古代世界の午後雑記


「古代世界の午後」更新履歴と雑記
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中国歴史ドラマ「江山風雨情」

 明末の明清の抗争を扱った歴史ドラマ「江山風雨情」を見ました。全45話、先週と今週の週末、約30時間近くかかって全部見ました。この調子でドラマを見続けると、さすがに人生の浪費になってくるので、良質のドラマを取捨選択して見る必要がありますが、「江山風雨情」には、それだけの内容があったと思っています。中国の歴史ドラマはここまで来ているのか、素直に関心しました。脚本と演出などでは、NHKの大河ドラマでも、そこそこのレベルだと思うのですが、歴史劇を撮影可能な土地と野外セットについては、比較にならないように思えます。見終わった印象は、欧米の歴史映画並みに、洗練された映像となっています。

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 ここ5,6年で、中国TV局の歴史ドラマは、大幅に進歩したのだと、理解しました。香港映画であれば、「始皇帝暗殺」や「英雄」などで、かなり進歩してなぁ、という印象があるのですが、中国のドラマというと、日本でビデオ屋においてある「三国演技」のような、チャチなセットと、大げさな演技、化粧の濃さが目出つメイクなどが記憶にあり、評判の「康煕王朝」でさえ、満足できないレベル、「雍正王朝」は、例外だと思っていましたが、いまや、「雍正王朝」並みのドラマが多数できてきていることを知りました。

 江山風雨情は、度々紹介している古装劇場の解説で、その存在を知って興味を持ったのですが、古装劇場の解説にある通り、重量級歴史ドラマです。崇禎帝と呉三桂、ホンタイジ、の3者を中心に話が進むのですが、最初から最後まで登場している人物はおらず、主役の一人の崇禎帝とその家臣は、41話まで、呉三桂とその夫人の陳円円は、第5話からの登場です。崇禎帝家族と宦官の王承恩、呉三桂と陳円円、清朝皇帝ホンタイジを中心に、李自成、袁崇煥、洪承畴といった取り巻く人々を描いています。中国史に関する書籍は、割と多くの書籍を読んできたつもりなのですが、時代イのメージは、実は、高校生の頃に読んだ、こちらの河出書房新社の「十八史略物語」(18史とあるが実際は1911年までを扱っている)で植えつけられたイメージに今でも影響されています。しかし、「江山風雨情」のお陰で、明末清初の時代イメージが、すっかりこのドラマのものになってしまいました。この時代を描いた作品としては、これを越えるものはもうでないかも知れない、とも思わされるくらいの迫力がありました。

 特に、インパクトのあったのは、皇帝一家の最期の場面です。それまで25時間にわたって、努力はしているが、責務が重すぎ才能が追いつかず苛立つ皇帝、それを助けるけなげな皇后、無邪気で明るい皇娘の幸せ家族模様が描かれてきたため、臣下が全員逃げ出し、がらんどうとなった宮殿で、寂しく、しかも最期にあたって取り乱しながら死んでいった皇帝一家の最期は、胸に迫るものがありました。皇帝一家の最期をここまで正攻法に描くとは予想していなかったこともあり、明朝の最期を描く、これを越える作品は、今後でることはないのではないか、とまで思わされる迫力です。

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 このほかにも、迫力ある映像が多く、紫禁城や山海関、盛京など、中心的な舞台となった場所が、現在も史跡として残っていることから、GCなどは使わずに、現地ロケが多く、これもドラマのリアルさと迫力を高めることができた要因だと思います。

 ドラマですので、細かいところでは、史実と若干異なる部分もあるようです。袁崇大煥処刑の前に大清と称していますが、史実は後。清に投降して呉三桂にも投降を呼びかける大臣は、洪承畴ではなく、祖大寿。投降した呉三桂が辮髪でない。陳円円が早く育ち過ぎ、など。しかしこれらは瑣末なところだと思います。上に画像を入れましたが、これは第11話での、呉三桂とホンタイジの対決場面。ホンタイジが、ヌルハチの子息のうち、もっとも優秀であったことを思えば、大将が前線で一騎打ちをしたことも、ひょっとしたら史実なのかも、と思わせるものがありました(実際はどうだったのでしょうか。呉三桂との一騎打ちは史実ではないとしても、ホンタイジ自ら戦闘に出たことはあったのではないかと思います)

下記は、ホンタイジの宮廷。後期ルネッサンスの絵画でも見るような豪華な映像です。

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 一つ難点を言えば、登場人物の中に、真の悪人がいなかった点でしょうか。汚職役人や、策謀は登場するものの、心根がどこまでも卑怯で、登場人物に悲劇を齎すキャラがいなかったと、見終わった今気がつきました。最期に明の皇子を、清に差し出す呉三桂も、悩みに悩んでのことですし。

 物語には、冗長な部分もあるので、それらをカットして、15時間くらいの短縮版を作って、日本語字幕をつけて売り出せば、そこそこニーズはあるのではないでしょうか。

:中国中世・近世の歴史映画・ドラマ一覧表はこちら
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# by zae06141 | 2007-10-21 23:12 | その他の時代の歴史映画・ドラマ | Comments(0)

ドイツと日本の賠償責任

 本日1週間ぶりに出勤したところ、メールが550通たまっていました。一日仕事になりましたが、夕方には処理し終えることができ、少しオフィスでネットサーフィンをしていたところ、たまたまドイツと日本の前大戦の賠償責任について議論しているサイトやブログに出くわしました。

 その議論の多くでは、ドイツと日本の賠償責任は同一に比較できない、という内容で、このあたりは確かに納得できる部分がありました。また、ドイツが、統合するまで国家賠償を延期し、統一後に、英仏などが、賠償請求したところ、これに応じなかった、という話や、ドイツは、ナチスの与えた損害については賠償しているが、国家としては賠償していないのだ、という意見は、恥ずかしながら始めて知った次第です。

 とはいえ、一連の議論、というか、基本的に、「ドイツは賠償しているのに、日本はまだだ」という中韓両国の主張に対する、「ドイツは国家賠償はしていないが、日本はしている」という反論にある意見群を読んだわけですが、一点気になったのは、ドイツのワイツゼッカー大統領が1985年に行った有名な演説(「荒れ野の40年」という題名で、全訳が出ています)を引用し、「ワイツゼッカーは、ナチスの罪と、それに対する責任を認めているのであって、ドイツ国家としての責任を認めていない」という主張です。

 今手元に「荒れ野の40年」が無いため(中国駐在中で、書籍は東京の自宅にある)、またあっても、出版社が左派の岩波ということで、ドイツ語の原文にあたらないことには、訳者の思いが入っているや否やの判別もつかないとは思うのですが、この文章、この20年間で数度読み返した記憶があるのですが、私個人の印象としては、「戦後、そして将来生まれてくるドイツ人には罪はないが、ナチスのしたことについての責任はあるのだ」という内容に読めました。直接の加害者であるナチスと、ナチスを選出した有権者に罪はあっても、その罪を、子孫までが負うことはできない。だが、責任はあるのだ、と、私には読めました。

ドイツの大統領という立場から、政治的権益のために、ドイツの国家賠償を認めない、という隠された意図があったのかも知れません。しかし、私が、ワイツゼッカー演説を引用し、「ドイツと違い、日本の賠償責任は終わっている。だからドイツが謝罪したから日本もせよとは、おかど違い」と主張する人々の意見について疑問に思うのは、国家賠償を終えたということで、戦争を仕掛けた国々の人への責任までも免責されたと考えているのではないか、ということです。ワイツゼッカー演説の重要であり本質的な部分を軽視、あるいは無視しているのではないだろうか?という疑念です。

ワイツゼッカーは、「子孫にも責任はあるのだ」と言っています(と私は理解しています)。ドイツ人の思考を、必ずしも日本人が同調する必要はありませんが、しかし、心の問題として、責任は感じないのだろうか?祖先がしたことだから、賠償も終わったから、と免責されるべきことなのでしょうか? 政治家としてのワイツゼッカーは、ドイツの国益という観点から、国家賠償の問題を摩り替える意図があったのかも知れませんが、一方では、人間として、責任の問題を、人々の良心に訴えかけていたのだと、思うのです。

 少し観点が変わりますが、日本人のどれほどの人が、先の大戦で、中国に敗戦したとの認識を持っているのでしょうか?実は、正直なところ、私は持っていません。敗戦時に15歳だった父親に聞いても、「満州以外の中国在住者だけが中国に敗戦した意識を持っていたのではないか」との意見でした。

 多かれ少なかれ、多くの日本人がこのような意識なのではないでしょうか。反対に、中国の方はというと、抗日戦争に勝利した、という意識です。あまり反日意識の無い中国人も、このような意識なのではないでしょうか。今度同僚と飲みに行ったときにでもさりげなく聞いてみたいと思いますが、恐らくあたっているものと思います。このギャップが、日本と中国の間の歴史認識の食い違いの一つの要因でもあり、また上記賠償問題の議論において、ワイツゼッカーの言うところの責任意識についての言及が無い背景でもあるように思うのです。

 軍部の独走もあったでしょうし、日本はドイツと違い、民主的に選出された政府ではなかった、という言い分もあるでしょう。帝国主義政策を採らなければ、植民地化される恐れがあったことも事実だと思います。また、インフラ整備という観点で、日本が、支配下地域に貢献したこともあったでしょう。また負けたから謝罪せよ、という戦勝国の態度に割り切れないところもあるでしょう。

 しかし、だから大戦中日本がやったことが正当化されるとか、国家賠償すれば、それでいいのだ、ということにはならないと思います。ここはドイツではありませんし、キリスト教国の倫理感がそのまま適用できるわけではありません。ワイツゼッカーがああいったから、だから日本人も責任を取るべきだ、とはまったく思いません。ただ、やったことについての罪と責任の問題については、日本人として考えて欲しいし、また、将来に渡って考えてゆかねばならないと思うのです。この問題は、国家の賠償云々とは異なった、人として、国民としての良心の問題だと思うのです。

ワイツゼッカーの演説が、多くの人々を感動させたのは、こうした要素が根底にあったからだと思うのです。少なくとも、私はそう信じます。

他人に暴力を振るわれて、金さえ払えばいいだろう!と謝りもしないでお金を渡されて気がすむのでしょうか。お金の問題は、それはそれで法廷で闘争することにすればいいわけで、賠償問題は、政府と法廷に任せればいいのです。それはそれで重要なことではあるのでしょう。しかし私がより重要なことだと思うのは、罪と責任の問題を考え、必要であれば、心から謝罪する、という意識を持つことだと思います。少なくとも、罪と責任の問題を考えることが、戦争を起こした側の責任だと思うのです。

それが無い状況での日中韓それぞれの賠償紛争は、ただの双方ともども、単なる賠償ビジネスかつ、外交ゲームの駒だと思うのです。

 その一方で思うのは、日本が戦って、敗戦した米国との間には、中韓と比べると謝罪や賠償問題を引きずらず(賠償問題が無いとは言っていません)、良好な関係にあります。主要な都市を徹底的に焼かれて、原爆まで落とされたのに。どうしてでしょうか。これこそが、戦後の日本に、米国的価値観を内面化させることに成功した米国の政策の勝利、および文化的優位性ということになるのでしょうが、日本人が植えつけられた敗戦意識も一役買っているのではないか、と思うのです。人間関係一般でも、敗北を腹のそこから認められない限り、心からは謝ろうとはなかなか思えないものだと思うのです。これもまた、人間の本質の一つなのではないでしょうか。

※補記 2013/8/25
ドイツと日本の国家賠償の比較については、以下の回答で記載しました(zae06141の回答です)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14112203754

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# by zae06141 | 2007-10-08 23:57 | 雑記 | Comments(0)

雑誌「中国国家地理」

という題名の月刊誌が出ています。見た目「ナショナル・ジオグラフィク」とそっくりです。

装丁は、「ナショジオ」の黄色の枠で囲まれたレイアウトに対して、こちらは、赤色ですが、ページの質感、きれいな写真や詳細な地図が豊富に掲載されいている点、記事の視点、サイズ、厚さ、記事の構成まで、どれをとっても、「ナショジオ」のパクリとしか思えません。さすがに記事は流用ではなく、オリジナルのようですが、中国でもこんな雑誌が出せるようになったんだ!と少し驚きでした。

まぁ、車やコンピュータや生活用具など、先進国並に近いクオリティとなってきていますから、考えて見ればこれくらい当然なのかも知れませんが、それにしても嬉しい雑誌です。日本でも、「中国地理紀行」という題名で、5年程前から出版されています。こちらの地理紀行は、日本にいる頃に入手していたのですが、ナショジオのような洗練さはなく、日本の雑誌としては、ちょっと野暮ったい感じ、紙質も硬く、大判のコンピュータ雑誌という感じです。ナショジオに訴えられるのを避けるために、わあわざこのような体裁にしているのではないか、と思える程。価格も1480年とちょっと高め。

さて、「中国国家地理」ですが、ざっと見た限りでは、ナショジオと提携しているわけでもなさそうです。ノウハウの提供くらいは受けているのかもしれませんが、とにかく中国版ナショナル・ジオグラァフィックであることは間違いありません。対象は、中国国内のみ。中国国内だけといっても、まだまだ国外に知られていない様々な地域があり、ナショジオを補完する位置づけだといえると思います。

早速巨大書店シンセン書城にバックナンバーを買いにいったのですが、日本のように店頭にバックナンバーが置いてなく、バックナンバーを中国語でなんていうのか調べていかなかったので、バックナンバーの入手は今後の課題。一冊16元(260円程度)ということで、取りあえず滞在中は毎月購入する予定。とはいえこの価格でも、同僚曰く、「高い雑誌」とのことです。ドラマが全回収録されたDVDが10元で売っているのと比較すれば、雑誌1冊16元は、高いと思うのかもしれません。

「中国国家地理」のHPはこちら

2009年1月追記:
 昨年7月号から、「华夏地理」という雑誌が、ナショナルジオグラフィックと正式に提携し、見た目も記事も、ナショナルジオグラフィックと一緒になっています。
 ナショジオの記事は、全世界で同一だと迂闊にも思い込んでいたのですが、中国で発売されている2008年12月号が、洛陽の後漢皇帝陵がある邙山が表紙を飾る巻頭特集であることから、調べてみたら、中国版の「華夏地理」では、中国ローカルの記事が掲載されているということがわかりました。油断していた。。。。しかもこちらのバックナンバーの頁は昨年4月分までしか掲載されていないという。。。。
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# by zae06141 | 2007-09-14 22:55 | 旅行・海外駐在関係 | Comments(0)

ドラマ「大宋提刑官」

大宋提刑官パート1のDVDを購入しました。
その辺の店になかったので、ウォルマート前の店に行ったら、足元を見られて25元という高い値段で買わされてしまいました(といっても、そこで買うのは初めてなので、25元が標準価格かも知れないし、また3枚組なので高いのかもしれませんが。。。)。

本日一部を見てみました。パート2は、全体で1つの話とのことですが、パート1は、全36話が、複数のエピソードから構成されている為、筋を把握しやすいと思い、途中のエピソードを1つ見てみました。ミステリーである以上、ネタばれとなってしまう為、何話目かは記載しませんが、作品の宣伝のためでもあるので、少し筋を記載してみたいと思います。もちろん中国語はわかりませんので、一部の字幕から理解した範囲ですので、理解が不十分なところがあるかと思いますが、大筋はほぼ下記の内容かと思います。

ある郊外の川で、男性の溺死体が発見され、男の妻を慕っていた青年が犯人と断定されます。その町の役人は、青年の妻と図った共謀と決め付け、拷問をして自白に追い込みます。青年は、妻をかばおうとし、青年の母親(実の親か育ての親?)は、青年をかばうため、血痕の残る着衣を捏造します。このように、お互いにかばおうとしたため、事件は複雑化してしまったわけですが、宋慈(主役。南宋時代の実在の人物。各地を持ち回りで裁判を担当する役人ということらしい)は、部下と再調査を行い、証言と証拠の矛盾から、真相に迫ります。

 当日は雨だった、血痕の衣服が残るのはおかしい、とか、墓を掘り返して、殺された後、川に放り込まれたのか、水死なのかの検死を行うことで、死因は水死だと突き止め、事件を解決に導きます。最後は、大岡さばきのごとく、「真の悪は、間違った判決をした役人だ!」と役人を罰します。ラスト、町を後にする宋慈とその部下をみていると、日本の時代劇の隠密とその部下、といった風情、現地役人の自白を強制するやり方を罰するところも、日本の時代劇という感じです。このように書くとただの時代劇という感じですが、実際のドラマと映像は、本格的な歴史ドラマという感じで、偉大なるマンネリチャンパラとは、大分赴きが異なります。町を後にする一向の前に、死体から財布を持ち去ったことがばれ、宋慈に、40叩きの罰を受けた男が立ちはだかり、宋慈に噛み付くという、あまり後味のよくない場面があります。こうした点をはじめ、勧善懲悪モノの時代劇とは異なる感覚があり、時代劇というよりも、歴史ドラマという感覚に近いものがあります。

これは是非、日本語版も出してほしいと思います。

ところで、このシンセンの史跡、新安古城の訪問記を記載しました。また、シンセンには、他にも明清時代の史跡、今も利用されている住居、客家の家などがあるそうです。9月になったら、訪問してみたいと思います。調べれば、意外にありますね。さすが中国です。
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# by zae06141 | 2007-08-26 03:02 | その他の時代の歴史映画・ドラマ | Comments(0)

違法コピーと著作権問題

昨夜になってようやく、石景山遊園地のニュースをYouTUBEで見ました(ついでにMLBオールスターでのイチローのヒーロインタヴューとランニングホームランも)。ニュースのコメンテーターたちは呆れて激怒していましたが(立場上仕方がないとは思いますが)、私は、直接利害がないので、単に可笑しかったです。しかしまぁ、元気のないパレードと、いまいちな着ぐるみ。こんなクオリティにいちいちめくじら立てなくてもいいじゃないの、と思ってしまいました。

またこの夏、ドラえもんのアニメが、日本映画社により、正式に中国で上映されているとのことですが、そのときの交渉についての記事を読みました。契約としては普通の細かい条項に、「そんなに信じられないか」と怒り出す交渉相手の中国人のエピソードが出てきます。石景山遊園地の件含め、中国人の著作権への認識のなさに呆れ、笑ってしまう日本人の方は、おそらくニュースのコメンテータ同様、結構いるのではないかと思います。

しかし、本当に、著作権の内容をきちんと知っている日本人がどれほどいるのだろうか、とも思うのです。おそらく多くの人々の認識は、中国の一般の人々とあまりかわらないのではないかと思うのです。私は一度、自サイト公開時に、調査したことがあるのですが、一口に著作権といっても、知的財産権、所有権、肖像権、複製権、商標登録権など、様々な権利が重層的にからみあい、「とにかく確認しまくればいい」ということはわかったのですが、現実問題、確認しきれないという事態が殆どだということがわかり、絶対安全と思われる、最低限の引用しかしないことにしました。

勤務先の仕事で、膨大な社内技術文書をホームページに掲載しようとしたときにも、著作権の難しさを知ることになりました。技術文書は、その一部にどこかから転載してきた文書の引用や、参考用サンプルプログラムがついていたりするのですが、このプログラムの中にも、一部、他のプログラムを流用されていることが多いためです。現在コンピュータソフトのプログラムは、コードを一から書くことはむしろ稀で、既存のコードを下敷きに追加修正をすることが一般的です。よって、引用コードの全てをチェックすることは事実上困難なのです。企業の製品であれば、引用するのも全て自社内のコードとして、著作権を企業が持つようにすれば問題ないのですが、現場の技術者にとって有用な技術文書に付属する参考用プログラムの多くは、製品ではないため、社外のコードをテンプレートに利用していることも多いのです。通常は、こうしたテンプレートは、裁判となったとしても、まず著作権が認められることは無く、問題ないとは思うのですが、企業としては裁判などが起こること自体、イメージダウンとなりますから、慎重にならざるを得ないわけです。

 話は戻りますが、長らく西欧の強い影響下にあった日本においては、「グローバルスタンダード」というものに従いやすくなっている側面もあるのではないでしょうか。われわれにとってのグローバルスタンダードは、中国人には、単なるローカルルールとしか見えないかも知れません。たとえば、中国が独自立法で、三国志や孫悟空などのキャラクターの肖像権、著作権などを作り出したとしたら、どうなるでしょうか?日本のゲーム、コミック、映画など、かなりの権利料を、中国から請求されたとしたら? もちろん私は、中国にすこしづつ世界のルールが浸透することを望んでおり、まだ未発展の段階だから、しばらく中国が大人になるまで我慢して欲しい、と思っているわけですが、さりとて、「中国の常識のなさ」を笑うことは、実は、自身をスタンダードだと思い込んで傲慢に振舞っているだけで、スタンダードといえど、ひっくり返る可能性のあるものであることを知らないだけ、という幼さを露呈しているだけなのではないか、とも思ったりするのです。
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# by zae06141 | 2007-08-03 10:24 | 世界情勢・社会問題 | Comments(0)

深圳書店

先週、地下鉄4号線の駅がオープンしました。全部で6駅くらいしかない、深圳を南北に走る駅ですが、深圳市は東西に長い市で、南北はあまりないので、この駅数となっています。早く自宅近くを通過する予定の、2号線も開通して欲しいものです。

また、7/1日には、香港と深圳の間の、西側の湾を跨る、香港-深圳間の橋もオープンしました。オフィスの窓から、横浜ベイブリッジや、湾岸レインボーブリッジのように、白い橋の支柱が美しく見えています。香港返還10周年のイベントがあちこちで開催されているようです。

週末には、深圳最大の書店と言われる、少年宮駅前の深圳書城に行ってきました。シャングリラホテルの人には、深圳最大の書店は、大劇院駅前の「深圳書城」だと言われ、リロケーション会社の人には、南山区の「深圳書城」が深圳最大だと言われ、更に、HPには、少年宮近くの深圳書城が、中国最大、と記載されていました。

どれが本当に最大なのでしょうか、ということで行って見てびっくりでした。幕張メッセのような、広大な敷地を持つ、展示会場としか思えない、巨大な書店でした。といっても地下一階、地上2階で、広い空間をのびのびと利用しているので、売り場面積としては、中国一(または深圳一)でも、本の数では、北京王府の書店(名前忘れました)と大差ないかも。ちなみに、Googleでヒットしたところでは、広州にも、「中国最大」の本屋がありそうです。白髪三千条のお国柄ですから、あちこちに「中国最大」があってもおかしくないですし、そのうち「東洋最大」「世界最大」書店も登場するのではないかと期待しています。

それにしても、少年宮駅前の深圳書城は、ピザハット、KFC、スタバが入り、建物もメッセ的で、ここが中国とは思えない場所でした(近くにカルフールもある)で、ピザハットで、安いパスタとお茶で、日本円にして800円)。物価も施設も日本並み。こんなところがこれからだんだん増えていくんでしょうね。

※2008年2月3日追記

先日、深圳の書店の歴史書籍はいまいちだ、と記載してしまいましたが、昨日福田区にある深圳書城本店と、少年宮店にいってきました。両店はこれまでも行っていて、それ程本があるようには思えなかたのですが、南山店を見慣れた目で今一度見てみると、印象が大きく変わりました。深圳博物館近くの本店の歴史コーナは、新宿ジュンク堂書店くらいの規模という印象。南山店は、概観は大きいものの、レコードショップやおもちゃ屋など、書籍と関係のないショップも多数入っているので、本店に比べると、意外と書籍の種類は少ない、ということなのではないかと思います。歴史書籍コーナーに関しては、南山店が新宿小田急百貨店に入っている三省堂程度、少年宮店(幕張メッセをイメージさせる施設の一部に入っている)は、新宿紀伊国屋本店規模、本店が新宿ジュンク堂程度なのではないかと思います。
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        (深圳南山店:木立に隠れている下の部分が五階建てくらいの書店部分)

 しかも、南山店と本店は、歴史書と考古学コーナが分かれていますが、少年宮店は同じ場所にありました。

 スペース的には紀伊国屋やジュンク堂に匹敵するとしても、深圳書城では、同じ本が何冊も並んでいるので、実質的な本の種類は1/3程度だと思いますが、とはいえ、その内容は充実しています。めぼしい書籍の奥付を確認すると、だいたい2000年以降出版種類が増えている感じです。昔は歴史関連書籍というと、典籍関連と学術向けばかりが目につきましたが、ここ数年一般向けの読み物が充実してきているように思えます。


※2014年10月14日追記
先月久しぶりに南山店に行ってきました。店内が階層されていて、売り場面積は全体的に縮小し、内装が非常にオシャレになっていました。
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上が以前の書棚。下が改装後の書棚。
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# by zae06141 | 2007-07-09 14:02 | 旅行・海外駐在関係 | Comments(0)

アンガス・マディソン「経済統計で見る世界経済2000年史」 ver7

 昨日19日の日経新聞5面に、オランダ、フローニンゲン大学のアンガス・マディソン教授が、過去2000年間のGDPの推計を試みているとの記事がありました。アンガス教授の書籍は、以前「世界経済の成長史1820‐1992年―199カ国を対象とする分析と推計」という書籍を読んだことがあるのですが、過去2000年間の方も、「経済統計で見る世界経済2000年史」という書籍を出していることを知りました。
 
 前著には、1820年のGDP1位は中国、2位はインドとなっていましたが、これは人口が多いためで、一人あたりのGDPとなると、英国や日本よりも低い状況でした。これに対して、後者の書籍では、宋代の一人あたりのGDPは、西欧よりも高かった、とあるとのことです(日経新聞記事より)。
まぁ、西欧が一番低調だった頃と比べても、とは思いますが(10世紀で比べるなら、ファーティマ朝か、ビザンツにして欲しいと思います)、実験的な試みとはいえ、興味を引かれてしまいます。

※追記1 2007年4月
 本屋で立ち読みしてきました。ざっとめくっただけなので、ちゃんと読めているわけではありません。その範囲内での感想ですが、あんまり期待した感じでもなかった、というところでしょうか。

基本的には、「世界経済の成長史1820‐1992年―199カ国を対象とする分析と推計」 に書き足したという感じで、2/3くらいは、「世界経済の成長史」の統計図版がそのまま掲載されている感じ。次に解説の量が多いのは、1500年-1820年。しかし、この部分であれば、ウォーラーステインはじめ、多くの学者の研究しているところです。特に本書に頼る必要もない部分かと思います。一番興味のあった紀元0年~1000年に関する部分は、ほぼ人口推計の算出だけと言ってよく、GDPは、各地域400ドル~450ドルの間にまとまっていて、都市や地域・職業別に推定されているわけではありません。また、人口やGDPは、地域別に指定されているのですが、西ヨーロッパ、東ヨーロッパ、アフリカ、トルコ、イラン、イラン以外のアジアなど、地域別となっていて、古代国家の単位と関連付けされていないため、ローマ帝国やペルシア帝国などの単位での参考値とはなっていません。

※追記2 2008年5月
 アンガス・マディソンの「Chinese Economic Performance in the Long Run 960-2030」の中国語訳、「中国经济的长期表现 公元960-2030年」の付録に、明代初期、1380年から、10年刻みの人口推計表が掲載されています。1895年以降は、3~5年毎、1952年以降は毎年の人口が掲載されています。邦訳だと「世界経済の成長史1820‐1992年―199カ国を対象とする分析と推計」が定価で5040円、 「経済統計で見る世界経済2000年史」が、13650円と高額だったりしますので、統計表程度しか見ない私のような向きには、30元(450円くらい)で手に入る中国語版は非常にリーズナブル。本書には、紀元1年、960年、1300年、1700年の欧州(トルコとロシア以外の欧州)と中国の推計GDPの比較が掲載されていて、1人辺りの平均年収が掲載されています。
      1年  960年  1300年  1700年(単位、1990年ドル)
中国  450   450    600     600
欧州  550   422    576     924

 きれいに、ローマ帝国の最盛期と中世暗黒時代、ルネッサンス以後の復興という欧州人の歴史観を反映した値となっています。こんな微妙な相違は、殆ど誤差の範囲であって、集計方法によりいくらでも調整できてしまう値だと思うのですが、そうはいっても、何もないよりはマシ。ということでついつい参照してしまうことになるのでした。

 この手の推計となるとマディソン教授ばかり。教授の算出を検証するような他の研究は見たことが無いのですが、数字だけが様々なメディアに転載され、学問的に確定した事実のように、一人歩きしている印象があります。

というわけで、期待した程の参考にはなりそうにもなかったのですが、いくつかわかったこともあります。ひとつは、18世紀の日本の都市化が、西欧と同じ13%程度と、中国よりも高かったこと。もうひとつは、西欧の経済データは12世紀頃から比較的把握されていて、西欧の経済的浮上が1000年頃から起った、と考えられている点などがありました。

※追記3
2010年1月 アンガス・マディソン氏のサイト掲載の数値情報を利用して、紀元1年と2008年の世界人口のグラフを作成してみました。 また、2次大戦前夜の日本の国力を知りたいと思い、1937年と41年のGDPベスト15国も一覧も作成してみました。ご参考にどうぞ。

※追記4 2010年6月
清代中期の役人洪亮吉の一人当たりを養う耕地面積論とアンガ・スマディソン推計の清代一人当たりGDP」と言う記事も作成してみました。

※追記5 2016年2月
アンガス・マディソン氏のローマ帝国の一人当たり平均所得の計算根拠の概要を、『世界経済史概観-紀元1年~2030年』(2015年)をもとに各世界のプロファイル(古代ローマ、漢、サーサーン朝の人口、財政、生活費、GDPなど)に追記しました。もうちょっと史料的な裏づけがあるのかと思っていましたが。。。計量経済史学を歴史経済学がほぼ無視している理由がよくわかりました。アンガス氏の研究数値のうちのGDPについては、出典として利用しても概ね妥当な範囲だろう、という段階に達しているのは1820年以降くらいだ(イタリアは1500年くらいかも)、という結論をようやく出せそうな気がしています。

 ここ数年、計量経済史学関連の史料とロジックを渉猟してきてわかったことが2点あります。ひとつは、平均寿命(≒平均余命)や歴史人口学、財政規模、穀物生産性などはそれなりに史料的裏づけがあること、二つ目は全時代・全地域を通じて、一貫して比較的残っている文書史料は、税収(≒歳入)と兵士の数(≒歳出)だということです。歳入は金額が重要なので、中央集権が貫徹していない場合、人口は重視されず記録もまた残りにくい、対して歳出のほとんどはどこでもいつでも軍事力≒兵士の数なので、総人口に関する史料は少ない代わりに兵士の数に関する史料は結構残っている、という点。

※追記6 2016年12月(2017年5月一部修正加筆)
アンガス・マディソン氏の『世界経済史概観-紀元1年~2030年』(2015年)に、ローマ帝国各地地域ごとのGDPの算出方法が記載されていました。同じ方法を漢王朝に適用した記事を書いてみました。ご興味のある方はこちらをご参照ください。2014年春にウォルター・シャイデルの論考を読ん時から思っていたのですが、古代・中世に対する数量経済学史は、もうまったく、オーダー・エスティメイションの世界だということが、私の結論です。経済理論自体が、数々の前提条件のもと、「XXの値がYYならば」というオーダー・エスティメイションで成り立っていることを思えば*1、特に不思議ではないのですが、歴史学の経済史家が数量経済史を真面目に相手にしないのが本当によくわかりました。まあでも、仮定を積み重ねるだけのことでも、何もやらないよりはましではありますね。それなりに意味のあることだと思います。
 アンガス氏の1820年以前のGDPに関する算出値ありきで論を構築する研究はろくでもない研究だと考えた方がよく、アンガス氏が仮定として用いた各要素の値を、ひとつでも多くより実証的に深める研究こそが、数量経済史家には必要とされているのだ、ということがよくわかりました。アンガス氏を知ってから10年、ようやく彼のGDP推計の問題点も有効性もだいたいわかった、といえる段階になりました。長い探求でした(この10年間にアンガス氏の研究に関心をもって調べた各記事はこちらこちら)。

*1経済理論が現実の世界でなかなかその通りに機能しないことが多いのは、条件の幾つかが現実と一致していないからです。諸条件がほぼ揃った滅多にない成功事例がブレトンウッズ体制下の西側先進国経済であるといえると思います。オーダー・エスティメイションは、現在ではビジネスコンサルやITコンサルでもよく使うので、理系分野だけではなく、ビジネス界でも馴染みのあるものだと思います。

追記7(2017年7月)

 日本経済新聞社の記事7/1日の『習近平氏の「中国の夢」、千年間のGDPで精査』で、今年4月に発表された、宋代以降の中国と中世欧州、徳川日本のひとりあたりの平均GDPに関する最新研究『China, Europe and the Great Divergence: A Study in Historical National Accounting, 980-1850』(PDFはこちら)が紹介されています。時間のある時にじっくり読んでみたいと思います。1700年前後のイングランドの値をかなり低めに出しているような気がします。アンドレ・グンダー・フランクが『リオリエント』で叙述的に示しただけで数値的根拠がいまひとつだった、近世における中国への銀の流入量の総額見積もりや物価との連動を数値的に説明できていたりすると嬉しいかも。

 ところで、日経の記事にある、習近平氏が、「アヘン戦争の前は中国は世界一豊かな国だった」との文言は、ひとりあたりGDPの話ではなく、当時の単一の国家としては飛びぬけて膨大な4億という人口による総GDPの話をしているのだと思うのですが、どうなのでしょうか。個人的にはポメランツ説よりも、アンガス説に基づいての主張だと思っていました。GDP総額で米国を抜くのが当面の現実的な範囲の値であって、ひとりあたりのGDPが米国を抜く、という議論が現実味を持つにはあと50年くらいかかると思っているのですが、、(輸出競争力確保のため、為替の完全自由化はなかなかしないでしょうから、PPPのひとりあたりで米国を抜く、ということなのかも知れませんが、、、こちらは現実的な目標になりえると思います)。

 いづれにしてもこうした研究が地道に進んでくれるのは嬉しい限りです。

 今回の追記では以下5点の関連論文や書籍等を紹介したいと思います。

1.ローマ・漢王朝・パルティアのひとりあたり最低生活費の研究(オランダ・ユトレヒト大学)
 The standard of living inancient societies: a comparison between the
Han Empire,the Roman Empire, and Babylonia (PDFはこちら
 Bas van Leeuwen, Reinhard Pirngruber, Jieli van Leeuwen Li著

2.18世紀のロンドン・アムステルダム・ミラノ・北京都市部・北京農村部・京都/東京の実質賃金比較研究
 『実質賃金の歴史的水準比較』J.-P.バッシーノ、馬徳武、斉藤修著
 (『経済研究』通巻56号,2005年第四号pp349-369)

3.斉藤修『比較経済発展論-歴史的アプローチ』(岩波書店)
 掲載グラフを解説しているところで、上記バッシーノ達との研究に追加して、同時期に対するストラスブールやオックスフォード、畿内、京都、銚子、広東との賃金を基準とした生活水準比較グラフが掲載されていて有用です。アンガス・マディソンの方法論についても解説しています。

4.歴史学畑の西洋経済史学者が書いた数量経済史の入門書としては、カルロ・マリア チポッラ著『経済史への招待―歴史学と経済学のはざまへ』 国文社/2001年)が良書だと思います。

5.アヘン戦争時の清朝と英国の財政規模
 めちゃくちゃ適当な計算ですが、当時の両国の中央政府の財政総額が残っているので、労働者ひとりの年収を100万円と決めうちした場合、両者の財政規模がいくらになるのか計算した記事です(こちら)。清朝1兆円弱、英国本国1.3兆円くらいになりました(英国は、植民地政府の財政は含まない)。この背景として清朝は康熙・雍正帝の時代に中央政府の税額を固定してしまった点と、英国は巨額な国債を発行していた二点があげられます(あくまで中央政府の税収で、地方政府の税収は別にあります。更に清朝では公式の財政記録に載らない要素(徭役等)も大きいと思われます。よって、これはあくまで数字のお遊びです)。しかし簡単に計算しただけでも英国の財政規模が清朝を上回ってしまう結果となる具合ですから、アヘン戦争の敗北も妥当なように思えた次第です。

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# by zae06141 | 2007-03-20 00:55 | その他歴史関係 | Comments(0)

より便利なサービスの筈が、そうでなかったりする話

 久々に米国出張してきました。出張先で、便利にするためのサービスであるのですが、実際のところ、そうでもないかも、というサービスに2つ程出くわしました。

 ひとつめは、空港のチェックインです。

 最近、幾つかの航空会社では、ホームページから、チェックインができるそうです。今回利用したノースウエストでは、24時間前から可能となっていました。予めノースウェストのホームページから、苗字と空港コードと予約番号を入れれば、座席表が出てきて、空いている好きな席を選べるというもの。座席を選んだ後、サブミットボタンをクリックすると、ボーディングパス画面が出てきて、それを印刷して、空港にもっていけば、チェックイン作業をパスすることができ、そのまま荷物チェックに向かうことができるわけです。チェックイン作業は終わっているので、空港に遅刻して、オーバブッキングで座席を他の客に取られてしまう心配も無いわけです。この為、空港には、出発の1時間前に着けば充分。浮いた時間を他のことに使える、というわけです。

 このサービスは、ホテルのロビーなどに設置されているインターネットサービスで、プリンタも利用できるところがあるので、そうしたところでは便利です。ネットカフェでもできるでしょうk。しかし、今回は、出張先の社内設備からプリントアウトしようとしたので、まず、プリンタードライバをダウンロードして、インストールしなくてはなりませんでした。更に印刷すると、右側が印刷しきれず、余白調整に手間取ったりしてしまいました。ホームページの設定は1分くらいで終わったのですが、最終的に印刷ができるまで、1時間くらいかかってしまいました。翌日は、出発の1時間前に空港へ行けばいいので、余裕が持てましたが、結局トータルでは、時間の削減にはなっていないですよね。ホテルに設備が無ければ、ネットカフェを探さなくてはいけないし、探して印刷する時間が1時間かかってしまうのであれば、最初から空港に2時間前に行くのと変わらないことになります。しかもこのサービスは成田ではまだ使えないので、この点でもあまり役に立たないかも。。。。

 ふたつめは、レンタカーの予約。ハーツでは、ゴールド会員になると、空港のレンタカーカウンターに行かず、直接車の置いてあるところに行って、ピックアップできるそうです(他も似たようなサービスをしていると思うけど)。これも並ばないで済む、というメリットはありますが、今回私の着いた便では、殆ど客がいないようで、カウンターにいった時も私だけ。他に客がいなかったので、カウンターの人が、こちらが名乗る前に「〇〇さんですね。承っております」というくらい。で、予約を確認すると、カウンターの人が、「あと25ドルで、フェアレディZはいかがでしょう」と薦めてきた。いいですと断ったら、15ドルにディスカウントされた。一番安いコンパクトカーでいいです、となおも断ったら、同じ値段でいいからと、フォードの大型SUVを薦められました。値段が同じなら、ということで借りてしまいました。出張先のオフィスで、前日一足先に来ていた同僚に聞いたら、「ゴールド会員なので、そのまま予約通りのコンパクトカーだった」とのこと。こう考えると、カウンターに行った方がメリットがあることもあるかも、と思いました。

 というわけで、今回知ったサービスは、どちらも今後使うかどうかあやしいかも。ただ、座席を自分で選べるのはいいのかも知れませんが、今回、選んだその席のビデオが壊れていて利用できませんでした。。。。
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# by zae06141 | 2007-03-10 21:03 | 雑記 | Comments(0)

映画「笛吹川」

木下恵介監督「笛吹川」を見ました。この映画、中学生の時、好きなSF映画ベスト5という雑誌の企画で、幻想小説の名手、「X電車で行こう」の作者山野浩一さんが、この作品を「異様な感覚」と評してベスト5に上げていたのを読んで依頼、ずっと見てみたいと思っていました。深沢七郎の原作は、学生時代に読み、好きな歴史小説の一つでもありました。

作品は、武田信虎の時代、晴信の生まれる少し前から始まり、武田家滅亡までを扱った大河物語ですが、主人公は武田家や武士ではなく、ある農民の一家です。彼ら一族が、ある者は戦場にゆき、ある者は武田家に仕えることで歴史と関わってゆく、しかし、それ以外の部分では、淡々とした生活が続くだけの、社会の上層と関わることが少ない農民主体の世界が描かれます。社会の上層階層が繰り広げる歴史が、まるで異世界からのちょっかいのように感じられる不思議な感覚は、映画でも、原作のイメージそのままに展開しています。主人公達の心理描写に立ち入ることなく、乾いた映像が続いています。

映像を見て強く印象に残ったのは、殆ど低い姿勢からのカメラワークがほぼ一環して続く部分と、BGMに音楽は一切なく、寺の鐘が、鈍く低音で静かにゴォ~ン ゴォ~ンと鳴り続くとことでしょうか。鐘の音に伴って、時折僅かに、微かに経文を唱えるような音がする。

カメラワークは、1.5m程の高さで一定していて、農民を見上げるような感じで捉えています。とおりがかかる武士は、当然見上げるようになる。社会の底辺から、世の中を眺める感覚を表現しようと意図的にしたのかどうかわかりませんが、意図したのだとしたら、それは成功していて、そのような印象を受けます。

BGMの鐘と経文は、パゾリーニの「王女メディア」を彷彿とさせます。「王女メディア」では、BGMに日本の民謡と、鐘が使われ、音楽は一度も登場しなかったように記憶しています。

原作も読まず、パゾリーニも見ていなかったら、きっと衝撃を受けたのではないかと思いました。
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# by zae06141 | 2007-03-04 06:02 | その他の時代の歴史映画・ドラマ | Comments(0)

第七の封印とサクリファイス

中世を扱った映画を探していて、イングマール・ベルイマンの作品「第七の封印」(1956)を思い出しました。見たのは学生時代なので、もう20年くらい昔の話。なので、記憶が一部あやふやなところがあるので、ちょっとネットで調べてみたところ、意外に、記憶の内容通りです。

この、「第七の封印」とアンドレイ・タルコフスキー「サクリファイス」は、二元論という、同じテーマを扱っているように思えます。ここで言っている二元論とは、善悪、神と悪魔ではなく、コスモス・カオスという意味での二元論です。何がコスモスで何がカオスか、というと、ざっくり言ってしまえば、深刻に人生や世界のことを息苦しいくらい真剣に考える理性的知識人の世界がコスモス。どこか冷静過ぎて、秩序的。「人生楽しめばいい」と、どこかいいかげんで、不真面目でざっくばらんで感情的だが、陽気で人間味ある世界がカオス。

第七の封印における、信心深い知識人である主人公の、人生の意味や死への思索、これは、コスモスを追い求める真摯な姿勢であり、しかし、そんな主人公の所に、死神がやってくる。主人公の周囲に何人かの人物が登場するが、旅芸人の夫婦以外は、全員破滅して終わる。彼らに共通しているのは、「形而上なるものへのこだわり」だと思う。魔女とされ、処刑される女性。魔女は、人々の意識や恐れが作り出したものに過ぎない。しかし、「魔女」という形而上的存在が、処刑という災厄をもたらす。主人公は信心深いが、それは心ではなく、論理的な側面がある。だからこそ、死神がやってくるのである。

一方、信仰心という意味では不真面目な旅芸人の夫婦のみが、生き残る。マリアの幻影を見たにしては、深い思索もなく、しかし素朴で、あれこれ深く考えることなく、子供と夫婦生活中心とした、地に付いた生活をおくっている。そんな夫婦の元には死神は訪れない。そもそも、そんな夫婦の世界には、「死神」は存在していない。

「サクリファイス」では、前半部がコスモス、後半部がカオス。核戦争が迫っているというのに、冷静、客観的、不安な感情を押し殺し、理性的過ぎる主人公達。この世界は破滅する。一方の後半部。時間が遡り、同じ場面が繰り返される。登場人物は同じだが、その振る舞いは前半部と打って変わって、あさましく醜いといえるくらい感情的・自分中心的だが、この世界は破滅することなく、家が焼ける程度で終わる。

タルコフスキーも、ベルイマンも、過剰なきまじめさ、非人間的なまでに過剰な理性が、世界を滅ぼす。希望は、原初的で粗暴で不真面目とも思えるが、暖かく人情味ある庶民にある、と言っているかのようだ。このテーマはドストエフスキーに通ずるものがあると思う。

コスモスカオスの対応は、映像にも象徴的に現れている。第七の封印の白と黒、サクリファイスの冷たいカラーだが、モノクロトーンの前半と、より鮮烈な色彩の後半と。

無理くり落ちをつけるとすると、
「中国が世界をメチャクチャにする」という書籍が売れていますが、書籍に描かれている、中国人の、あさましいくらいの現世利益追求の姿勢は、世界を混乱に陥れるかもしれませんが、世界が滅ぶことにはならないでしょう。反対に、米国のネオコンや、イスラム原理主義に代表される生硬なイデオロギーこそ、人類を破滅に導くものではないか、と思えるのです。

まぁ、この論法からすると、頭でっかちな私の元には、やがて死神が来ることになるのでしょうけど。。。。
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# by zae06141 | 2007-02-17 22:24 | その他小説・映画関連 | Comments(0)