く引き合いに出される「ロッキード事件も、当時の新聞記者は皆周知の話だったのに、週刊誌が取り上げた為表面化した」、という話があります。これを見ても新聞の権能とは、「監視」よりも、「社会的重要事項にランキングをすること」で社会秩序の維持を図ることにあるように思えます。新聞社社員の高額給与の理由は、この「ランキングによる社会秩序の構成と維持」にあり、権力の監視は、週刊誌に記事を提供している薄給のフリーライターさん達にあるように思えてしまいます。。。。いつの時代も世の中には使命感を持っている人や、その体制で恩恵を得られない人が必ず発生するものであり(えらそうなことを記載していますが、実のところ今の私は恩恵を得られない側に移りつつあるので他人事として書いているつもりはありません。このような匿名ブログでは何とでもいえることではありますが)、そうした人々がフリーのライターとなったり、またはそのよなライターや匿名掲示板に情報をリークしたり、政治・社会団体に参加したり資金を提供したりするものだと思うのです。そうして、そもそも日本の新聞は広告収入よりも、直接販売に依存している比率が米国より高いとのことなので、世の人が新聞に、「権力の監視に支払うコストに見合った働き」をしていると判断するならば、販売収益で運営できる範囲の体制にすれば良いだけのように思えます(明確に%までは記載されていなかったかと思うのですが、番組中で表示されていた新聞の収入に関する円グラフは、広告と販売収入の比率が、米国では、2/3,1/3程度、日本では1/4、3/4程度だったかと思います)。

 そういえば、番組では、「広告収入に大きく依存する米国と日本では体制が異なる」と何度か強調されていましたが、一方で、「新聞崩壊=権力の監視機能崩壊」という印象を与え、総合的に「(事業モデルが異なる筈の米国の)新聞崩壊=権力の監視機能崩壊」という混同した印象を与える結果になっているように思えます。

「日本の新聞業界のビジネスモデルは直接投資により収益を支えるビジネスモデルなので、米国にも提案すべき」

 くらいは番組で言っても良かったのではないか、とさえ思うのでした。

ところで、番組では、ピューリッツアー賞受賞者でさえリストラの憂き目にあっている、とありましたが、これは単に彼の年収が高過ぎるからだ、という風に考えるのは行き過ぎでしょうか。「社員として抱えなくても、記事を買った方が安い」「あなたくらい有名なら、独立してやっていけるでしょう」との判断というように思えてしまいました。。。。。。
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by zae06141 | 2010-01-12 20:59 | 世界情勢・社会問題 | Comments(3)

違法コピーと著作権問題

昨夜になってようやく、石景山遊園地のニュースをYouTUBEで見ました(ついでにMLBオールスターでのイチローのヒーロインタヴューとランニングホームランも)。ニュースのコメンテーターたちは呆れて激怒していましたが(立場上仕方がないとは思いますが)、私は、直接利害がないので、単に可笑しかったです。しかしまぁ、元気のないパレードと、いまいちな着ぐるみ。こんなクオリティにいちいちめくじら立てなくてもいいじゃないの、と思ってしまいました。

またこの夏、ドラえもんのアニメが、日本映画社により、正式に中国で上映されているとのことですが、そのときの交渉についての記事を読みました。契約としては普通の細かい条項に、「そんなに信じられないか」と怒り出す交渉相手の中国人のエピソードが出てきます。石景山遊園地の件含め、中国人の著作権への認識のなさに呆れ、笑ってしまう日本人の方は、おそらくニュースのコメンテータ同様、結構いるのではないかと思います。

しかし、本当に、著作権の内容をきちんと知っている日本人がどれほどいるのだろうか、とも思うのです。おそらく多くの人々の認識は、中国の一般の人々とあまりかわらないのではないかと思うのです。私は一度、自サイト公開時に、調査したことがあるのですが、一口に著作権といっても、知的財産権、所有権、肖像権、複製権、商標登録権など、様々な権利が重層的にからみあい、「とにかく確認しまくればいい」ということはわかったのですが、現実問題、確認しきれないという事態が殆どだということがわかり、絶対安全と思われる、最低限の引用しかしないことにしました。

勤務先の仕事で、膨大な社内技術文書をホームページに掲載しようとしたときにも、著作権の難しさを知ることになりました。技術文書は、その一部にどこかから転載してきた文書の引用や、参考用サンプルプログラムがついていたりするのですが、このプログラムの中にも、一部、他のプログラムを流用されていることが多いためです。現在コンピュータソフトのプログラムは、コードを一から書くことはむしろ稀で、既存のコードを下敷きに追加修正をすることが一般的です。よって、引用コードの全てをチェックすることは事実上困難なのです。企業の製品であれば、引用するのも全て自社内のコードとして、著作権を企業が持つようにすれば問題ないのですが、現場の技術者にとって有用な技術文書に付属する参考用プログラムの多くは、製品ではないため、社外のコードをテンプレートに利用していることも多いのです。通常は、こうしたテンプレートは、裁判となったとしても、まず著作権が認められることは無く、問題ないとは思うのですが、企業としては裁判などが起こること自体、イメージダウンとなりますから、慎重にならざるを得ないわけです。

 話は戻りますが、長らく西欧の強い影響下にあった日本においては、「グローバルスタンダード」というものに従いやすくなっている側面もあるのではないでしょうか。われわれにとってのグローバルスタンダードは、中国人には、単なるローカルルールとしか見えないかも知れません。たとえば、中国が独自立法で、三国志や孫悟空などのキャラクターの肖像権、著作権などを作り出したとしたら、どうなるでしょうか?日本のゲーム、コミック、映画など、かなりの権利料を、中国から請求されたとしたら? もちろん私は、中国にすこしづつ世界のルールが浸透することを望んでおり、まだ未発展の段階だから、しばらく中国が大人になるまで我慢して欲しい、と思っているわけですが、さりとて、「中国の常識のなさ」を笑うことは、実は、自身をスタンダードだと思い込んで傲慢に振舞っているだけで、スタンダードといえど、ひっくり返る可能性のあるものであることを知らないだけ、という幼さを露呈しているだけなのではないか、とも思ったりするのです。
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by zae06141 | 2007-08-03 10:24 | 世界情勢・社会問題 | Comments(0)

「這い上がれない未来」とグローバリゼーションの時代

 最近「這い上がれない未来」という書籍を読みました。そして、グローバリゼーションについて、少し考えさせられました。
 
 ウォーラーステインの世界システム論というものがありました。16世紀以降、西欧植民地政策に取り込まれ、「世界システム」として、一つのシステムに、取り込まれてゆく、という主張です。その中で、「中心」とは、西欧列強の企業家、資本家であり、更に植民地の現地支配勢力が、システムを支える「列強側」価値観を身につけた社会層として、中心に位置付けられています。周辺とは、列強と植民地の労働者ということになります。

 この世界システムは、現在、1989年以降に進展しつつある、グローバリゼーションの時代での、世界規模での再編成の原理そのものとなっていると思うのです。
共産圏と中国・インド・ASEAN・BRICSの勃興とグローバリゼーションの進展は、かつて先進国・発展途上国のエリート階級・途上国の貧民・低開発国のヒエラルキーを

多国籍企業=中心
先進国・途上国問わず、それ以外の企業群=周辺

という、かつて、旧植民地国と宗主国の間で機能していたシステムが、グローバル企業とそれ以外の企業というように、世界規模で再編成されているように思えるのです。 これまでは日本で、給料が、手取り15万の人でも、グローバルな基準では、1500$の高給取りだったといえました(途上国の平均給与は、月 100以下~500$程度)。海外旅行をして、物価の安さに驚くことも多かったのではないでしょうか。先進国が中心にあり、発展途上国は、周縁、という構造があり、経済力としては、先進国はヒエラルキーの頂上を構成し、その最下層にいる低所得者も、自国内では、経済力を意識できなくても、ひとたび海外へでれば、ヒエラルキーの上の方にいる感覚を味わうことができたのです。

しかし、現在のグローバリゼーションの進展は、今後は世界中どこへいっても、15万円の給料は、15万給料の階層でしかなくなる時代が来ようとしている、そんな風に思うようになりました。そうして、多国籍企業は、発祥の国に囚われられず、発祥国の政治や経済システムに問題があれば、その中心を、より活動のしやすい別の国に移して、常に「世界システムを維持する」ように活動する、そんな時代がきつつあるように思えます。世界システム論や周辺論は、再び脚光を浴びる時が来るものと思いました。グローバリゼーションとは、輸出入という程度の「国際化」という意味ではなく、「世界規模の秩序再編」だと思うのです。
 
 このイメージは、紀元前1世紀のローマの体制に近いのではないかと思います。紀元前2世紀までのローマは、都市国家連合と、領域国家との同盟が、基本的秩序であり、各地の支配層にローマ市民権を与え、支配層に取り組む、という構造をもっていました。ウォーラーステインが近代西欧の植民地支配システムとして捉えた構造に似ています。これに対して、前1世紀の、ローマ有力者による抗争は、それまでの構造を再編成し、有力者達の各ヒエラルキーが、最終的に単一の、「皇帝」に再編・統合されてゆく過程に似ているように思えるのです。
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by zae06141 | 2006-04-30 21:11 | 世界情勢・社会問題 | Comments(0)