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相変わらず細かいことが気になります。結構評判のよさげな三國陽夫氏の「黒字亡国」ですが、英領インドに関する記載に違和感があり、少し調べてみました。すると、三國氏の主張どころか、経済史家の記載にもおかしなところがいくつか見つかり、困惑しています。
三國氏の主張は、「日本は米国の通貨植民地であり、対米黒字は米国への資本輸出となり、日本の内需に貢献していないばかりか、デフレの要因となっている(私の要約)」というものです。この論議の正否はともかく、納得しがたいのは、現状の日本の分析に合わせる形で金為替本位制下(1899以降)の英領インドの分析をしていると思われる点です。 1.氏の主張の要点のひとつである「インドの対英黒字」について まず、氏はp19で「インドの歴史書を読んでみた。イギリスの植民地だったインドの通貨ルピーが、十九世紀末から二〇世紀前半にかけてインド国内の工業化のための投資に使われずに、ポンド資産を取得することによりイギリスに流出してしまったという記述があった」、p81では、「イギリスの植民地であったインドは、香辛料などの原材料を輸出してイギリスを相手に多額の黒字を計上した」「と記載しています。 「マクミラン新編世界歴史統計 (2) アジア・アフリカ・大洋州歴史統計 1750~1993」を参照してみました。これには、1840年以降の、年度別・インドの主要国別輸出・輸入額が記載されています。三國氏は「十九世紀末から二〇世紀前半」と記載していますので、その期間を見てみました。対英貿易収支は、1873年から1935年の間、一貫して赤字となっています。しかも1885から1929年の間は、輸入は輸出よりも50%近く多い値となっていて、圧倒的な貿易赤字となっています。マクミランが間違いなのか?と思って、「岡田泰男編・西洋経済史」を参照してみたところ、1910年のインド対英貿易赤字額が4200万ポンドと記載されていて、マクミランの内容と一致しています。なお、「マクミラン」では、1840年から1949年の間について、インドが黒字だったのは、1840-41、1843、1845-1848、1862-65、1869-72、1936-1945年となっていて、110年間中26年間となっています。つまり、1840年から独立までの間の英印貿易で比較的互角だったのはほぼ1872年以前の話で、「十九世紀末から二〇世紀前半」は、圧倒的な対英赤字の時期なのです。他にも、「金本位制の下」との記載もある(三國本p81)ので、1899年以降の英印金融関係を示しているのは明らかです(インドは元々銀本位制であり、1873年以降の銀相場の暴落により、銀本位だったルピーも暴落したため、1899年に金本位制(厳密には金為替本位制)に改めた)。 三國本には「対英黒字」の出典についての記載も無いのですが、以下で引用する各書によると、どうやら、「イギリス以外の全世界との貿易収支が黒字だった」ということのようです。特に、「金融と帝国」p65、66では、1890年から1910年までのインドの総輸出・入のグラフが掲載されており、15%から20%の黒字だったことがわかります(「マクミラン」には、残念ながら、インドの全相手先貿易収支は掲載されておらず、主要国10カ国しか掲載されていないので、掲載10カ国分を集計しても、輸出超過にはならないのでした。ただし、1923年以降の貿易収支総額は掲載されており、それによると1000万ポンド近い黒字となっています)。結局、三國氏は、対英黒字と、全相手先黒字とを取り違えていた、ということになりそうです(しかもこの時代のインドから英国への輸出品の主力は、小麦とお茶であって、香辛料ではない。香辛料が主力だったのは18世紀以前。この点も三國氏の誤認)。 2.全相手先輸出決済金の英国への流出の実態 残念なことに、上述の貿易収支の総額と同様に、「マクミラン」には貿易外収支総額のデータが1923年以降しか掲載されていません。しかも内訳が、イギリスが徴収しているインド運営費である「本国費」なのか、輸出決済金の資本輸出なのかが不明なのも残念です。一方、吉岡明彦著「「インドとイギリス」のp170には、1904年以降、輸出決済金を英国に留めおく手口の解説があり参考になりました。それによると、1899年以降「本国費」の送金に利用していた、「手形決済」手法を1904年に一般貿易にも拡張した、とあります。その本国費の送金方法とは、 1)インドからの商人(輸入業者)にロンドンのインド省が手形を売却し、代金として金を受け取り、銀行に保管。 2)輸入業者は、インドの商人(輸出業者)に代金として手形を送付し、手形を受け取ったインド人業者は、インド政庁から決済金を金で受け取る。 3)結果的に、インド政庁がインドで集めた金に相当する額が、英国の銀行に本国費として移転される。 というものです。本国費相当分以上の手形決済を行った場合(1904年以降)、輸出決済金はインド政庁から英国の銀行に移転され、インド政庁の資金はインド国内から集められたものですから、全体として、インドの資本が英国に流出した、という理屈になるそうです。しかしこれは、三國氏の言うような、「インドが輸出で稼いだポンドをイギリスの銀行に預けた」という話ではありません。金為替本位制導入以前から、そういうことがあったのかも知れませんが、残念ながら「インドとイギリス」には、上記以外の資本移転の記載はありませんでした。 ところで、インドの金為替本位制については、神武庸四郎・萩原伸次郎著「西洋経済史」p124に多少詳しい記載があり、それは、上述の吉岡本の記載とは2点異なっています。 神武本では、金為替本位制は、1873年以来の世界的銀暴落によるルピー下落対策としてインドにおける銀貨の自由鋳造を中止し、金-ルピーとポンドの為替レートを市場レートよりも高めに固定させたところ、通貨不足となってしまったので、ルピーの通貨供給量を増やす為に導入された、とあります。決済の為にインド省が手形を出し、インド政庁が業者に支払う方式は吉岡本と同じですが、神武本では、インド省が受け取る代金は、「ポンド」であり、インド政庁が業者に支払う代金は、「ルピー銀貨」となっています。 「金融と帝国」も参照したのですが(p70)、結論としては、吉岡本に記載のある「手形を金で購入」は恐らく誤認で、神武本の「ポンドで購入」が正しいものと思われます。 もうひとつ吉岡本との相違は、吉岡本には金為替制度の説明が不足している点です。黒字超過なのに金がインドに流出しなかった理屈は神武本では下記のような説明となっています。 一定の為替変動枠(基準の固定レートに金の輸送費を加算したもの)を設け、その範囲を突破した場合、金実物の移動が起こる(ルピー高の場合、インドに金が流入、ポンド高の場合はその逆)というものですが、実際に、変動枠を突破してルピー高となった場合、例えば次の原理が働いて、変動枠に収まる仕組みです。 1)仮に、金固定レート=1ルピー=15シリングの場合、為替相場が15シリング=0.9ルピー(ルピー高)となり、金の輸送費が0.1ルピーかかるとします。 2)ロンドンにて0.9ルピーで金を購入し、インドで1ルピーで売却すると0.1ルピー差益を得るものの、輸送費に0.1ルピーかかっているので、儲けは特にありません。 3)ところが、15シリング=0.8ルピーとなると、インドで1ルピーで金を売却して輸送費0.1を払っても0.1ルピー儲けが出るので、一見よさそうですが、この時点で儲けたルピーで割安のポンド通貨を購入する動きが出てきてポンド高に動くので、結局は「変動幅」内に収まります。 さて、「金融と帝国」を参照すると、神武本にも不足点があることがわかりました。それは、手形決済を行っているのは、業者ではなく、決済銀行だということです。この点、吉岡本には、「商人」と書かれていて、インドから輸入している、直接取引に関わる商人だと思ってしまうのですが、実際は、決済銀行なので、世界各国とインドの間の殆どの取引をポンド決済している銀行なのでした。これは重要な記載なのに、ここでご紹介している他の本に記載が無いのが不思議です。殆どのインドの取引をロンドンの銀行で決済しているのだから、インドの貿易黒字全体に対して「インド省手形」が利用されたことの説明がつきます。 それでは、三國氏が下記に記載するように、「インドの資金がイギリスに留め置かれた」のでしょうか? 「輸出で稼いだ黒字はポンドのままイギリス国内に貸し置かれたから、インド国内には輸出代金を持ち込んで使うことができず、金が回りにくくなっていた。もし、植民地インドが貿易取引で得た輸出代金をルピーにかえて持ち帰る、すなわち資本輸出をしなければ、インド人の生活向上に使うことができたはずだったが、それもできなかった。資本輸出によってインド国内の需要を減らしたことがデフレ要因ともなった(p82)」 半分は当たっていて、半分は間違いだ、と言えそうです。 神武本・「金融と帝国」の解説するメカニズムによれば、「黒字」の場合はルピー供給が増えるので、インフレになる理屈ですし、そもそも通貨不足(デフレ)対策の為に金為替本位制が導入されたことになっているます。つまり、インドの通貨不足は解消に向かった筈なのです。インド省の無制限手形発行が、インド政庁による、ルピー銀貨の連動発行(インド政庁の持つ金本位準備金の範囲内で)となったからです。この点については、三國氏の指摘は誤りだと思います。 他方、インド省に支払われた手形代金のポンドは、本来インドに送付される筈の金なので、インドの資本が英国の留め置かれた、という指摘は正しいことになります。 ここまでの内容についての私の理解は、下記の通りです。 1.幾つかの誤認はあるものの、英国が対インドについて「通貨膨張政策」を取ったことは間違いない 2.英領インドではデフレは対策されていたので、この点は三國氏の誤認 3.通貨膨張政策を取ったものの、ルピー・ポンド間のレートは、一定の変動幅を持った固定相場であり、通貨供給増大による大幅なルピー安にも、対貿易黒字によるルピー高にもならず、「変動幅」内で維持された。 4.金為替本位制のメカニズムとは別に、インド人が預金をイギリスの銀行にポンドで預けることはあったかも知れず、その内容は三國本の巻末の英文資料のどれかにあるのかも知れないが、今回参照した書籍では誰も言及していない。 5.イギリスに留めおかれた資本は、一部はインド以外の投資に使われ、一部は、インドへの投資(ただしイギリス企業(鉄道など)に消費された。この点で、「インド人が自由に使える資本では無かった」という点については、三國氏の認識は正しい。しかしその実態は、円高介入の為の外貨準備や、対外ドル資産投資のような現在の日米関係とはまったく異なっている。 6.インド人は金本位制を希望し、これに対して英国は金為替本位制を強行し、英国からの金の流出を防いだ点も、言葉を返せば「インドからの金流出」と言えなくも無い。しかし、産業成長率が金の供給を上回る場合、デフレとなりうるし、仮に金が供給され続けた場合、ルピー高が輸出低下となる可能性があったわけで、英国の金為替制度政策をインド窮乏化政策と言い切ることはできない(本国費と対英赤字は、明らかにインド人から見ると窮乏化政策といえるが)。 全体としては、現在の日米関係と似ている側面もあるものの、原理はまったく異なっており、当時の英印関係を無理やりこじつける為の牽強付会のように思えます。 その他下記2冊も参照しましたが(近所の図書館にも無かったので本屋でざっと確認しただけだけど)、有益な情報はなさそうでした。 「パクス・ブリタニカと植民地インド―イギリス・インド経済史の《相関把握》」 「イギリス帝国とアジア国際秩序―ヘゲモニー国家から帝国的な構造的権力へ」 書店や図書館で見つけることができなかったので、参照はしていないのですが、 「国際金本位制と大英帝国―1890‐1914年」という書籍も有用そうです。 なお、こちらの「THE PROBLEM OF THE RUPEE:ITS ORIGIN AND ITS SOLUTION (HISTORY OF INDIAN CURRENCY & BANKING)」というサイトはこの時期のルピー問題を扱っているので、いづれ詳しく読んでみたいと思います。 更に、こちらのサイトに、「黒字亡国」の感想が記載されており、その中に、「もちろん、ポンドの価値は大暴落、英国は没落して、ついでにインド人の預金もフイになってしまった」 という、ポンドの価値減価による、資産圧縮の主張がありますが、「黒字亡国」の中には該当する記述はありませんでしたし(見落としの可能性もゼロではありませんが)、そもそも、こちらの1948年以降のルピーとポンドの為替レート表を見ても、1965年までポンドとルピーは固定されており、その後はルピーが下落しているので、現在の円高によるドル資産の圧縮のような現象は発生していません。 この件は(資本移転によるインドのデフレ)今後も調べ続けようと思っていますが、現時点では、三國説と、「黒字亡国」に基づいたネット上の英領インドに関する言説は、いい加減な歴史ネタであるように思えるのでした。 ところで、尖閣諸島の船長逮捕問題はなんだったんでしょうね。個人的には、中国を悪者にして、国民の目を日米同盟の重要性に向けさせ、普天間問題の希薄化を狙う良いネタだと思っていたのですが、なんだかまったく無駄な意地をはっただけに終わりそうな感じで残念です。転んでもただでは起きない、くらいの姿勢でやっているのかと思っていたのですが、"領海侵犯"で旧ソ連に拿捕された北海道の漁民の扱われぶり同様、仮に本当に「粛々と対応しただけ」だったとしたら、ちょっと空気が読めていないような気がします。因みに、船長帰国で、日本向け旅行者が復活するのでしょうか?9月に入ってから上海万博の入場者数が激減していて、目標の7000万人到達に黄色信号が灯ってきたので、中国側としても、この機会をうまく利用して7月にビザ緩和した日本への旅行者低下->上海万博の増員、を目論んだのかも、と思っていたのですが、「中国の圧力に屈した」としか見えない結果となり、中国側は思わぬ収穫だと思っているんじゃないかなー。面倒になることはわかりきっていたのだから、小泉さんの頃のように、「あんたたちうるさいから機械的・事務的にさっさと返してるだけなんだよ」という印象を与える態度の方が良かったのではないでしょうか。
by zae06141
| 2010-09-24 23:54
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