古代世界の午後雑記


「古代世界の午後」更新履歴と雑記
by Solaris1
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カテゴリ:その他歴史関係( 66 )


東京の地下鉄路線図と漢代領域図って似てる感じがします(+少しまじめな中国歴史地図の話)。

 という、どうでもいい話題(後半は少しまともな話です)。

上が漢代(Wikipedia掲載)、下が東京地下鉄路線図。漢代地図は、ちょっと上下の縮尺を縮小していますが、そうすることで一層似てくるような気がします(特に大江戸線の路線が)。

a0094433_1133086.jpg

こちらのWikipedia掲載地図を加工しました

a0094433_114059.jpg


ところで、中国版Wikiの漢朝の項目を見ると、紀元前87年と紀元2年の漢代地図が2つ掲載されています。

紀元前87年の地図はこちら

紀元2年の地図はこちら

両者を見比べると、紀元2年の領域図では、あきらかに隙間が増え、領域が縮小していることがわかります。今資料を参照したわけではないのですが、福建省のあたりは、紀元87年当時には、武帝が内地移住政策をとったため、一部の居住者が残っていたものの、基本的には放棄されていた筈です(史記か漢書にそのような記載がある)。
 ところで、中国科学技術院が出している谭其骧編公式歴史地図によると、前漢は、後期の状況を記載したものと(具体的年号は書いていない)となっていて、こちらで参照することができます。これによると、当時の浙江省には、西部都尉とか、東部都尉、南部都尉などの役人の駐在所があり、現福建省を統括していた筈なので、前87年の地図が、福建省全土を覆っているのは、そのへんの事情を詳細に反映しているものなのかも知れません(更には、現福州のあたりに、治県という役所もありました(治県の遺跡情報はこちら)。

 一方、谭其骧編公式歴史地図の後漢代の地図(こちら)では、西部都尉、東部都尉、南部都尉は掲載されておらず、現福州に、東治、現温州に永寧が置かれており、Wikiの地図を拡大してみると、そのあたりも点として塗りつぶされているようにも見えます。つまり、中国語版Wikiの2つの掲載地図は、かなり正確な状況を著しているものなのかも知れません。

 ところで、私としては、Wikiの紀元2年の地図の方が、当時政府がちゃんと把握していた領土、実情に即しているように思え、この地図は結構好きです。同じ理由で、Wiki掲載の秦朝の地図や、三国時代の地図も、一般的な地図では、塗りつぶしてある箇所が、ちゃんと隙間だらけになっているところが、リアルな感じがして好きです。

 ところで、中国版Wiki掲載中国歴史地図でちょっと興味を引かれるのは、明代の地図。我々が一般的に目にするものと同じような明代地図(1580年)なのですが、中国政府の公式見解では、この時代はチベットは領土になっているんですよね。谭其骧編公式歴史地図でも、後期明代地図(1582年)では、チベットはちゃんと明朝領として塗りつぶされています。中国版Wikiは、中国国内でも参照できるので、この辺が鷹揚というか、単に放置されているだけというか、まあこんな感じではありますね。

 最近のWikiの中国歴史地図では、ここでご紹介したような、単にベタで領域を塗りつぶすのではなく、実際の把握地域を正確に記そうという努力が見られる地図が増えてきて、この点は非常に嬉しい傾向だと思っています。最近は、宋朝のもできたようです(半年前には確か無かった。ただ高麗領がちょっと広すぎな気がしますが。。。)。そのうち唐朝や清朝もできるかも知れません。あと、西晋の行政区画地図というのも中国版Wikiに掲載されています。こちらも大変珍しい貴重な資料だと思います。
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by zae06141 | 2009-12-29 02:13 | その他歴史関係 | Comments(0)

書籍「ペルシア語が結んだ世界」

 最近面白い歴史書籍に続けて出会いました。「夢想の中のビザンティウム」、「ガラスの中の古代ローマ」、「古代仕事大全」、そして、本書「ペルシア語が結んだ世界」です。中国の歴史以外の書籍に飢えていたこともあり、古本が出るまで我慢できず、いづれも高額な書籍ながらジュンク堂書店の割引セールス(といっても5%だけだけど)にも嵌められたこともあって買ってしまいました。で、「ペルシア語が結んだ世界」がよみ終わり、「夢想の中のビザンティウム」も大体終わってきたところ。どちらも元はとれた感じがしています。「夢想の中のビザンティウム」は次回にして、今回は「ペルシア語が結んだ世界」の感想。

 もともと、17世紀のイスラーム世界は、安定した時代ということで興味を持っていたのですが、オルハン・パムク「わたしの名は紅」で、ティムール朝が身近な過去として描かれ、アクバル治下のインドが「同じ世界」とも感じられる描き方をされていたことで、単なる通史ではなく、よりミクロな視点で、この時代・地域を知ることができないだろうか、と思っていたところ、本書が出たので、早速読んでみました。

 非常に面白く、様々な知見を得ることができ、3000円はいい買い物だったように思えます。

 まず、近世イスラム世界でのペルシア語の位置づけについての認識を改めさせられました。
 オスマン朝・サファヴィー朝・ムガル朝でペルシア語が行政・文芸語だったのは知ってはいたものの、漠然と、ラテン語やサンスクリット語・古代漢語・シュメール語などが、口語としては死語となって以降も、学術分野や行政分野で古典文語として生き延びたのと同じで、近世イスラーム世界におけるペルシア語も同じようなものだったのではと思いこんでいました。行政で利用されていたので、近世におけるラテン語などとは違っていることはよく考えればわかることなのですが、なんとなくラテン語やシュメル語のようなものだとの思い込んでいたのでした。しかし、実際は近世の欧州各国の宮廷におけるフランス語などと同様に国際共通語としての流行であると認識が改まりました。

 更には、このペルシア語の流行は、古代ペルシア以来の歴史的イラン世界が直接影響しているものと思い込んでいて、この影響関係自体は誤りではなさそうなのですが、「歴史的イラン世界」についての認識の方が改めさせられることになりました。古代地中海世界や中華世界、インド世界と並ぶ、「大イラン圏」という認識は元々あったのですが、イラン世界の中心はあくまでパルティアやサーサーン朝だとの考えがあり、中央アジアは、イラン系言語を話すイラン系民族の地ではあっても、イラン世界の周辺だと軽視していました。中央アジアは、イラン本国に対して、「トゥーラーン」の地にあたり、中国本土に対する、匈奴と西域に相当する縁辺地帯なのではないか、との考えです。とはいえ、「ヴィースとラーミーン」などでは、パルティアの中心はメルブであり、また、近年の考古学上の成果からは、古代メルブが、メソポタミアに匹敵する程古くから開けた、かなりの先進地帯であったらしいことが推測されるようになってきているなど、なんとなく、イラン世界は、メソポタミアやファールス地方など南西部と、メルブを中心とするホラサーン地方と2つの中心があったのではないかと薄々感じてはいたのですが、本書を読んで(本書では古代については言及されていないものの)その印象は強まりました。ダリウス3世やヤズドギルド3世がメルブ方面へ逃亡したのも、西から攻められたから単に東へ逃亡した、というだけではなく、メルブ方面が、イラン世界のひとつの中心だったからではないのか、とさえ思ったりしています*1。750年のアッバース革命の中心地はホラサーンであり、アッバース朝のマームーンの拠点がメルブだったのも、辺境だから反乱を起こしやすかった、というだけではないような気がしてきました。アラブ征服後のペルシア文芸復興運動が、サーマーン朝下で発展したのも、以前は、中世初期の西欧におけるキリスト教文化の保存が、ブリテン島で行われたのと同様に、周辺地域で古い文化が保存される現象なのかもと思っていたのですが、これも事実は逆で、このあたりが古来から中心地だったからなのかも知れません。そう考えると、近世フランス語が欧州宮廷で流行し、フランスが近世欧州の文化的中心となった背景には、西欧の中でラテン語文化を保存した地域だった背景があったのと同様、サーマーン朝の領域が、ひとつの中心地帯だったからなのかも知れません。そう考えると、歴史的イラン世界と言える地域は、旧サーサーン朝の領域である所謂「イーラーン・ザミーン(イーラーン・ザーミーン)」と呼ばれる地域だけではなく、アム川の北、「トゥーラーン」をも含む地域なのかも知れません。

*1 ゾロアスター教の伝説では、ゾロアスターを保護したヒスタスペス王はバクトリアの王だったとの説があり、更に、シチリアのディオドロスの伝えるセミラミス伝説では、セミラミスが東方へ遠征し、バクトリアを支配したとの話もでてきます。こうした伝説も、当時のマルギアナ、バクトリアあたりがひとつの中心地帯だったことを伝えているのかも知れません。

 ところで、近代国民国家史観からすると、サファヴィー朝はイラン史、ムガル朝はインド史となり、セルジューク朝やチムール朝などは収まりが悪い感じがあったのですが、これについても、本書を読むうちに、「ペルシア語文化圏」と括ることですっきりするようになりました。チャガタイ汗国やイル汗国の領域は概ね、イラン世界=ペルシア語文化圏であって、チムール朝の征服行動は、旧モンゴル帝国を意識してアナトリアやロシア、インドへ遠征したとはいえ、王朝の領土は「ペルシア語文化圏」にだいたい一致しているように思えます。同時に、ムガル朝はインド史ではあっても「インド世界」とは思えなくなり、サファヴィー朝は「ペルシア語文化圏」の中心というわけではなく、一端に過ぎないと感じられるようにもなりました。

 このように、全時代を通じた、イラン世界の認識にまで影響を受ける結果となりました。私にとっては、これだけでも十分有用な書籍と言えるわけですが、本書には、他にも得がたい内容があります。

 最近は、通史的な、時代の縦軸を描いた書籍に飽き足りなくなってきて、特定の時代のみに注目した歴史書籍をよみたいと思うようになってきました。だいたい、概説史を読んだ後は、その時代の政治や経済・社会・文化史など、テーマを絞った書籍を読みたくなるわけですが(例えば漢代貨幣史とか明代経済史とか)、最近はこの段階も通り越して、更によりミクロな視点の記述を読みたいと思うようになってきています。典型例は、「万暦十五年」のような、時代の横軸を描いた書籍です。現在読んでいる「夢想の中のビザンティウム」も、「12世紀フランスの文学史」ではなく、「12世紀フランス文学を通して見た、当時の西欧人のビザンツ認識」に絞り、一見文学作品の製作年代の推論や紹介を行っているようでいて、全体としては、第四回十字軍によるコンスタンティノープル征服に至る西欧人の心性の探求となっていて、ミクロな視点から時代の横軸を描いた内容となっています。「ペルシア語が結んだ世界」でも、8人の論者が、異なった視点や素材を用いて10世紀から19世紀のペルシア語文化圏について論考を寄せていて、領域はアナトリア、クリミア半島、イラン、中央アジア、インド、中国に跨っており、時代の横軸を描いていると言える側面があります。本書の魅力と思えるのは、論者の専門分野や、残存資料の制約から来る偶然の産物なのかも知れませんが、論者が取り上げる素材やトピックが、地域毎に、詩人伝や法律文書、歴史書、トルコ語文学作品、知識人の著作などと異なっている点にもあるように思えます。歴史書についてはクリミア汗国、法律文書については、西トルキスタン、スーフィー文書についてはイランなど、それぞれのトピック毎に地域と時代が異なる為、「ペルシア語文化圏」の全体を扱った通史ではなく、特定の時代について、全部のトピックを網羅したわけでもない、いわば、「ペルシア語文化圏」の世界を斜めに横切ったような著作となっている点が、本書の魅力となっているように思えるのです。
 本書を通じて、、詩人伝の成立過程や法廷業務・知識人の教育課程・歴史書の歴史観など様々な、ミクロな切り口からこの歴史的世界の社会を一端伺い知ることができると同時に、他の地域や時代での同様な事柄はどうなっているのだろう、と、更に詳細な内容への関心を掻き立てられました。

 とまあ、久しぶりに記事を書いているので、結構な長文、しかもだらだらと冗長な文章となってしまいましたが、まだ書き足りないので、一部の内容を分割することにしました。イラン史やインド史、トルコ史などの枠組みではなく、「ペルシア語文化圏世界」という枠組みで、この時代の詳細を扱った書籍が、今後も増えて欲しいと思います。


 ところで、「ペルシア語が結んだ世界」の内容自体については、古代ペルシアに関する2つの知見を得ることができました。一つは近世ペルシア語圏の歴史認識。もうひとつはブズルグミフルに関する情報です。

「5章18世紀クリミアのオスマン語史書「諸情報の要諦」における歴史叙述」では、4冊の歴史書が紹介されています。

・バイダーウィー「歴史の秩序」(1275年)
 -アダム以降の諸預言者、古代ペルシアの諸王朝、イスラームのカリフトイマーム、アッバース朝(以下略)
・シャラフッディーン・アリー・ヤズディー(-1454年)「世界征服者の歴史」(1430年頃)
 -天地創造と預言者達、トルコとモンゴルの伝承、モンゴル帝国史、ティムールの祖先、ティムール伝
・ミールホーンド(-1498年)「清浄の楽園」
 -天地創造と諸預言者、古代ペルシアの諸王朝、ムハンマド、正統カリフ、ウマイヤ朝、アッバース朝(以下略)
・アブデュルガッサール(17世紀末-18世紀中頃)「諸情報の要諦」
 -ピーシュダーディー朝、カヤーニー朝、アレクサンドロスからサーサーン朝の間の諸王、サーサーン朝、周辺地域、ムハンマド、ウマイヤ朝、アッバース朝(以下略)

 以上の書籍中の古代ペルシアの部分は、フィルダウシーの「王書」をネタ本としているとのことですが近世ペルシア語圏においては、古代ペルシアが、「正統王朝」的に扱われていることがよくわかります。アブデュルガッサール「諸情報の要諦」は、最終的にモンゴル帝国とティムール朝を経由してオスマン朝の歴史に接続しているオスマン語書籍であるにも関わらず、トルコやモンゴルの創世神話ではなく、イスラームの創世神話(ユダヤ教の創世神話に古代ペルシアが接続している)となっている点に、この時代・地域の歴史認識が見て取れると言えそうです。

 一方、ブズルグミフルの伝記を読むのは、今や夢のひとつとなってしまっているのですが、ブズルグミフルとホスロー1世の問答が、ハムドゥッラー・ムスタウフィー(1281頃~1349年頃)の「選史」(1330年)の「賢者伝」、ブズルグミフルの項や、ハイダーウィー(が著者と推測される)の「精髄」(13世紀)に掲載されていて、アブデュルガッサールは、「諸情報の要諦」に「精髄」経由で、この問答を掲載しているとのことです。これはひょっとしたら、中世ペルシア語文献「ブズルグミフルの回想」ののとかも知れません。そうして、ひょっとしたら、「賢者伝」所収ということは、人生訓(ハンダルズ)ではなく、伝記かも知れません。アブデュルガッサールは英訳はでていなさそうなのですが、ハムドゥッラー・ムスタウフィーはどうなのでしょうか。調べてみる価値はありそうです。
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by zae06141 | 2009-11-28 23:59 | その他歴史関係 | Comments(0)

善く敗るる者は亡びず ~小説「鷺と雪」~

 「善く敗るる者は亡びず」

 いままであまり深く考えたことがなかったこの言葉が、最近心に響いています。
 きっかけは、北村薫の直木賞受賞作「鷺と雪」の中での引用。

 「鷺と雪」は、書籍としては「街の灯」「玻璃の天」から続く短編集3部作のシリーズものですが、この中の「玻璃の天」の第1話「幻の橋」と「鷺と雪」第3話「鷺と雪」の2箇所でこの故事成語が引用されています。当初「街の灯」を読んだ時は、昭和の東京の風景を、詩情に満ちた表現で再現したライトなミステリーという感覚で、主人公が少女であることから、「空飛ぶ馬」シリーズの昭和初期に舞台をとった焼き直し版という感触もあったので、「悪くないけど、直木賞を取るほどの作品だろうか」と思っていたのですが、「鷺と雪」まで読み終えてみると、「善く敗るる者は亡びず」というこの言葉が、戦前戦後の日本の興亡を的確に捉えた言葉だと思えるようになり、時間が経つにつれて、じわりと胸に迫ってくるようになりました。

 「善く敗るる者は亡びず」は、「漢書」の「刑法志」に登場する言葉で、「善く師する者は陳せず」「善く陳する者は戦わず」「善く戦う者は敗れず」に続く言葉で、これらの言葉は、「幻の橋」(文庫版p84)では以下のように解説されています。

 「うまく軍を動かす者なら、布陣せずにことを解決する。しかし、その才がなく敵と対峙することになっても、うまく陣を敷ければ、それだけでことを解決できる。さらに、その才がなく実践となっても、うまく戦えば負けない」

 ところが、「幻の橋」でも「鷺と雪」でも、「善く敗るる者は亡びず」については、特に解説がありません。そこで、「漢書」を取り出してきて、この含蓄ある言葉が一体どういう経緯で使われているのか、問題の箇所の前後を見てみました。すると、語源となった背景として語られている事件は、意外にしょぼい話であることがわかりました。春秋時代の楚の昭王(前515-489年)の時代、闔閭(前514-496年)王の元、急速に力をつけた辺境の国呉が、楚からの亡命者伍子胥に率いられて楚の都、郢を陥落させ、昭王が隋国に亡命し、その後、楚の家臣申包胥が秦に救援を求めにいき、秦公の庭で7日7晩救援を訴え続け、その忠誠心にうたれた秦公が出兵し、昭王は郢を回復することができた、という事件です。これが「善く敗るる者」なのかなぁ。単に敗北して亡命し、他国に救援を求めて、他国の力で回復しただけで、歴史上ありふれた出来事だし、特に含蓄ある内容の感じられる事件ではないじゃないの。と少々がっかりしてしまったのですが、しばらくしてくると、この言葉は、寧ろ、「鷺と雪」において、作者によって、この言葉が持つ本来の意味を付与されたと思えるようになってきました。

 この言葉が、日本を日中戦争へと向かわせた、いくつかあるターニングポイントの中の、おそらくもっとも重要であろう事件のひとつである226事件前夜に、その後の全てを予感させる言葉として、登場人物たちに語らせたこと、そうして、「亡びず」という言葉通り、戦後の日本が復興を遂げたという結果があること。「鷺と雪」終盤の記述をひとたび読んでしまうと、これ以上に、「善く敗るる者は亡びず」という言葉にさわしい使われ方、背景となった事件は無いのではないか、と思えるほど、絶妙な引用だと思えるようになってきました。

 「鷺と雪」は、終盤近くのこの言葉一発で、単なる軽目の時代劇短編連作を越えて、重厚な歴史作品に匹敵する程の「歴史作」となったように思え、この作品が直木賞受賞作であるのも納得できるようになりました。

 更には、最近の日本が戦後繁栄のピークを越え、衰退期に入ってきているのではないかとの議論もある昨今の日本人にとっては、「善く敗るる」という言葉は、「今後の衰退をどのように乗り越えるのか」という観点で、胸に迫るものがあるのではないでしょうか。負けが見えている戦い、衰退期の社会にとって、「善く敗るる」という言葉は、その後の具体的な希望が見えない段階においてこそ、力となる言葉なのではないかと思うのです。この意味では、この言葉がやたらと胸に響いているのも、昨今の私自身の状況にも重なるようにも思えるのです。40歳を越えて人生後半に入り、成功をしているとは言えない状況で残りの人生をどのように生きるのか、という点で、今の私には、「善く敗るる」という言葉は、重要なキーワードとなりつつある感じです。

 久々に味わい深い歴史小説に出会ったという点、現在の日本や、自分自身と重なる点、など、多くの点で、「鷺と雪」は、私にとって強い印象を残す作品となりました。
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by zae06141 | 2009-10-25 18:37 | その他歴史関係 | Comments(0)

オルハン・パムク「わたしの名は紅」と「薔薇の名前」

 配送代2200円も払って取り寄せた「わたしの名は紅」。漸くよみ終わりました。多くの書評が既にネット上にあるので、私の方であまり追加することは無いとかいいながら少しだけ。

 重厚な歴史ミステリーということで、「薔薇の名前」を連想しましたが、単に歴史ミステリーというだけではなく、思想的論理闘争が似ているように思えました。「薔薇の名前」では、中世的神の論理に対して、近代的論理がテーマのひとつでしたが(「薔薇の名前」はテーマが多過ぎと言えるほど深い小説なので、もちろんこの思想的対決はあくまで数あるテーマのひとつでしかありません)、「わたしの名は紅」も、イスラーム的論理と西洋近代論理の対決がテーマのひとつであるように思えました。

 もっとも、この点に関して、「わたしの名は紅」が、「薔薇の名前」と異なる点は、根源的な思想的対決ではなく、絵画に関する限定的な対立である点と、決定的な回答が出ない点にあるように思えました。
 「根源的な」と言っているのは、「薔薇の名前」において、近代論理が、中世的論理に打ち勝つのではなく、近代論理もまた、ひとつの「論理体系」(つまりは記号体系)であるに過ぎない、という、論理と記号体系というものの、底冷えのする結論点まで描き出してしまっている部分を指しています。舞台となった14世紀前半が、廃れ行く中世的論理と勃興しつつある近代論理の狭間の時代にあり、真理はどちらにあるわけでもなく、近代的論理もまた、ひとつの「論理体系(記号体系)」であることを、遂には主人公は知ってしまう。それゆえ、20世紀もまた、近代的論理の終焉の近き、狭間近き時代にある、ということを描き出していたものと思うわけです。

 「わたしの名は紅」においては、ここまで深い論議が行われているわけではなく(いや、ひょっとしたら行われているのかも知れないが、私には理解できなかっただけなのかも)、イスラームの画の論理、「画とは、神の視点で見たものを描くことである。そこに画家個人の視点は存在しない」ということと、「画家が見たままのものを描く」という、西洋画の論理の対決に、1000年間程イスラームに主に防戦ばかりだった西洋が、攻勢に出るようになった時代の趨勢が象徴されているだけの様に思えました。神の視点と個人の視点との相克や、絵師の内面の葛藤などは描かれても、神の論理と近代西洋論理との間の究極的な結論が描かれていない点が、「決定的な回答が出ていない点」であるように思えるわけです。とはいえ、だから「わたしの名は紅」が、「薔薇の名前」に及ばない、などと言っているわけでは無く、つまりは、この点が、「似ているようで、異なっている点」である、と思う点なのです。もっとも、「薔薇の名前」のごとく、神の論理も記号だなどと言ってしまうようなことがイスラーム社会で受け入れられる筈がなく、また、そのような小説を書いた作者が、有神論者でありうる、などという考え方も、誤解されるだけで、やはり今のイスラーム社会では受け入れられないでしょうから、この点を掘り下げて描くことは、できなかったものと思うのですが。。。。

 「薔薇の名前」を連想させた点についてはこの程度なのですが、当時の時代状況を描いた歴史小説と言う観点では、それが作者の視点ということではあっても、さまざまな示唆を受けることができました。

 西洋論理と神の視点との対立は、16世紀末に一時イスタンブールで盛り上がったものの、どちらも支配的勢力とはならず、沸騰しないまま煮え切らずにずるずると後退し、それが17、18世紀のオスマン朝の停滞に結びついてゆく、という、当時の時代状況を活写した点。

 また、細密画に関する文化史的側面など、日本語ではあまり情報が無いように思えるのですが、ヘラト派、タブリース派、イスファハーン派、そしてイスタンブール派など、さまざまな派が各地に勃興し、相互に影響を与え合っていた様子や、モンゴル時代の、中国からの影響などを実感することができました。最近この時代のインドの細密画についての手軽な解説書が出版されていますが(「インド細密画への招待 (PHP新書)」)、オスマン朝やサファヴィー朝の細密画や文化史についても、手軽な紹介・入門書が出て欲しいと思います。

 更に、歴史上は、非常に短い、挿話に過ぎないようにしか思えなかったチムール朝の時代が、意外なインパクトをもって16世紀のオスマン世界で認識されていた(かも知れない)、ということ。ひょっとしたら、当時のオスマン朝の人々にとってのチムール朝とは、現在の日本における江戸時代のごとき存在であって、その前のセルジュークやアッバース家、ブワイフ家の時代などは、足利以前、鎌倉とか平安時代のように感じられていたのかも。

 というように、フィクションではありながら、十分16世紀末のイスタンブールの世界にトリップさせてくれる作品でした。

 最後に1点。欧米で激賞される、非欧米圏の作家は、とかく、欧米の論理思考を身に着けた「欧米人」だったりするのですが、オルハン・パムク氏は、この点、どうなのでしょうか。中南米の作家などには、よくこうした分析がなされることが多いのですが、氏の場合はどのように分析されているのか興味があります。もっとも、そうした視点の記事は、ネット上に多く見つけることができるように思うのですが、もし、この観点で優れた論考をご存知の方がおられましたら、ご紹介していただけますと助かります。

 なお、前回紹介いたしましたが、この時代のオスマン朝、それも同じ細密画をテーマとした、「Cenneti Beklerken」という映画があります。最近アクバルの映画や、15世紀初頭ビザンツ映画を見たりと、この地域・時代関連の作品に接する機会が増えてきています。

2014年追記:
 本書が背景としている、16-17世紀頃のイスラームの書物や写本、細密画の歴史を扱った書籍『イスラーム書物の歴史』という書籍が2014年6月に出版されています。『わたしの名は紅』の背景である当時の書籍事情にご興味のある方にはヒットするかも知れません。
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by zae06141 | 2009-04-14 00:08 | その他歴史関係 | Comments(0)

人類史観まとめ ver2

【1】 目的共同体(企業、ゲゼルシャフト、ノモス)と自然共同体(故郷、ゲマインシャフト、カオス)と

 人間の組織体は、ちいさな集団から巨大な集団まで利益/資源の配分を巡って常に諍いが起こっているわけですが、何故このようになってしまっているのかという点については、生物界から社会が分立した時点に求められるという見解があります。「人類は、ある日突然、生物界から離れ、社会を持っていることに気づいた」という話を学生時代の講義で聞いた覚えがあります。「生物」とは元来、個々の意識を持たない物理的存在であり、元来親からの誕生直後から、ひとりで自活ができるようなモノだったのが、幼形成熟(ネオテニー)などが進み、未熟なままで誕生し、一定期間親が「育てる」という「社会層」が介入するようになり、それが一層発達し、集団で子供を養育するようになり、ネオテニーと社会層の拡大が平行して行われ、ひいては、「個人の意識の誕生」を促した、という考え方です。意識が誕生し、ある日、「社会」というものの存在に気づいた、というわけです。同時に、他人は自分と違う考えを持つ、ということにも気づいた。この時点から、人類の利益/資源分配を巡る諍いが起こるようになったということなのでしょう。

 集団には、特定の目的に賛同する集まりである集団と、既存の、個人の意思とは無関係に成立している集団があります。社会学や哲学では、前者をゲゼルシャフトとか共同幻想、対自体、後者をゲマインシャフトとか、共同態、即自体、ノモスなど色々な用語で呼んだりするようですが、前者が意識して選択する共同体、後者が、生得的共同体、と考えれば、整理しやすいのではないかと思います。宗教団体、大学のサークル、ナチス党の支持者や企業に所属する人、納税し、選挙登録をして「参加」する合衆国などは前者、ドストエフスキーが理想とした中世キリスト教共同体や、アーリア神話による、ゲルマン民族の統合思想など、極端なナショナリズム、日本で生まれればそのまま戸籍と選挙権が得られ「日本人」となる日本人、大阪に住んでいるのだから阪神ファンという発想などは後者ということになります。

 前者の、目的を持った人々の集団では、利益分配での紛糾の占める割合は、後者の生得的集団よりも低いのではないかと考えていました。目的が明白なので、目標の達成に最も寄与した順番で利益分配すれば良いだけです。目標に不満があれば、集団を代わればよいわけです。これに対して、生得的集団では、国が気に入らなくても、移住する、という人は寧ろ多くはなく、生得的集団内で利害を調整せざるを得ない、よって、こういう集団を、一定方向へと纏め上げ為に、「一億中流幻想」とか、「全体主義」のような方法が利用されてきたのだと考えておりました。

 企業のような、本来その企業の仕事をやりたい人々の集まりである筈の集団では、目標が明白なので、その目標の達成にもっとも寄与した順番で利益分配すれば、問題が無い筈なのですが、何故にこんなに紛糾するのだろうか。というのが、このところの日々の疑問だったのですが、やはりこれは、中国オフィスが、「バック部門」だからなのかなぁ、と思うようになりました。日本で、顧客前線に出ていれば、売り上げが査定に直結するので、査定も簡単。放っておいても部下は顧客に叩かれるので、上司は部下を宥めていればよく、マネージャの仕事も、人事管理よりも、戦場で勝利する為の作戦と用兵に比重をおけるわけです。ところが、バック部門で、直接の顧客がいない場合、「技術力」「有益な資料作成数」などが査定基準となってくるのですが、売上のような、誰でも納得せざるを得ない「外部の基準」が無いために、部内で基準を作る、ということになり、その基準の妥当性を巡る、メンバー間での見解の相違が露呈することになるわけです。そうしてマネージャの業務の重心は、人事管理に移行していってしまう。組織体が大きくなる程、本来目的集団だった集団の内部に、生得的共同体が発生していくような気もします。

 そんなわけで、顧客相手のフロントに戻りたいとか、いっそのこと十名くらいの小企業にでも転職するか、などと考えたりするのですが、小企業というのは、上手くいけば、自由で高収入な集団でいられますが(若手への教育コストがかからないことが主な要因)、失敗すると、下請けという封建的階層社会の下層に位置することになってしまうので、甘い想定は禁物です。となると、今の勤め先でフロントに戻るのが現実的なのか、人生ここらで再度チャレンジすべきか、など、落ち着いてきたら落ち着いてきたで、色々と考えてしまうのでした。ともあれ、これでチーム事情が落ち着いてくれれば、秋口には帰国できそう(というより戻らされそう)な感じになってきました。とはいえ、このような内容を書く度にその後暗転したりしているので、今後もどうなることやら。



【2】間主観世界中に占める「客観」部分の減少と「少数者の客観」「個人主観世界」の拡大

 人事マネジメント書籍を見ると、「最近の若者は」という管理職のため息が必ず記載され、特に「叩き上げ」で管理職となった人々に対して、コーチングや教育重視の指南が多く見られる点が共通しているように思えます。「せっかく俺が成功してきた貴重なノウハウを教えてやっているのに。教えたとおりやればできるのに、何故できないんだ。何故やろうとしないんだ。これだから今の若者は」という嘆きに対して、「わからないのは教え方が下手なだけ」「過去の成功体験に基づく信念は、現状の理解の妨げにしかならない」などと、対策の指摘も共通しているように思えます。

 これらの現象に対しては、豊かというだけではなく、社会が多様化したことも大きな要因だと思うのです。私が大学を卒業した頃、「新人類」という言葉が流行し、高度経済成長期の大量消費の時代から、少量多品種の消費時代へと変化しつつある時でした。更にインターネットの発達で、いままで周囲では見つけづらかった、ニッチな商品や、ニッチな趣味仲間も簡単に見つけられ、多様なコミュニティが急拡大しているように思えます。インターネット空間は、間違いなくこうした社会のあり方を巨大な規模で推進しています。津村記久子の小説『ミュージック・ブレス・ユー』の主人公は、趣味が合う人を見つけて英語のブログまで読む主人公が登場していますが、まさにそんな時代です。つまり、「最近の若者は」という嘆きが指摘する現象の中には、人類の進化沿った方向に進んでいる要素も大きいのだ、と思うわけです。

 ネオテニー(幼形成熟)が、人類を、自然界から独立させ、「社会層」を生み、社会層は歴史とともに益々拡大している、という話を記載しましたが、その一方で人類は、「社会」に対する「個人的な領域」をも拡大する方向で進んでいるのだと思います。現象学的社会学などでは、社会とは、個々人の主観の交わりから生成される、社会構成員皆が同意・共有する「客観部分」の事だとしています(社会学で間主観と呼ぶ部分です)と。イメージにすると、下記の図(図A)のようになるのでしょうか。

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 この図のひとつの円が「個人」であり、全員の円が重なっている部分が、社会の構成員全員に認識されている社会制度や「現実」「客観」(間主観)部分でであり、一部重なり合っている部分が、「一部の人の間だけで意見の一致する部分」(これも間主観)、またく重ならない部分が、「個人の主観部分、睡眠中やドラッグなどで見る夢や幻想、日頃の妄想」というわけです。近代以前の中世の村落共同体や、現在でも南米やアフリカの部族共同体などには、強力な掟や神話・宗教・社会制度などに縛られている共同体がありますが、これは、上図のような、円の重なる部分の多い、個人的部分を極力少なく押さえ込んだ共同体と言えます。こうした村社会では、掟を破った構成員は、しばし村を追放されたり、処刑されたりして、円の重なる部分である、「客観的秩序」を脅かさないようにして維持されるわけです。中世の村落や南米アフリカ部族社会では、社会の規模は小さく、土地や自然の力に圧倒されていて、お互いに交流は制限されていることから、それぞれの村や部族独自の奇妙とも思える神話や制度が発達する傾向にあります。

 これに対して、多様な地域を統合した古代帝国や現代社会では、中世的小規模や村や部族は、巨大な帝国や、グローバリゼーションの中で交流することになり、抵抗がありながらも破壊され、混交の中に活力と新しい創造が生まれる傾向があります。多様な交流は、共通の価値感の領域を減らし、上の図Aから、下図(図B)のような、「個人の領域」の増大する社会に向かうことになります。人々の間での共通認識部分が相対的に減少した結果、一度社会秩序が崩れるとカオスを生みやすくなっています。端的に表現すれば、全体的にカオスの領分が増大しているのが人類社会と言えます。

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 古代や未開社会は、時としてとんでもない習俗が行われていたりします。13世紀フビライが滅ぼした雲南のある村では、旅人を食べる習慣があり、フビライはこれを知って奇異な悪習を無くす為に村を滅ぼしたそうですが、少なくとも村の中では、奇異でもなんでもなく、普通の社会制度だった筈です。人類学は、ポトラッチのような、近代西欧の論理では驚きをもって迎えられる習俗を明らかにしてきました。このように、広大な地域に点在した村や部族社会の習俗は、帝国やグローバリゼーションに含まれることにより、より巨大な円の共通部分を生み出すと同時に、1個人や、少数の嗜好を同じくする人々にしか共有できない価値観や常識へインスピレーションを与えることになります。例としてあまり良いとはいえませんが、同性愛者などは、図Aの社会では排斥されたかも知れませんが、図Bの社会では、「少数の人だけが重なる部分」が増大する為に、世間全員からは受け入れられなくても、分かり合えるもの同士、彼らだけの世界を見つけ(政治的主張から、趣味の仲間、同性愛者同士等々)、共同体を作ることも可能になってきます。現代では、前近代では世間から受け入れられなくても、「そういう人々がいる」ということは認知されるようになってきています。インターネットは、まさに少数者のコミュニティの増加に寄与しましたから、一昔前までは、誰とも重なる事の無い、まったくの個人の幻想のような妄想に終わっていたものでさえ、共有できる仲間を見つけることが出来るようになってきています。


【3】物理・生物学層の領域の縮小と個人の意識・社会の領域の拡大

 このように、世界は、図Aから図Bへと、少数者だけの価値感の世界や、個人的な妄想の領域の拡大へと向かっており、近年の猟奇的な犯罪の増加は、こうした個人主観世界の増大に起因するものが増えてきているのではないかと思うのです(もちろん全てがこのような理由とは言いません)。これは物理的な病気では無く、円の重なる「社会」部分の比重が低下し、個人の主観世界の比重が過度に増大することで起こることから、社会や心理の分野の問題であるように思えます。心理学や生理学の世界では、社会や個人の意識が生理層に影響し、ひいては物理的症状に影響を与える、という話があり、人類進化の初期段階では、生物層や生理層が、圧倒的に個人の意識を規定していたものが、段々と比重が逆転し、今では、個人の意識層・心理層が生理層に大きく影響するまでに発展してきたということなのでしょう。この考えを更に推し進めれば、人類の思考は、遂に核兵器を産み、核兵器のボタンを任かされた少数の指導者が物理的に世界を滅ぼすことも出来るまでになり、10万年前には、ほぼ100%物理層に囚われていた人類が、物理層を次々と克服し、地球を破壊・コントロールできるまでになってきた、ということにも表われています。図で表すと以下のようなイメージです。上記図Bは下図Cの右端の状況を、右端から少し左によった部分が図Aという位置づけです。数千年前は「環境決定論」に近い段階にあった人類は、「環境可能論」の段階へと発展してきているわけです。
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図3

 私には、個人の主観の多様化や社会の多様化は、人類の進歩と表裏一体であると思えます。「社会」の誕生は、一面硬い地面だったところに、泥が発生し、泥がどんどん拡大してやがて沼になり、沼の中で、さまざまな粘土細工が構築されてゆく、というイメージがあります。「沼」は「社会層」の増大であり、沼と硬い土の間の層は「生理層」、沼の中心は、「個人の心理層」があり、沼の中心に向かう程、泥の含む水分が多くなり流動的となり、不安定になることから、個人の意識を安定させる社会秩序というものが、より重要となってくるように思えるのです。全体主義とか管理社会は、こうした趨勢の中で比較的安易に「心理層-社会層」を安定させる解決策なのだと思うわけです。こうした、多様化した不安定な社会では、人々の利害を調整する政治は益々重要になり、島となった共同体を結びつけるビジネスや、異なった共同体を紹介し、取り持つビジネスのニーズは今後増すように思えます。

同時に、現代の子供の誕生から大人への成長発達のイメージは、上の図Cと非常に似ているので、色を変えるだけで作図できてしまいます(下図D)。図Cと図Dの細かい説明は後でします。取り敢えずここでは、色を変えるだけで作図出来るほど似ている、という点だけ印象付ける為掲載しています。
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図4

この、人類の進化と、子供の成長のアナロジーは 「現代の未開社会=現代の西洋の古代原始社会」とした近代西欧思想の図式化です。図Cと図Dを合わせたものが次の図Eです。
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図E

このヨーロッパ(民主主義)と東洋的専制(独裁)と未開社会(部族社会)を分ける世界観は19世紀のヘーゲルで完成していて、彼の『歴史哲学』を図式化すると以下のようなものになるのだと思います。
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図F

ヘーゲルは「歴史哲学講義」において、「幼年期」少年期」青年期」「成年期「老年期」という言葉を用いて世界各地域を説明し、子供の成長と歴史の発展、同時代の各地域を同じ構図で見るという、ヘーゲル以降多くの学問に無意識に採用される視点・思考・構図・構造をまとめあげました。彼の考えでは、人類が進歩する程「自由の領域の拡大」し、原始的本能の部分は「万人が万人に対する戦い」をするようなカオス(原始的混沌)にあり、自由の拡大の行き着く先は、理性(プラトンの定義したロゴス)の拡大であり、ロゴスがカオスを駆逐する、ということだったわけですが、実情は逆で、20世紀後半以降は、物理層が縮小し、個人の心理や社会層の増大はカオスの拡大となっているのが人類の歴史だと考えられています。現代思想におけるポスト構造主義といわれる書籍では、漠然とした「古き良き伝統社会」をノモス、近代化≒カオス化、カオスを防ぐためのイデオロギー(全体主義思想とか世界宗教など)をコスコスと呼びますが、それを先に登場した図と合わせて図式化すると以下の図のできあがりです。
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図G

近代社会となり個々人の自由が拡大した結果、価値観やライフスタイルが多様化したことは、図Gでは、同心円が重なる部分が減少し、個人の領域が増大し、しかしそういう個人も社会を追放される事無く生きて行けるように、「ノモス」における「客観」部分は縮小し、その外側にカオス(2つの赤点線の間のドーナツ部分)部分が広まることとなりました。図Fで未開社会=原始的混沌とされたカオスが、図Gでは、欧米となると巨大になり(第一次二次世界大戦などを起こしてしまう)、逆にカオスを無理に制御しようとしてヒトラーやスターリン、毛沢東のような全体主義社会を生んでしまう結果を招いています。

(2016年8月追記:最近のイスラーム世界の異常なテロにおいては、イスラーム世界の人々は、自分たちの宗教と社会が図Gの左上のような共同体であると思い込んでいるものの、ISに感化されたテロは、図G左下の二重赤線の間のカオスの部分の思想をそのまま内側の赤丸の枠内(客観世界)で実行してしまっている、という図式に見えます。近代的な高度な教育を受けている(図G左下の社会の住民)であるからこそ、(赤丸の枠内での社会=狭義の社会)から逸脱している行動が出てくるのだと思うわけです。高度な教育を受けている程、あるいは知能が高い程、個人の頭の中で精緻な理想世界を作り上げる、しかし図G左下図のように、「社会における個人の領域」が拡大しているがゆえに、他人に受け入れてもらうことが難しくなりついには他人に強制するか自殺(自爆)するしかなくなる、という、笠井潔が<セカイ系>と名付けた原理が、19世紀のロシアのテロリストや、20世紀後半の極左テロ、現在のISテロにも共通して見られるように思えます)。


【4】求められる秩序維持方法

近代欧米に限らず、中華もイスラーム圏もインドも、多かれ少なかれ社会は図Gの左図の上から下、同図右の左から右に向かって発展してきています。文明が高度化するほど、カオスを制御する「社会秩序」の道具が必要となるわけです。これを覆すことは容易ではありませんから、既存文明の歴史が長い社会程、英米流の近代化は、カオスを生むことになってきたのだといえます。フランス革命、ナチスドイツ、日本軍国主義、ソ連邦、毛沢東の中国など、英米から距離が出る程、英米流の近代化社会が定着にいたるまで大きな混乱や反動、秩序維持のための締め付け(全体主義化)などを経験することになったわけです。

 伝統的な歴史や文明とは、現在においては、秩序を維持する為のひとつの道具です。欧米圏はギリシア・ローマ秩序に範を求め、中国は中華帝国に、イスラーム圏はイスラームの教え、インドはヒンデゥー教というように。ところが、最近では人類史上かつてない急速な人口増大とインターネットによる情報の流通により、過去1万年に存在した人類の数よりも、この50年間に地球上に存在した人口の方が多くなる程になってきています。こうなると、いつまで、伝統的歴史社会の影響力で、今後の社会秩序を維持できるのかどうかが問われることになりそうです。歴史の比重は減少し、70億人の人類社会の中での横の情報のやり取りから、秩序が生成・変化する事象が増大するように思えます(社会主義が、インド・中国に入り込んだように、イスラームが拡大するように)。

 現在、人類は下記の3つの方向で社会が拡大しているのだと思うのです。

  人口の増大、(物理・生物層に対する)社会層と個人主観世界の拡大

最近グローバルヒストリー書籍が流行しています。

ウィリアム・マクニール『世界史』
フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』
ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』

などがベストセラーとなり、

グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』
ウォーラーステイン『近代世界システム』

なども売れています(ウォーラーステインは解説本が売れています)。

これらの書籍は、人類史の過去の全体像を振り返り、今後の指針を見出すという動機が強いように思えます。今後の指針には、「今後の秩序維持方法」も含まれている筈です。

何年か前にドストエフスキーの新訳がベストセラーになりましたが、私の中では、ドストエフスキーが『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』に登場する人物は、上記図Gに対応しています。

カラマーゾフ:
 ドミトリー  ロシア民族の伝統(ノモス)の体現者
 イワン    コスモス(西欧的論理)とカオスの分裂の体現者
 アリョーシャ キリスト教的ノモスの体現者
悪霊
 ピョートル・ベルホーベンスキー コスモスとカオスの分裂の体現者<セカイ系>
 スタブローギン         コスモスなきカオス体現者

近代西欧化(グローバリゼーション)により、伝統社会秩序が崩される社会では、どこの国でもドストエフスキーがヒットするような気がしています。ドストエフスキーはキリスト教による救いを目指しているようなところがあるので、これがネックとなるかも知れませんが、イスラーム世界でもドストエフスキーは人気が出てもおかしくはないのではないか?と思っています。

フランシス・フクヤマは、民主主義の勝利で歴史は終わる、と主張していましたが、人類の歴史は、今後も多少の反動は経ながらも、全体的には自由(=カオス)の領域が拡大し続け、それを制御する方法が模索され続けるのだろうと思う次第です。
<2009/2/25作成/2016/8月一部追記>

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by zae06141 | 2009-02-25 01:33 | その他歴史関係 | Comments(0)

「中国農民調査」と「万暦十五年」

このところ、週末になると風邪を引いています。気温的にはそれ程寒くはない筈なのですが、体感的には結構寒く感じられ、装備もそれ程対寒用となっていないこともあり、うっかりしていると直ぐに鼻風邪となってしまっています。風邪を引く度に体重が減っているような気がしていたのですが、食事を抜いているわけではないとはいえ、食べる量は減っているので、どこかで栄養不足になってしまい風邪を引きやすくなっているのかも。

 週末寝込んでいることが多いので、結構本が読めました。
20年前に購入した「万暦15年」が、20年がかりでやっとだいたいよみ終わって来ました。この本、amazonで見ると、中古が23000円もするんですね。

 中国では話題の書籍なようで、何種類か翻訳が出ていて、最近も新装版が出ていました。最近は、通史や概説よりも、比較的短い時代を深く描いた歴史本を読むのが好きになってきています。ただし細か過ぎて退屈なところもあるので、今までなかなか読み進められなかったのですが、あちこち旅行をしているうちに登場する地名に親しくなり、またその地域のイメージが沸きやすくなったことで、単調に思えた各地のイメージが頭に入りやすくなったことも、今になって読めるようになった理由なのではないかと思います。

 それにしても、著者の黄仁宇氏がこれを書いたのは1981年のことで、当時の中国は、文化大革命とその後の混乱(四人組裁判)が終わったばかり。地方官僚の腐敗や官僚組織の問題が今ほど騒がれてはいなかったように理解しています。その当時の著作でありながら、現在の中国政府の問題を指弾するかのような印象を与える内容となっています。つまり、官僚支配の問題は、今にはじまったことではなく、数百年前から今も続いていてる中国社会の本質なのではないかとさえ思えてきて、なんとも気が滅入ってきてしまいました。中国で再販を重ねているのは、現在の状況とつながる部分が多いからなのではないかと思います。

 最近の日本で出版されている世界史関係の一般書は、既に過去の蓄積も多く、概説書や一人の人物に焦点をあてた人物伝は十分な感じです。一方本書のような、一時期の社会を総合的に描こうとする書籍が多いかというと、意外に思い当たりません。今後は、専門書と概説書の間を埋める、本書のような書籍が増えてもよいのではないでしょうか。時代の空気がよく伝わってくる書籍でした。

 「中国農民調査」をよみ終わったところ、「万暦十五年」、明代末期と現代の中国への共通点を感じました。「万暦十五年」は日本での出版は1981年ですから、購入してからずいぶん長くかかりました。購入当時は退屈と思えたことも、色々知識がついて来たことで、だいぶ頭に入りやすくなってきました。というよりも、明代社会の状況が現在の中国とあまり変わらないため、わかりやすかったということかも知れません。英語版での最初の出版が1981年とのことですから、著者が研究内容を蓄積してきた50年代から70年代の中国と、30年後の現在もあまり変わらないということから、本著作は中国の本質に迫るものと言えるのかも知れません。

-中央執行部は、全体として倫理道徳に基づいた行政命令を出すが、他の制度との整合性など、全体を包括して検討したものではない為、末端社会に矛盾がしわ寄せされる。
-改善を目的とした善意の行政命令は、現場での適用・運用を考慮した財政上の考慮が無いので、必要な額を現場で徴収することになり、結局全部農民への費用徴収となり、搾取と言われるようになる。
-役人は比較的薄給であることから、地方赴任時に搾取を行うようになる。
-文官・武官の人生は弾劾に満ちていて、善意の役人もその人生を全うできない。
-法治よりも倫理道徳中心の統治。行政命令は、法律の整合性と無関係に乱発される。
-一部地域で試行し、成功すると、各地への適用について個別に検討しないまま、一気に全国展開する。結果、無理な適用を招く。
-秩序維持を目的とした言論統制

 このような近世中国社会の本質に迫る事象が多く記載されていることが、現在の中国で何度も再販・新装版が出ている背景なのかも知れません。胡錦濤、温家宝など、テクノクラート出身の清廉な指導部による国家運営や、経済力向上がもたらす生活向上が、やがては社会改善に結びつくと漠然と考えておりましたが、より中国社会の本質に問題の根本があるように思えるようになり、簡単ではないように考えるようになりつつあります。民主化や自由化を急激に行っても、思うような方向に進まず結局伝統的中国社会秩序に頼ることで秩序を維持することになる。現在の中国の問題を共産党とその政策だけに帰して改革を促すのが政治学の役割だとすれば、伝統社会に根ざす現象や問題を浮かび上がらせ解決を図ることが、歴史学や社会学のの役割と言えるのではないでしょうか。

 欧州世界制覇以後の世界は、外部からの影響と、内部からの伝統の元に成立している部分が合わさって構成されていて、日本も同様です。ドラマ「ハゲタカ」に描かれた日本的家族主義経営は、徳川時代の大名社会に根付くものだとも見ることができます。藩主=社長、家老=取締役、家臣=ホワイトカラー、農民=工業労働者 という図式です。

 共産党支配が倒れても、現在共産党に帰せられている多くの問題は、解決しないのではないかと思います。恐らく、共産党ではなく、より伝統中国の問題だということが判明するだけに終わり、回帰する伝統的中国の体制とは、自由主義陣営から見れば、共産党体制とあまり変わらないものに映るのではないかと危惧しています。ロシアは既にそのようになりつつあるように見えます。

 中国は広大過ぎ、これだけの多様な地域を、中央の指令が統一運用することだけでも時間と試行錯誤がかかる。少し前までは、欧州のように、地域レベルの政権が、その政権内だけで解決するようにしてゆけば、農村や都市部の格差は国家間の話となり、今とは違った問題の見え方となるのではないかと思っていました。西欧と東欧のように。しかし、何度分裂しても、皇帝のもとに統合されてしまう。中国がEUのような緩やかな連合となることは、歴史を見てもも難しく思え、巨大な統合への志向を2000年来にわたって維持し続けてきたことこそが、中国の一番の不幸なのではないかとさえ思えてくるのでした。
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by zae06141 | 2008-12-14 19:21 | その他歴史関係 | Comments(0)

「帝国」と「帝天下」

 「講座岩波 世界の歴史 5 帝国と支配」の第1章「帝国と支配」で、鶴間和幸氏が、「帝国」という用語について論じています。曰く、「帝」と「国」は、「郡」と「県」のようなもので、レベルが違うものを指していて、本来並べて称すようなものではない、帝は天下を治めるもので、国を治めるのは王であるから、そもそも「帝国」という用語は国家を意味する用語としては成り立たず、「帝」は天下に号するものだから、「帝天下」の方が、意味的にはEmpireに近く、「帝国」という用語は、帝のいる国、すなわち帝都、帝城という意味だった。「帝国」は、中国語において一般的な言葉ではなかったことが、近代日本において、Emipreの訳語として新しく意味を付与され、利用されることになった背景にある、というような説明がなされています。一方の中国側では、帝国という言葉は、19世紀末の「帝国主義」を意味し、Empireや、自国の王朝を示す言葉としては使われてこなかった。しかし、90年代末から、中国の若手研究者の間で、少しづつ利用されはじめている。と記載されています。

 さて、現在本屋で目にするところでは、既にEmpireとしての「帝国」は、完全に定着しているようです。深圳書城の中国史コーナーへ行くと、「帝国」と文字の入った書籍を大量に目にします。こんな具合。

匈奴帝国、鮮卑帝国、契丹帝国(シリーズ本)
大明帝国の黄昏  
帝国の正午 (隋唐)
帝国の黄昏 (明清(だったと思う))
帝国の終結 (清朝/この3冊はシリーズではない)
大唐帝国
中華帝国紀行
帝国的背影
帝国雄図
帝国の政界往事 (清朝)
停滞の帝国
帝国天下 -大秦雄帰と古羅馬軍団-
超級帝国 (モンゴル帝国の事です。Super Empireと副題が入ってます)
帝国興衰
帝国如風 (元朝)
秦漢帝国

という感じ。帝国の正午が隋唐で、終結が清朝となっている著作があるので、概ね中国における「帝国」は、秦に始まり、清に終わる、一続きの政体として捉えられているようです。

 まぁ、同じ漢字圏なので、同じ文字について、(日本と中国の間で)概念が共有できるというのは、喜ばしいことかと思います。

ところで、ローマ帝国衰亡史の中国語訳が、昨年12月の出版ででています。全六巻。全部併せると日本のと同じくらいの横幅です。題名も、「羅馬帝国衰亡史」。近代以前の世界史関連では、やはりローマの書籍が目立っています。やはり意識していると思われます。前掲書の中にも、「帝国天下」という、秦とローマ軍を比較した書籍があります。しかもこの書籍、「帝国」と「天下」という、元祖帝国の単語(天下)と、最近の新興単語(帝国)が続けて並んでいます。中国人にとっては、どういう語感となっているのでしょうね。

 前掲書最後の「秦漢帝国」は5月の出版。図版が多く、最新の遺物(特に漢代のカラー壁画が多数)が掲載されていて、中国古代史も、やっと、西洋古代史の書籍のレベルに匹敵するような書籍が出せる段階に来たと言えるのかも、と思いました。
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by zae06141 | 2008-07-02 00:53 | その他歴史関係 | Comments(0)

中国歴史地図帳「看 版図 学 中国歴史」

 中国歴史地図帳というと、以前こちらでご紹介した、毛沢東の命で作られた中国地図出版社の「中国歴史地図集(リンク先で全頁見れます*2010年3月11日最新リンク先に修正)がまず挙げられます。値段も高額で現在482元(約7800円)ですが、各時代が、ほぼ省単位で見ることができ、非常に詳細です。ネット上のあちこちに転載されていて、こちらのサイトには、各時代の領域図が、一括して掲載されています。このように、詳細地図はネット上で見れるとはいえ、日本の、帝国書院や山川出版社などから出ている、世界史歴史地図帳に相当する地図は、これまで出版されたことが無かったようです。また、各王朝ごとの地域は詳細なのですが、隋以前の時代は、基本的に各王朝について1時点の地図だけ。このあたりが物足りない点でした。

 ところが、遂に中国でも、日本の高校生用歴史地図帳のような、横綴じ地図帳が5月に出版されました。それが、この、「看 版図 学 中国歴史」(星球地図出版社)です。下記のような表紙。A4横サイズなので、日本の高校生用地図帳(A5横)より一回り大きいサイズ。

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 さて、この地図帳ですが、いくつか驚かされる点がありました。

 まず、第1章は、石器時代の遺跡分布となっているのですが、第2章。イキナリ 「黄帝及び尭舜禹時代」となっていて、炎帝族と黄帝族の根拠地が●で記入されているのです(「帝王世紀」という書物に記載、とある)。で、春秋戦国時代の文献によると、と解説があるとはいえ、炎帝族と黄帝族の連合軍が、、東夷族の首領である蚩尤を破った涿鹿の野の戦いの場所も、今の北京付近に記載されているのです。

 これはすごい!

 同地図には、少皡、帝嚳、尭、舜、顓頊の都も記載されています。

 こういう次第なので、当然ながら、第3章の夏では、「竹書紀年」記載の夏王朝の9個の各都と周辺民族が記入されているのでした。現在も、貴州・湖南省に住むミャオ族の祖先の三苗は、この時代から湖北あたりにいたんですね。。。
 このあたり以降は、まともになります。これ以前もまともでないとは言えませんが。。。黄帝や炎帝がなんらかの史実を反映している可能性はあるわけですし、殷初期の都と夏王朝最後の都と想定される遺跡も発見されていることから、どこまでが史実かという境目に腺を引きにくいことは確かなので、立場によっては、このような記載にならざるを得ない部分もあるのでしょうね。

 次にこの地図の特色と言えるのは、統一直後、前220年時の秦の領域図がある点でしょう。こちらに掲載している、漢文帝時代の領域とほぼ同じ領域となっています。更に、漢代についても、武帝以前の領域図が掲載されています。それによると、上記地図とは異なっていて、雲南や貴州省あたりも漢の領土となっています。漢代の地図解説の頁には、ローマ帝国の地図も1枚だけ掲載されていて、漢と比較されています。これは嬉しい限り。というか、アメリカをライバル視している現代中国としては、古代ローマと古代秦漢は、並べて置かないと気がすまないのでしょうね。私のサイトがそもそもそうなので、あまり非難はできないのですが、秦の軍隊とローマ軍団を比較する書籍も出版されていたりして、結構意識している感じ。2000年以降、経済的、資源的、人的、環境的と、様々な意味で世界の脅威になるまでに復活してきてしまっているので、もう私のサイトのように、ローマと並べてアピールする必要は無くなってきているように思います。

 魏晋南北朝時代は、327年、382年、409年、449年、546年、572年となっていて、大体中国歴史地図集と同じ感じ。唐については、3枚しかない歴史地図集よりも詳しく、李世民の時代、669年、741年、820年、874年と5枚。日本の地図帳では、高宗時代に吐蕃を唐の勢力圏に含める図があったりしますが、「歴史地図集」も」こちらの5枚も一貫して「領域外」となっています(反面元代以降は一貫して中国領土となっていて、本土だけの明代地図を見慣れている日本人には、違和感があります)。
 唐代の地図には、イスラーム帝国の地図も併設されています。どうやらこの時代のライバルとして、イスラム帝国を意識しているようですね。

 五代は中原5王朝が載せられていて、これも珍しいと思います。その代わり「歴史地図帳」で色分けされて載せられている大理や南詔は地名の文字だけ。西夏は色分けされているので、どういう基準なのかいまひとつ判然としません。細かく読めば、解説に書いてあるのかも知れませんが。。。。

 ところで、遼代以降は、樺太も中華王朝領となっているんですよね。実際、金代とか、軍隊が樺太に進駐したという記録や駐屯地の遺跡もあるらしいので、まぁいいのかな。このあと、殆ど領域が変わっていないのに、1142年、1208年、1231年と金と南宋が3枚続く。元代以降は、チベットは一貫して中国領土。永楽帝の時代に明朝に服属した時の条約書が残っていて、その証文がこちらで出版されているチベットを扱った書籍や、テレビのニュースででてきたりするので、政治・アカデミズムの世界一丸となって、チベット領土公式領有の開始を印象づけようとしているようです。比較の対象が少しずれてはいますが、尖閣諸島で領海侵犯した台湾の漁船が沈没した事件について、 こちらの6月18日付読売新聞の社説では、「そもそも尖閣諸島は、町村官房長官が改めて表明したように、「わが国固有の領土であることは論をまたず、歴史的にも国際法上も極めて自明のこと」だ」 などと掲載されていて、この記事はちょっとどうかなぁ。。。自分の国の政治家が「「わが国固有の領土」といったから、そうなんだ」という文章は、いかがなものかと思うのですが。。。。せめて町村長官が引用した国際法に照らした根拠を記載するべきなんじゃないの。これじゃあ「わが社の製品は他社製品より優れています」と売り込む商業活動となんら変わりはない。「証文」とやらを持ち出して(しかも実物写真)国民を洗脳(説得)しようとする中国政府の方がなんぼかマシな気が。。。まぁ中国政府も、人民日報の社説などでは、18日読売社説と同じような、「政府が言ってるからそうなの」みたいな記事が多いのかも知れないが、大新聞の社説なんだから、もう少しスキの無い文章にして欲しかった。

 話が脱線しましたが、明代地図のところで併載されている他国は、モスクワ公国。しかもイヴァン3世とヴァシリー時代。チムール帝国でも17世紀ロシア帝国でもなかったのでした。その後は他の国の地図は登場することなく、ロシアに沿海州を奪われた時点で、樺太が国外領土になっています。

 なかなかに、見ごたえがある、突っ込みどころの多い(多分)はじめての「横綴じ型簡易版歴史地図帳」でした。38元(550円くらい)の価値は十分あると思います。
 
 ところで、最近中国歴史地図で検索すると、「世界地図で見る世界史」サイトが一番最初にヒットします。紀元151年から840年まで1年刻みで、中国歴史地図が作成されており、中国歴史地図についてはホント書籍はあまり必要としない時代になってきたものと思います。
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by zae06141 | 2008-06-28 02:22 | その他歴史関係 | Comments(0)

アンガス・マディソン「経済統計で見る世界経済2000年史」 ver7

 昨日19日の日経新聞5面に、オランダ、フローニンゲン大学のアンガス・マディソン教授が、過去2000年間のGDPの推計を試みているとの記事がありました。アンガス教授の書籍は、以前「世界経済の成長史1820‐1992年―199カ国を対象とする分析と推計」という書籍を読んだことがあるのですが、過去2000年間の方も、「経済統計で見る世界経済2000年史」という書籍を出していることを知りました。
 
 前著には、1820年のGDP1位は中国、2位はインドとなっていましたが、これは人口が多いためで、一人あたりのGDPとなると、英国や日本よりも低い状況でした。これに対して、後者の書籍では、宋代の一人あたりのGDPは、西欧よりも高かった、とあるとのことです(日経新聞記事より)。
まぁ、西欧が一番低調だった頃と比べても、とは思いますが(10世紀で比べるなら、ファーティマ朝か、ビザンツにして欲しいと思います)、実験的な試みとはいえ、興味を引かれてしまいます。

※追記1 2007年4月
 本屋で立ち読みしてきました。ざっとめくっただけなので、ちゃんと読めているわけではありません。その範囲内での感想ですが、あんまり期待した感じでもなかった、というところでしょうか。

基本的には、「世界経済の成長史1820‐1992年―199カ国を対象とする分析と推計」 に書き足したという感じで、2/3くらいは、「世界経済の成長史」の統計図版がそのまま掲載されている感じ。次に解説の量が多いのは、1500年-1820年。しかし、この部分であれば、ウォーラーステインはじめ、多くの学者の研究しているところです。特に本書に頼る必要もない部分かと思います。一番興味のあった紀元0年~1000年に関する部分は、ほぼ人口推計の算出だけと言ってよく、GDPは、各地域400ドル~450ドルの間にまとまっていて、都市や地域・職業別に推定されているわけではありません。また、人口やGDPは、地域別に指定されているのですが、西ヨーロッパ、東ヨーロッパ、アフリカ、トルコ、イラン、イラン以外のアジアなど、地域別となっていて、古代国家の単位と関連付けされていないため、ローマ帝国やペルシア帝国などの単位での参考値とはなっていません。

※追記2 2008年5月
 アンガス・マディソンの「Chinese Economic Performance in the Long Run 960-2030」の中国語訳、「中国经济的长期表现 公元960-2030年」の付録に、明代初期、1380年から、10年刻みの人口推計表が掲載されています。1895年以降は、3~5年毎、1952年以降は毎年の人口が掲載されています。邦訳だと「世界経済の成長史1820‐1992年―199カ国を対象とする分析と推計」が定価で5040円、 「経済統計で見る世界経済2000年史」が、13650円と高額だったりしますので、統計表程度しか見ない私のような向きには、30元(450円くらい)で手に入る中国語版は非常にリーズナブル。本書には、紀元1年、960年、1300年、1700年の欧州(トルコとロシア以外の欧州)と中国の推計GDPの比較が掲載されていて、1人辺りの平均年収が掲載されています。
      1年  960年  1300年  1700年(単位、1990年ドル)
中国  450   450    600     600
欧州  550   422    576     924

 きれいに、ローマ帝国の最盛期と中世暗黒時代、ルネッサンス以後の復興という欧州人の歴史観を反映した値となっています。こんな微妙な相違は、殆ど誤差の範囲であって、集計方法によりいくらでも調整できてしまう値だと思うのですが、そうはいっても、何もないよりはマシ。ということでついつい参照してしまうことになるのでした。

 この手の推計となるとマディソン教授ばかり。教授の算出を検証するような他の研究は見たことが無いのですが、数字だけが様々なメディアに転載され、学問的に確定した事実のように、一人歩きしている印象があります。

というわけで、期待した程の参考にはなりそうにもなかったのですが、いくつかわかったこともあります。ひとつは、18世紀の日本の都市化が、西欧と同じ13%程度と、中国よりも高かったこと。もうひとつは、西欧の経済データは12世紀頃から比較的把握されていて、西欧の経済的浮上が1000年頃から起った、と考えられている点などがありました。

※追記3
2010年1月 アンガス・マディソン氏のサイト掲載の数値情報を利用して、紀元1年と2008年の世界人口のグラフを作成してみました。 また、2次大戦前夜の日本の国力を知りたいと思い、1937年と41年のGDPベスト15国も一覧も作成してみました。ご参考にどうぞ。

※追記4 2010年6月
清代中期の役人洪亮吉の一人当たりを養う耕地面積論とアンガ・スマディソン推計の清代一人当たりGDP」と言う記事も作成してみました。

※追記5 2016年2月
アンガス・マディソン氏のローマ帝国の一人当たり平均所得の計算根拠の概要を、『世界経済史概観-紀元1年~2030年』(2015年)をもとに各世界のプロファイル(古代ローマ、漢、サーサーン朝の人口、財政、生活費、GDPなど)に追記しました。もうちょっと史料的な裏づけがあるのかと思っていましたが。。。計量経済史学を歴史経済学がほぼ無視している理由がよくわかりました。アンガス氏の研究数値のうちのGDPについては、出典として利用しても概ね妥当な範囲だろう、という段階に達しているのは1820年以降くらいだ(イタリアは1500年くらいかも)、という結論をようやく出せそうな気がしています。

 ここ数年、計量経済史学関連の史料とロジックを渉猟してきてわかったことが2点あります。ひとつは、平均寿命(≒平均余命)や歴史人口学、財政規模、穀物生産性などはそれなりに史料的裏づけがあること、二つ目は全時代・全地域を通じて、一貫して比較的残っている文書史料は、税収(≒歳入)と兵士の数(≒歳出)だということです。歳入は金額が重要なので、中央集権が貫徹していない場合、人口は重視されず記録もまた残りにくい、対して歳出のほとんどはどこでもいつでも軍事力≒兵士の数なので、総人口に関する史料は少ない代わりに兵士の数に関する史料は結構残っている、という点。

※追記6 2016年12月(2017年5月一部修正加筆)
アンガス・マディソン氏の『世界経済史概観-紀元1年~2030年』(2015年)に、ローマ帝国各地地域ごとのGDPの算出方法が記載されていました。同じ方法を漢王朝に適用した記事を書いてみました。ご興味のある方はこちらをご参照ください。2014年春にウォルター・シャイデルの論考を読ん時から思っていたのですが、古代・中世に対する数量経済学史は、もうまったく、オーダー・エスティメイションの世界だということが、私の結論です。経済理論自体が、数々の前提条件のもと、「XXの値がYYならば」というオーダー・エスティメイションで成り立っていることを思えば*1、特に不思議ではないのですが、歴史学の経済史家が数量経済史を真面目に相手にしないのが本当によくわかりました。まあでも、仮定を積み重ねるだけのことでも、何もやらないよりはましではありますね。それなりに意味のあることだと思います。
 アンガス氏の1820年以前のGDPに関する算出値ありきで論を構築する研究はろくでもない研究だと考えた方がよく、アンガス氏が仮定として用いた各要素の値を、ひとつでも多くより実証的に深める研究こそが、数量経済史家には必要とされているのだ、ということがよくわかりました。アンガス氏を知ってから10年、ようやく彼のGDP推計の問題点も有効性もだいたいわかった、といえる段階になりました。長い探求でした(この10年間にアンガス氏の研究に関心をもって調べた各記事はこちらこちら)。

*1経済理論が現実の世界でなかなかその通りに機能しないことが多いのは、条件の幾つかが現実と一致していないからです。諸条件がほぼ揃った滅多にない成功事例がブレトンウッズ体制下の西側先進国経済であるといえると思います。オーダー・エスティメイションは、現在ではビジネスコンサルやITコンサルでもよく使うので、理系分野だけではなく、ビジネス界でも馴染みのあるものだと思います。

追記7(2017年7月)

 日本経済新聞社の記事7/1日の『習近平氏の「中国の夢」、千年間のGDPで精査』で、今年4月に発表された、宋代以降の中国と中世欧州、徳川日本のひとりあたりの平均GDPに関する最新研究『China, Europe and the Great Divergence: A Study in Historical National Accounting, 980-1850』(PDFはこちら)が紹介されています。時間のある時にじっくり読んでみたいと思います。1700年前後のイングランドの値をかなり低めに出しているような気がします。アンドレ・グンダー・フランクが『リオリエント』で叙述的に示しただけで数値的根拠がいまひとつだった、近世における中国への銀の流入量の総額見積もりや物価との連動を数値的に説明できていたりすると嬉しいかも。

 ところで、日経の記事にある、習近平氏が、「アヘン戦争の前は中国は世界一豊かな国だった」との文言は、ひとりあたりGDPの話ではなく、当時の単一の国家としては飛びぬけて膨大な4億という人口による総GDPの話をしているのだと思うのですが、どうなのでしょうか。個人的にはポメランツ説よりも、アンガス説に基づいての主張だと思っていました。GDP総額で米国を抜くのが当面の現実的な範囲の値であって、ひとりあたりのGDPが米国を抜く、という議論が現実味を持つにはあと50年くらいかかると思っているのですが、、(輸出競争力確保のため、為替の完全自由化はなかなかしないでしょうから、PPPのひとりあたりで米国を抜く、ということなのかも知れませんが、、、こちらは現実的な目標になりえると思います)。

 いづれにしてもこうした研究が地道に進んでくれるのは嬉しい限りです。

 今回の追記では以下5点の関連論文や書籍等を紹介したいと思います。

1.ローマ・漢王朝・パルティアのひとりあたり最低生活費の研究(オランダ・ユトレヒト大学)
 The standard of living inancient societies: a comparison between the
Han Empire,the Roman Empire, and Babylonia (PDFはこちら
 Bas van Leeuwen, Reinhard Pirngruber, Jieli van Leeuwen Li著

2.18世紀のロンドン・アムステルダム・ミラノ・北京都市部・北京農村部・京都/東京の実質賃金比較研究
 『実質賃金の歴史的水準比較』J.-P.バッシーノ、馬徳武、斉藤修著
 (『経済研究』通巻56号,2005年第四号pp349-369)

3.斉藤修『比較経済発展論-歴史的アプローチ』(岩波書店)
 掲載グラフを解説しているところで、上記バッシーノ達との研究に追加して、同時期に対するストラスブールやオックスフォード、畿内、京都、銚子、広東との賃金を基準とした生活水準比較グラフが掲載されていて有用です。アンガス・マディソンの方法論についても解説しています。

4.歴史学畑の西洋経済史学者が書いた数量経済史の入門書としては、カルロ・マリア チポッラ著『経済史への招待―歴史学と経済学のはざまへ』 国文社/2001年)が良書だと思います。

5.アヘン戦争時の清朝と英国の財政規模
 めちゃくちゃ適当な計算ですが、当時の両国の中央政府の財政総額が残っているので、労働者ひとりの年収を100万円と決めうちした場合、両者の財政規模がいくらになるのか計算した記事です(こちら)。清朝1兆円弱、英国本国1.3兆円くらいになりました(英国は、植民地政府の財政は含まない)。この背景として清朝は康熙・雍正帝の時代に中央政府の税額を固定してしまった点と、英国は巨額な国債を発行していた二点があげられます(あくまで中央政府の税収で、地方政府の税収は別にあります。更に清朝では公式の財政記録に載らない要素(徭役等)も大きいと思われます。よって、これはあくまで数字のお遊びです)。しかし簡単に計算しただけでも英国の財政規模が清朝を上回ってしまう結果となる具合ですから、アヘン戦争の敗北も妥当なように思えた次第です。

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by zae06141 | 2007-03-20 00:55 | その他歴史関係 | Comments(0)

遺物の収集


 池袋のオリエント博物館で開催されている「古代エジプト展」に行ってきました。先史時代~ローマ時代の様様な文物が展示されていて、古代エジプトとなると、もう日本でも何度も展示会が開催されているわ、不思議発見などTV番組で散々見ているわで、あまり新しい知見はないのでは、と期待していなかったのですが、それなりに新しい発見もあり、やはり百聞は一見に如かず、と改めて思いました。特に2点についてここで書いてみたいと思います。

 ひとつは、新王国時代のエジプトのガラス製品が展示されていたことです。出口の売店に置いてあった、「古代オリエントのガラス」という冊子に、これについての記述があったので読んでみました。すると、ガラスは前2300年くらいからメソポタミアで開発され、エジプトにガラス技術が導入されたのは、トトメス3世などのシリア遠征時期だとのこと。このため、エジプトで発見されるガラス製品は、最初から完成された製品として出土されるとのことだった。
 また、古代ローマのプリニウス博物誌には、「フェニキア人がガラスを発見した」という伝承が掲載されており、これによると、天然ソーダを扱う商人が、料理か何かの火を起こしているとき、鍋を支える木材が足りなくて、たまたま手元にあった天然ソーダを代りに使ったところ、溶けたガラス成分が流れ出した、とのこと。フェニキア人の伝承は、もとはメソポタミアから伝わったものかも知れず、案外そんなもんかも、と思いました。

 ふたつ目は、末期王国時代に「ネコ」が崇拝されていた、との話。これまで、エジプトの歴史の本で、末期王国時代のページに、説明もなく発掘ネコの像の写真が掲載されてあり、そのページの近辺には「ネコ王」の記述があることから、きっと冗談好きな編集者なんだろう、と勝手に思っていたのですが、今日始めて事実を知りました。当時のエジプトではネコは、女神バステトの化身とされていて、子宝、安産の守り神とされていた。そこで家庭で飼われていたネコが死ぬと、ミイラにして葬り、またネコの像を作って祭ったとのこと。なるほど~。そういうことでしたか。

 ところで、今回の展示は、エジプト本国や大英博物館などからの遺物を持ち込んだのではなく、日本各地の博物館や個人の所蔵物を集めたものでした。そこで気になってしまいました。古代エジプトの文物を、これ程の量を各国・各地域で分散所有してしまっていいのだろうか?今回は以下博物館から集められたものでした(これ以外に個人もある)。

松岡美術館(東京目黒)
成羽町美術館(岡山県)
下関市立美術館(山口県)
天理参考館(奈良県)
遠山記念館(埼玉川越)
岡山市立オリエント博物館(岡山県)
MIHO MUSEUM(滋賀県)
大原美術館(岡山県)
中近東文化センター(東京三鷹)
オリエント博物館(池袋)

 中近東文化センターや、オリエント博物館は、日本を代表する専門の機関なのですが、その他の美術館では、岡山県の大原美術館以外、古代エジプトの文物を所有していることを、今回始めて知り、驚きました。こんなに多くの美術館が、遠いエジプトの文物を所有していいのだろうか?こんな調子で世界各国がエジプトの文物を持ち去ってしまったら、研究が困難になるのではないか?それとも、当のエジプトには腐るほど文物があるのかもしれず、この程度は問題ないのだろうか?など、色々考えてしまいました。全ての文物に管理番号を振った資料一覧などができていて、いつでも研究者が参照できるのならいいのですが、もし、そうでない場合、遺物は限定された機関(せめて各国1箇所ずつとか)で集中管理した方がいいのではないのだろうか?と思ってしまいました。地域博物館にはレプリカがあれば、子供達に夢を与えることができるわけだし、展示会は、限定された機関から、定期的に地域の美術館に貸し出して行えばいいわけですし。
 などなど、いろいろ考えてしまいました。
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by zae06141 | 2006-10-01 17:10 | その他歴史関係 | Comments(0)