古代世界の午後雑記


「古代世界の午後」更新履歴と雑記
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人類史観まとめ

【1】「恩賞は、戦争に勝つより難しい」

 前回、1988年のNHK大河ドラマ「武田信玄」を再見して、特に得るものはなかった、と記載しまたが、1点だけありました。それは、戦勝後、重臣たちを前に信玄が語った台詞です。

 「恩賞は、戦争に勝つより難しい」

いやぁ、そうだよなぁあああ。と深く頷いてしまったのですが、このことは人事管理の重要なポイントであり、政治や統治の要なのではないかと、このところ思うようになっています。恩賞とは、言葉を変えれば、利益や資源を、功を挙げた者に配分することであり、社会システムとは、利益や資源の配分を、規則的に行う仕組みであり、政治とは、利害調整のツールだと思うのです(あたりまえか)。私の部署のたった十数名のチームでさえ、査定や昇進を巡って紛糾しているのですが、武田軍も、国家も、史上の帝国も、組織というもので、利益/資源分配を巡って起こっていることは、共通しているように思えるのです。

 最近の私のチームは神聖ローマ帝国のような感じ。私にとって歴史とは、現在社会の行く末を知る為の地図のようなものであって、戦国時代や三国志の武将のリーダーシップが、経営者の方々への参考材料として利用されるようなものとは違うと考えていて、あまり日常業務と歴史的薀蓄を重ねたことは無かったのですが、本日帰宅途中気づいてみると、そんな感じ。実は昨年9月に、「やっと戦力が整って、やりたいことができるようになった」と思ったのも束の間、確か翌日あたりに、当時のマネージャが異動願いを出していることが発覚し、「満月とは、欠け始めである」とはよく言うものだなぁ、と思ったものなのですが、その後後任に据えたリーダーも、1月またずして異動を願いで、更に同時期に、後任の昇進に不満を持っていたシニアメンバーも異動願い。更に玉突きのようにうひとりと、3ヶ月の間に4名もの異動・退職願いを出され、一気にチーム崩壊に瀕してしまったのでした。当然私のマネージ力も疑われて四苦八苦。今日こうして久々に職場のことがかけるのは、収束に確たる目処がついたということでもあるのですが、昨年の2チーム体制から、ずいぶん異なった情勢となっています。

 まず、最大勢力のグループから1チーム(3名)がスピンアウト。元のグループのリーダーは、職位としてはもっとも高いのですが、そのメンバーの1人は、ほぼ独り立ちできつつあり、独立勢力という感じ。リーダの直下は事実上2名となり、うち1名もあまり統制が取れているとは言えない感じ。もう片方のチームも、立て続けにリーダーが抜けたことから、現在公式のリーダーはいない状況で、「事実上のリーダ」がいる状況。鎌倉幕府の執権や室町幕府の管領というような感じ。彼の場合、公式にリーダーとするには、不足している部分が多過ぎ、一度もリーダー宣言しないまま、事実上のチームリーダー扱いをしているわけです。この点では、スピンアウトした3名チームのリーダーも同様で、「○○チーム」と読んでるくせに、彼らをリーダーとは一度も称していないのでした。「事実上の独立」みたいな感じになってます。そして唯一リーダーと公称されている人は、実権が及ぶ範囲が一人だけ、と一番小さい勢力圏となってしまっているのでした。更には、当初の第二チームの1人が、第一チームの担当業務をやっているなど、ますます神聖ローマな感じになってきています。

 チーム再編成の流動的な状況なので、無理に枠組みだけ作っても意味がない、ということでこのようにしているのですが、いまの情勢にはあっているような気がします。古い枠組みは有名無実化し、個々人が力を蓄えてくるのに合わせて(逆に駄目な人はこれまで同列だった人の下につく)再編する、という方針。この不況下の中、新規3名の採用もほぼ決まり、11月以降停滞していた事業プランもほぼ再建の目処が立ち、分裂状況も底を打った、という感触があります。久々に少し肩の荷がおりた気分です。

 ここ5ヶ月に及ぶ混乱は、私が来てからの昨年来の業務変動や、業務種類の増加、昨夏から秋にかけての急速な増員(毎月1名計4名)などにより、一部メンバーの実力と地位や業務との不一致、メンバー本人の自己認識と成果にずれが発生したことが根底にあると考えています。まさに、人口増加や生産性の向上や技術革新が社会変動を招く、という状況を身をもって体験することになった、という気もしています。
 
【2】 目的共同体(企業、ゲゼルシャフト、ノモス)と自然共同体(故郷、ゲマインシャフト、カオス)と

 人間の組織体は、ちいさな集団から巨大な集団まで利益/資源の配分を巡って常に諍いが起こっているわけですが、何故このようになってしまっているのかという点については、生物界から社会が分立した時点に求められるという見解があります。「人類は、ある日突然、生物界から離れ、社会を持っていることに気づいた」という話を学生時代の講義で聞いた覚えがあります。「生物」とは元来、個々の意識を持たない物理的存在であり、元来親からの誕生直後から、ひとりで自活ができるようなモノだったのが、幼形成熟(ネオテニー)などが進み、未熟なままで誕生し、一定期間親が「育てる」という「社会層」が介入するようになり、それが一層発達し、集団で子供を養育するようになり、ネオテニーと社会層の拡大が平行して行われ、ひいては、「個人の意識の誕生」を促した、という考え方です。意識が誕生し、ある日、「社会」というものの存在に気づいた、というわけです。同時に、他人は自分と違う考えを持つ、ということにも気づいた。この時点から、人類の利益/資源分配を巡る諍いが起こるようになったということなのでしょう。

 集団には、特定の目的に賛同する集まりである集団と、既存の、個人の意思とは無関係に成立している集団があります。社会学や哲学では、前者をゲゼルシャフトとか共同幻想、対自体、後者をゲマインシャフトとか、共同態、即自体、ノモスなど色々な用語で呼んだりするようですが、前者が意識して選択する共同体、後者が、生得的共同体、と考えれば、整理しやすいのではないかと思います。宗教団体、大学のサークル、ナチス党の支持者や企業に所属する人、納税し、選挙登録をして「参加」する合衆国などは前者、ドストエフスキーが理想とした中世キリスト教共同体や、アーリア神話による、ゲルマン民族の統合思想など、極端なナショナリズム、日本で生まれればそのまま戸籍と選挙権が得られ「日本人」となる日本人、大阪に住んでいるのだから阪神ファンという発想などは後者ということになります。

 前者の、目的を持った人々の集団では、利益分配での紛糾の占める割合は、後者の生得的集団よりも低いのではないかと考えていました。目的が明白なので、目標の達成に最も寄与した順番で利益分配すれば良いだけです。目標に不満があれば、集団を代わればよいわけです。これに対して、生得的集団では、国が気に入らなくても、移住する、という人は寧ろ多くはなく、生得的集団内で利害を調整せざるを得ない、よって、こういう集団を、一定方向へと纏め上げ為に、「一億中流幻想」とか、「全体主義」のような方法が利用されてきたのだと考えておりました。

 企業のような、本来その企業の仕事をやりたい人々の集まりである筈の集団では、目標が明白なので、その目標の達成にもっとも寄与した順番で利益分配すれば、問題が無い筈なのですが、何故にこんなに紛糾するのだろうか。というのが、このところの日々の疑問だったのですが、やはりこれは、中国オフィスが、「バック部門」だからなのかなぁ、と思うようになりました。日本で、顧客前線に出ていれば、売り上げが査定に直結するので、査定も簡単。放っておいても部下は顧客に叩かれるので、上司は部下を宥めていればよく、マネージャの仕事も、人事管理よりも、戦場で勝利する為の作戦と用兵に比重をおけるわけです。ところが、バック部門で、直接の顧客がいない場合、「技術力」「有益な資料作成数」などが査定基準となってくるのですが、売上のような、誰でも納得せざるを得ない「外部の基準」が無いために、部内で基準を作る、ということになり、その基準の妥当性を巡る、メンバー間での見解の相違が露呈することになるわけです。そうしてマネージャの業務の重心は、人事管理に移行していってしまう。組織体が大きくなる程、本来目的集団だった集団の内部に、生得的共同体が発生していくような気もします。

 そんなわけで、顧客相手のフロントに戻りたいとか、いっそのこと十名くらいの小企業にでも転職するか、などと考えたりするのですが、小企業というのは、上手くいけば、自由で高収入な集団でいられますが(若手への教育コストがかからないことが主な要因)、失敗すると、下請けという封建的階層社会の下層に位置することになってしまうので、甘い想定は禁物です。となると、今の勤め先でフロントに戻るのが現実的なのか、人生ここらで再度チャレンジすべきか、など、落ち着いてきたら落ち着いてきたで、色々と考えてしまうのでした。ともあれ、これでチーム事情が落ち着いてくれれば、秋口には帰国できそう(というより戻らされそう)な感じになってきました。とはいえ、このような内容を書く度にその後暗転したりしているので、今後もどうなることやら。



【3】間主観世界中に占める「客観」部分の減少と「少数者の客観」「個人主観世界」の拡大

 人事マネジメント書籍を見ると、「最近の若者は」という管理職のため息が必ず記載され、特に「叩き上げ」で管理職となった人々に対して、コーチングや教育重視の指南が多く見られる点が共通しているように思えます。「せっかく俺が成功してきた貴重なノウハウを教えてやっているのに。教えたとおりやればできるのに、何故できないんだ。何故やろうとしないんだ。これだから今の若者は」という嘆きに対して、「わからないのは教え方が下手なだけ」「過去の成功体験に基づく信念は、現状の理解の妨げにしかならない」などと、対策の指摘も共通しているように思えます。

 これらの現象に対しては、豊かというだけではなく、社会が多様化したことも大きな要因だと思うのです。私が大学を卒業した頃、「新人類」という言葉が流行し、高度経済成長期の大量消費の時代から、少量多品種の消費時代へと変化しつつある時でした。更にインターネットの発達で、いままで周囲では見つけづらかった、ニッチな商品や、ニッチな趣味仲間も簡単に見つけられ、多様なコミュニティが急拡大しているように思えます。インターネット空間は、間違いなくこうした社会のあり方を巨大な規模で推進しています。津村記久子の小説『ミュージック・ブレス・ユー』の主人公は、趣味が合う人を見つけて英語のブログまで読む主人公が登場していますが、まさにそんな時代です。つまり、「最近の若者は」という嘆きが指摘する現象の中には、人類の進化沿った方向に進んでいる要素も大きいのだ、と思うわけです。

 ネオテニー(幼形成熟)が、人類を、自然界から独立させ、「社会層」を生み、社会層は歴史とともに益々拡大している、という話を記載しましたが、その一方で人類は、「社会」に対する「個人的な領域」をも拡大する方向で進んでいるのだと思います。現象学的社会学などでは、社会とは、個々人の主観の交わりから生成される、社会構成員皆が同意・共有する「客観部分」の事だとしています(社会学で間主観と呼ぶ部分です)と。イメージにすると、下記の図(図A)のようになるのでしょうか。

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 この図のひとつの円が「個人」であり、全員の円が重なっている部分が、社会の構成員全員に認識されている社会制度や「現実」「客観」(間主観)部分でであり、一部重なり合っている部分が、「一部の人の間だけで意見の一致する部分」(これも間主観)、またく重ならない部分が、「個人の主観部分、睡眠中やドラッグなどで見る夢や幻想、日頃の妄想」というわけです。近代以前の中世の村落共同体や、現在でも南米やアフリカの部族共同体などには、強力な掟や神話・宗教・社会制度などに縛られている共同体がありますが、これは、上図のような、円の重なる部分の多い、個人的部分を極力少なく押さえ込んだ共同体と言えます。こうした村社会では、掟を破った構成員は、しばし村を追放されたり、処刑されたりして、円の重なる部分である、「客観的秩序」を脅かさないようにして維持されるわけです。中世の村落や南米アフリカ部族社会では、社会の規模は小さく、土地や自然の力に圧倒されていて、お互いに交流は制限されていることから、それぞれの村や部族独自の奇妙とも思える神話や制度が発達する傾向にあります。

 これに対して、多様な地域を統合した古代帝国や現代社会では、中世的小規模や村や部族は、巨大な帝国や、グローバリゼーションの中で交流することになり、抵抗がありながらも破壊され、混交の中に活力と新しい創造が生まれる傾向があります。多様な交流は、共通の価値感の領域を減らし、上の図Aから、下図(図B)のような、「個人の領域」の増大する社会に向かうことになります。人々の間での共通認識部分が相対的に減少した結果、一度社会秩序が崩れるとカオスを生みやすくなっています。端的に表現すれば、全体的にカオスの領分が増大しているのが人類社会と言えます。

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 古代や未開社会は、時としてとんでもない習俗が行われていたりします。13世紀フビライが滅ぼした雲南のある村では、旅人を食べる習慣があり、フビライはこれを知って奇異な悪習を無くす為に村を滅ぼしたそうですが、少なくとも村の中では、奇異でもなんでもなく、普通の社会制度だった筈です。人類学は、ポトラッチのような、近代西欧の論理では驚きをもって迎えられる習俗を明らかにしてきました。このように、広大な地域に点在した村や部族社会の習俗は、帝国やグローバリゼーションに含まれることにより、より巨大な円の共通部分を生み出すと同時に、1個人や、少数の嗜好を同じくする人々にしか共有できない価値観や常識へインスピレーションを与えることになります。例としてあまり良いとはいえませんが、同性愛者などは、図Aの社会では排斥されたかも知れませんが、図Bの社会では、「少数の人だけが重なる部分」が増大する為に、世間全員からは受け入れられなくても、分かり合えるもの同士、彼らだけの世界を見つけ(政治的主張から、趣味の仲間、同性愛者同士等々)、共同体を作ることも可能になってきます。現代では、前近代では世間から受け入れられなくても、「そういう人々がいる」ということは認知されるようになってきています。インターネットは、まさに少数者のコミュニティの増加に寄与しましたから、一昔前までは、誰とも重なる事の無い、まったくの個人の幻想のような妄想に終わっていたものでさえ、共有できる仲間を見つけることが出来るようになってきています。


【4】物理・生物学層の領域の縮小と個人の意識・社会の領域の拡大

 このように、世界は、図Aから図Bへと、少数者だけの価値感の世界や、個人的な妄想の領域の拡大へと向かっており、近年の猟奇的な犯罪の増加は、こうした個人主観世界の増大に起因するものが増えてきているのではないかと思うのです(もちろん全てがこのような理由とは言いません)。これは物理的な病気では無く、円の重なる「社会」部分の比重が低下し、個人の主観世界の比重が過度に増大することで起こることから、社会や心理の分野の問題であるように思えます。心理学や生理学の世界では、社会や個人の意識が生理層に影響し、ひいては物理的症状に影響を与える、という話があり、人類進化の初期段階では、生物層や生理層が、圧倒的に個人の意識を規定していたものが、段々と比重が逆転し、今では、個人の意識層・心理層が生理層に大きく影響するまでに発展してきたということなのでしょう。この考えを更に推し進めれば、人類の思考は、遂に核兵器を産み、核兵器のボタンを任かされた少数の指導者が物理的に世界を滅ぼすことも出来るまでになり、10万年前には、ほぼ100%物理層に囚われていた人類が、物理層を次々と克服し、地球を破壊・コントロールできるまでになってきた、ということにも表われています。図で表すと以下のようなイメージです。上記図Bは下図Cの右端の状況を、右端から少し左によった部分が図Aという位置づけです。数千年前は「環境決定論」に近い段階にあった人類は、「環境可能論」の段階へと発展してきているわけです。
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図3

 私には、個人の主観の多様化や社会の多様化は、人類の進歩と表裏一体であると思えます。「社会」の誕生は、一面硬い地面だったところに、泥が発生し、泥がどんどん拡大してやがて沼になり、沼の中で、さまざまな粘土細工が構築されてゆく、というイメージがあります。「沼」は「社会層」の増大であり、沼と硬い土の間の層は「生理層」、沼の中心は、「個人の心理層」があり、沼の中心に向かう程、泥の含む水分が多くなり流動的となり、不安定になることから、個人の意識を安定させる社会秩序というものが、より重要となってくるように思えるのです。全体主義とか管理社会は、こうした趨勢の中で比較的安易に「心理層-社会層」を安定させる解決策なのだと思うわけです。こうした、多様化した不安定な社会では、人々の利害を調整する政治は益々重要になり、島となった共同体を結びつけるビジネスや、異なった共同体を紹介し、取り持つビジネスのニーズは今後増すように思えます。

同時に、現代の子供の誕生から大人への成長発達のイメージは、上の図Cと非常に似ているので、色を変えるだけで作図できてしまいます(下図D)。図Cと図Dの細かい説明は後でします。取り敢えずここでは、色を変えるだけで作図出来るほど似ている、という点だけ印象付ける為掲載しています。
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図4

この、人類の進化と、子供の成長のアナロジーは 「現代の未開社会=現代の西洋の古代原始社会」とした近代西欧思想の図式化です。図Cと図Dを合わせたものが次の図Eです。
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図E

このヨーロッパ(民主主義)と東洋的専制(独裁)と未開社会(部族社会)を分ける世界観は19世紀のヘーゲルで完成していて、彼の『歴史哲学』を図式化すると以下のようなものになるのだと思います。
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図F

ヘーゲルは「歴史哲学講義」において、「幼年期」少年期」青年期」「成年期「老年期」という言葉を用いて世界各地域を説明し、子供の成長と歴史の発展、同時代の各地域を同じ構図で見るという、ヘーゲル以降多くの学問に無意識に採用される視点・思考・構図・構造をまとめあげました。彼の考えでは、人類が進歩する程「自由の領域の拡大」し、原始的本能の部分は「万人が万人に対する戦い」をするようなカオス(原始的混沌)にあり、自由の拡大の行き着く先は、理性(プラトンの定義したロゴス)の拡大であり、ロゴスがカオスを駆逐する、ということだったわけですが、実情は逆で、20世紀後半以降は、物理層が縮小し、個人の心理や社会層の増大はカオスの拡大となっているのが人類の歴史だと考えられています。現代思想におけるポスト構造主義といわれる書籍では、漠然とした「古き良き伝統社会」をノモス、近代化≒カオス化、カオスを防ぐためのイデオロギー(全体主義思想とか世界宗教など)をコスコスと呼びますが、それを先に登場した図と合わせて図式化すると以下の図のできあがりです。
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図G

近代社会となり個々人の自由が拡大した結果、価値観やライフスタイルが多様化したことは、図Gでは、同心円が重なる部分が減少し、個人の領域が増大し、しかしそういう個人も社会を追放される事無く生きて行けるように、「ノモス」における「客観」部分は縮小し、その外側にカオス(2つの赤点線の間のドーナツ部分)部分が広まることとなりました。図Fで未開社会=原始的混沌とされたカオスが、図Gでは、欧米となると巨大になり(第一次二次世界大戦などを起こしてしまう)、逆にカオスを無理に制御しようとしてヒトラーやスターリン、毛沢東のような全体主義社会を生んでしまう結果を招いています。

(2016年8月追記:最近のイスラーム世界の異常なテロにおいては、イスラーム世界の人々は、自分たちの宗教と社会が図Gの左上のような共同体であると思い込んでいるものの、ISに感化されたテロは、図G左下の二重赤線の間のカオスの部分の思想をそのまま内側の赤丸の枠内(客観世界)で実行してしまっている、という図式に見えます。近代的な高度な教育を受けている(図G左下の社会の住民)であるからこそ、(赤丸の枠内での社会=狭義の社会)から逸脱している行動が出てくるのだと思うわけです。高度な教育を受けている程、あるいは知能が高い程、個人の頭の中で精緻な理想世界を作り上げる、しかし図G左下図のように、「社会における個人の領域」が拡大しているがゆえに、他人に受け入れてもらうことが難しくなりついには他人に強制するか自殺(自爆)するしかなくなる、という、笠井潔が<セカイ系>と名付けた原理が、19世紀のロシアのテロリストや、20世紀後半の極左テロ、現在のISテロにも共通して見られるように思えます)。


【5】求められる秩序維持方法

近代欧米に限らず、中華もイスラーム圏もインドも、多かれ少なかれ社会は図Gの左図の上から下、同図右の左から右に向かって発展してきています。文明が高度化するほど、カオスを制御する「社会秩序」の道具が必要となるわけです。これを覆すことは容易ではありませんから、既存文明の歴史が長い社会程、英米流の近代化は、カオスを生むことになってきたのだといえます。フランス革命、ナチスドイツ、日本軍国主義、ソ連邦、毛沢東の中国など、英米から距離が出る程、英米流の近代化社会が定着にいたるまで大きな混乱や反動、秩序維持のための締め付け(全体主義化)などを経験することになったわけです。

 伝統的な歴史や文明とは、現在においては、秩序を維持する為のひとつの道具です。欧米圏はギリシア・ローマ秩序に範を求め、中国は中華帝国に、イスラーム圏はイスラームの教え、インドはヒンデゥー教というように。ところが、最近では人類史上かつてない急速な人口増大とインターネットによる情報の流通により、過去1万年に存在した人類の数よりも、この50年間に地球上に存在した人口の方が多くなる程になってきています。こうなると、いつまで、伝統的歴史社会の影響力で、今後の社会秩序を維持できるのかどうかが問われることになりそうです。歴史の比重は減少し、70億人の人類社会の中での横の情報のやり取りから、秩序が生成・変化する事象が増大するように思えます(社会主義が、インド・中国に入り込んだように、イスラームが拡大するように)。

 現在、人類は下記の3つの方向で社会が拡大しているのだと思うのです。

  人口の増大、(物理・生物層に対する)社会層と個人主観世界の拡大

最近グローバルヒストリー書籍が流行しています。

ウィリアム・マクニール『世界史』
フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』
ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』

などがベストセラーとなり、

グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』
ウォーラーステイン『近代世界システム』

なども売れています(ウォーラーステインは解説本が売れています)。

これらの書籍は、人類史の過去の全体像を振り返り、今後の指針を見出すという動機が強いように思えます。今後の指針には、「今後の秩序維持方法」も含まれている筈です。

何年か前にドストエフスキーの新訳がベストセラーになりましたが、私の中では、ドストエフスキーが『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』に登場する人物は、上記図Gに対応しています。

カラマーゾフ:
 ドミトリー  ロシア民族の伝統(ノモス)の体現者
 イワン    コスモス(西欧的論理)とカオスの分裂の体現者
 アリョーシャ キリスト教的ノモスの体現者
悪霊
 ピョートル・ベルホーベンスキー コスモスとカオスの分裂の体現者<セカイ系>
 スタブローギン         コスモスなきカオス体現者

近代西欧化(グローバリゼーション)により、伝統社会秩序が崩される社会では、どこの国でもドストエフスキーがヒットするような気がしています。ドストエフスキーはキリスト教による救いを目指しているようなところがあるので、これがネックとなるかも知れませんが、イスラーム世界でもドストエフスキーは人気が出てもおかしくはないのではないか?と思っています。

フランシス・フクヤマは、民主主義の勝利で歴史は終わる、と主張していましたが、人類の歴史は、今後も多少の反動は経ながらも、全体的には自由(=カオス)の領域が拡大し続け、それを制御する方法が模索され続けるのだろうと思う次第です。

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by zae06141 | 2009-02-25 01:33 | その他歴史関係 | Comments(0)

映画「ラングーンを越えて」

  という1988年ビルマ政変を描いた映画を見ました。この作品の存在自体知らなかったのですが、海賊版と民主化の関係を追った、「アジア海賊版文化」 という書籍を最近読み、そこで、ミャンマーの民主化と中国から流入する海賊版との関係が描かれていたことから、1988年のビルマの民主化運動と軍事政権による弾圧を描いた「ラングーンを越えて」を思わず見てしまったわけです。これまで人生で、ミャンマーについては、新聞記事程度の接触しかなかったので、この1週間の高ビルマ度生活はかなり珍しい感じ。それにしても、本書を読む限り、ミャンマーは言論統制国家とはいえ、ミャンマーの情報流通度は中国やイランや並と言えそう。海賊版は、「開発独裁型国家が経済離陸する過程で、外部の国との経済格差を突いて、一時的に繁殖する」というような傾向があるとのこと。昔の日本については知らなかったのですが、日本も例外ではなかったそうです。経済的に豊かになると、自然に退潮する傾向があるとのこと。中国も、昨年は、ウォルマートの安売り売り場で5元(約75円)程度で、海賊版DVDよりも安い価格で売られていたのはVCDだったのですが、今では同じ5元でDVDが売られるようになってきて、最早海賊版と値段が殆ど変わらないところにきています。違いと言えば、安売りDVDはまだ種類が少ないことと、海賊版はリージョンオールとなていることくらいでしょうか。そろそろ中国の沿岸部の大都市では、海賊版DVDを買う必要性は下がってきていて、寧ろ今は、タイトルの多さから、海賊版に流れている客が多い、という印象があります。

 ところで、先にミャンマーと比較に出した中国の情報流通度についてですが、先週ロンドン在住の知人から、「温家宝首相への靴投げ事件は報道されているのか」と質問されました。米国と違って経済関係がまだ大きくないからか、または過去の歴史的対立から英国のメディアは中国に厳しいような印象があります。昨年のオリンピックの開会式についての暴露をしたのも英国メディアですし。私の友人もすっかり中国嫌いになってます。英国人の英会話の先生も中国には先入観ありまくりで、情報統制されている旧共産諸国のような印象を持っていた模様。中国のメディアも、「英国がチベットの人権問題をあおるのは、もともと20世紀初頭にチベットを侵略しようとしていて、いまだにチベットを中国から分離させて自国の勢力圏に入れようとしているのだ」と言ったりしているので、どっちもどっちな気がします。このように、英国と中国は中良さそうではありませんが、靴投げ事件はちゃんと報道されていました。一応新聞にも載っていて、こちらの中国のネットサイトなどにビデオと記事があがっています(とはいえ、3日前とはURLが変わっているので、リンク切れになった場合は、「干扰事件 温家宝」で検索すると出てきます)

靴投げ事件というキーワードよりも、「干扰事件(扰は擾(騒乱、攪乱、妨害などの意味))」で報道されているので、ネットでもこのキーワードで検索すると出てきます。

 確かに中国は見れないサイトが多いし、報道規制が強いとは思いますが、私の感覚だと、生活していて、日本のメディアとあまり変わらない感じがしています。NHKでよくBBCの特集を報道していますが、日本で報道されない反米的な内容も多く、米国に近い筈の英国の国営放送がこんな内容報道するのか?と驚くことがよくありますが、それと比べると、日本の大新聞など、特徴のあるメディアは読売、朝日、日経だけで、あとはどれも同じ感じ。しかも海外報道となると、メディアはどこも米国のフィルターを通した似たような報道ばかりという印象があります。

 思うに、日本で生活していて、大新聞とNHKだけを見ているのであれば、最早中国で生活しているのとあまり変わらないのではないか、という気がします。日本の言論の自由と言われるのはどこにあるのかといえば、右よりの「諸君」「正論」とか左よりの「世界」とか、普通の人が読まないような論壇領域の話のような気がするのです。「諸君」や「世界」が無くても、困らない日本人が大半なのが実態ではないでしょうか。実態を良く知らず、無批判に英国を持ち上げているわけですが、「諸君」や「世界」が無いのが中国の言論、日本の言論の自由などその程度。英国などと比べると、日本と中国はさして大差無い、という印象があります。社会秩序維持の為に大手メディアと警察・政治は結託してそうなところも、程度の差はあれ、日本も中国も近い気がします。
 
 日本は豊かになり、政治雑誌など、私が学生の頃から流行らなくなっていました。私の周囲でも、「朝日ジャーナル」よりは「ポパイ」の人の方が確実に多かったと言えます。公式の場で発言が可能な日本と、それができない中国では、確かに言論の自由度に差があるとはいえ、豊かになってそうした雑誌を読む必要もなくなり、自由なのに投票に行かなくなり、日本は米国の用意した戦後民主体制があるからか、言論が制限されているとはいえ豊かになってきて、さほど不満も持たなくなってきている中国大都市部民衆と、とあまり変わらない社会となってきている気がします。つまり、こうしたところに、自由や民主よりも、秩序を優先させる傾向のある東アジアの国家の歴史的な体質という共通点について、考えてしまうわけです。

 さて、映画二話を戻しますと、88年9月の民主化運動の高まりと、その後の軍事政権による弾圧と虐殺が描かれています。私の記憶では、当時の弾圧状況は、一応海外にも報道されていたような記憶がありますが、この作品によると、ジャーナリストはじめ、ほとんどの外国人が締め出され、虐殺の実態は海外のメディアには届かなかったとされています。本作の宣伝文句は、「真実に基づくストーリ」となっていますが、事実に基づいているだけで、主人公が実在の人物というわけはなさそうです。こちらの映画評には、1988年以前から企画されていた内容で、主人公の女性はフィクションであると記載されています。虐殺の現場を描くために用意された登場人物ということで、真実なのは、当時のビルマの様子、ということなのでしょう。作品の分類としては、ポルポトによるカンボジア虐殺を描いた「キリングフィールド」に近そうです。

 本作はマレーシアで撮影されたとのこと。製作時マレーシアにミャンマ政府から圧力がかけられたとのこと。一方、作品のラストでは、主人公とビルマ人が、タイに逃げ込みます。まるでタイが、ナチスドイツに対するスイスのように見えてしまいました。よくよく考えると、東南アジアの中で、タイとマレーシアの安定性はぬきんでているような気がします(最近はベトナムも安定してきているけど)。

 ところで、本作を見ながら、1965年のインドネシアの政変を描いた「危険な年(The Year of Living Dangerously)」という作品を思い出しました。どちらも東南アジアの国の政変渦中を描いているところが共通しています。記憶では、社会人になってから見たような記憶があるのですが、1984年の日本公開となっているので、見たのは大学1年の時ということになりますが、大して良かった印象がありません。アマゾン評は結構好評。当時はきっと作品の良さがわからなかったのでしょうね。今見ると印象が変わるかも。

 途上国の政変前夜を描いた作品としては1973年のチリのクーデタを描いた「サンチャゴに雨が降る(特攻要塞都市)」というものがあります。今見てみたら、ブルガリアが製作に関わっているんですねぇ。。。

段々話が拡散してきてしまったので、最後に再度、ミャンマーの話で終わりたいと思います。
実は11日の祝日は、家にこもって「相棒 Session7」を、「亀山刑事最後の事件」まで(ネットで)見ていたのですが、亀山刑事が退職して、移住する先が、どうみてもバングラディッシュとビルマのあたりの架空の国家(どうみても、中南米かアフリカにしか見えませんでしたが)。こんなところでも、ミャンマーWeek な1週間でした。。。。

 ところで、すっかりファンになってしまいここ3ヶ月程で、セッション1から7まで、4/5程見てしまいましたが、どんどんシビアなドラマになってゆく展開に少し衝撃を受けたりしています。特にSession7の第一話で、「味方陣営」の筈の津川雅彦まで逮捕されたのは衝撃でした。と同時に、S6の最後からS7にかけての展開は、このドラマは、正義と正論を振りかざす杉下右京の破滅で幕を閉じる以外ありえないのではないか、とさえ思わされる進行ぶり。近代論理の成立と、近代推理小説と探偵の誕生は表裏一帯ですから、このポスト近代社会では、杉下右京のような筋の通ったタイプは、折られるしか無いという論理的必然さえ感じる初めてしまいました。クッション役だった亀山刑事がいなくなって、破滅までの足取りが早まるのではないかと懸念してしまいます。

というように、これまであまりテレビドラマを見たことが無かったからか、どんどん嵌って来てしまっているのでした。
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by zae06141 | 2009-02-14 05:09 | その他小説・映画関連 | Comments(0)

エイリアンの幼虫のモデル

 年末年始の旅行の折に、広東省北部の観光地、珠玑古巷で見られたもの。
卵から孵ったばかりのエイリアンの幼虫に非常ににてます。

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 きっと、デザイナーのギーガーは悪夢からエイリアンを考案したとのことですが、ひょっとしたら幼虫の方は、中華料理店とかでコレを見たのかも。。

 なんてことはないか。

 で、コレなんですが、鴨の開きです。尻尾の部分をエイリアンの尻尾に見立てると、エイリアンの幼虫に似てますよね。似てませんか?このカモの開きが数百と通りの両側に並べられているのは異様かつ壮観です。


 今年は昨年よりも早く暖かくなってきました。もう20度近くあり、軽装な人が増えています。ひょっとしたらまたあと1回くらい冷え込むのかもしれませんが。。。思うに、こちらの冬は、東京の冬と比べると寒暖の差が激しくまた、寒暖の回数も多いように思えます。東京だと、11月くらいに冷え込み、2月下旬から3月上旬に暖かくなるので、この2回の時期が風邪を引きやすい時期といえますが、こちらは、11月下旬に冷え込み、12月上旬に暖かくなり、12月末に冷え込み、1月上旬に暖かくなり、1月中旬から冷え込むという具合に、3回も気温の下降と上昇があり、更に1日のうちでも、昼は15-20度、夜は5度から10度程度とかなりの開きがあり、体調管理が大変です。今年の冬も、寒くなり暖かくなる時に毎回体調を崩していると言えそうです。
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by zae06141 | 2009-02-08 01:51 | 旅行・海外駐在関係 | Comments(0)

日本のビジネスマナー

 今回帰国した折に、うちの部署のメンバーの為に、日本語ビジネス文書の書き方の本を購入してくる予定だったのですが、本屋で色々選んでいるうちに、「日本のビジネスマナー」の書籍を購入することになってしまいました。思うに、現在日本語の問題とされていることは、実は日本のビジネスマナーに関する理解度によるのではないかと思うに至りました。学習によって身に着けた外国語に対して、完璧を要求することはできません。どんなに日本語が上手い人でも、細かい文法の修正は必要となります。修正が難しい文章とは、文法が問題なのではなく、書くべき内容がそもそも欠けている文章です。また、体裁そのもの欠けている場合も、修正量は増えます。文法以上に、日本語ビジネス文書の体裁を学習していただいた方が効率が上がるということに、このとろ気付くに至りました。

 日本語のビジネスマナーは、いたずらに冗長な側面が無いわけではありませんが、最近は、品質を均一化させる非常に高度なツールだと思うようになりました。日本企業で新卒教育を行う規模の会社では、大抵の企業が、このビジネスツールを教育し、ビジネスの品質自体を底上げしているのではないかと思うようになりました。学生時代は、「企業人の為の洗脳教育」などと悪いイメージを持っていたのですが、毎年膨大な会社が、程度の差こそあれ新卒教育を行うことで、日本品質向上に一役買ってるのではないかと、改めて思うようになりました。これは、非常に重要で、層の厚い日本ビジネスを底上げする文化なのではないでしょうか。

 このように考えてくると、そうしたビジネス教育を受けたことのほとんどない中国人の品質を上げることは、難しいものだと、改めて思うのでした。

 ところで、風邪は治りませんねぇ。。肺炎を疑っているのですが、医者にいってそうだと断定されてしまうのも怖くて、毎日伸ばし伸ばしにしています。日に日に良くなってきているようなのですが、どうなるのでしょうか。

 日本に帰国している最中に、日本から、中国海賊版映像サイトにアクセスしたのですが、ちゃんとIPアドレスを判定し、中国に一般に割り振られているIPアドレス以外だと、リージョンエラーとしているようです。ただし、漏れもあるようで、ルパン3世のドラマなど、見れてしまうものもありました。おそらく、コンテンツの登録時に、リージョン毎の禁止タグか何かも同時に設定るすようになっているのでしょう。タグの設定を忘れていると、見れてしまうというわけです。

 日本から禁止映像を見る場合、中国IPアドレスを、手元のPCに、固定で設定する、という方法もありますが、長く使うと逆探されてしまう可能性もあります。これ以外にも、技術的には、回避する方策も幾つかあるのですが、コストをかけずに行うのは難しそうです。毎月50ドルで程度であれば、こういうサイトは有料でも使うと思うのですが。。。。。

 一方、最近NHKが、遂にダウンロードサービスを始めたようですね。早速色々課題が出ているようです。多少実績がでてきたところで、利用してみたいと思います。

 金曜日から、3日程、風邪で殆ど終日寝込んでおりました。が退屈なので、宮崎駿の映画を見ました。「隣のトトロ」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」です。学生の頃、「カリオストロの城」と「風の谷のナウシカ」を見て以来です。これらについてはまたいづれ感想などを記載してみたいと思います。ひとつ思ったのは、いづれも「○○の○○」という題名となっていることです。「もののけ姫」も、実は「物の」「化姫」なのではないかと思いました。こんな話は周知の言い古された話なのでしょうが、周囲にアニメの話をする友人がいないので、私は昨夜気づいたのでした。
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by zae06141 | 2009-02-02 23:23 | 雑記 | Comments(0)