古代世界の午後雑記


「古代世界の午後」更新履歴と雑記
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カテゴリ:その他歴史関係( 61 )


清代中期の役人洪亮吉の一人当たりを養う耕地面積論とアンガ・スマディソン推計の清代一人当たりGDP

 基礎的なデータであるにも関わらず、ネット上にあまり流通していないようなので「唐、宋、金、南宋、元代の年代別人口一覧表」作りました。ご興味のある方はこちらの表をご覧ください。これで、後漢と唐代から元代、明代以降の中国の人口変遷の概要を把握できるものと思います。日本版Wikiにも少し中国歴代人口変遷の表が記載されていますが、これらは史書記載の「口数」だけが記載されており、「実勢値」についての検討が省かれています。特に宋・南宋代については、史書記載の値はかなり問題のある値であることから、推計値も記載しました。それによると宋代、金・南宋代の人口は1億近く、明朝後期の数値に近いものとなり、宋代の繁栄を裏づける数値と言えそうです。宋・金代は、前漢・後漢、唐、明、清と異なり、農民反乱によるカタストロフィを迎えたわけでは無く、今回人口表作成にあたって引用した書籍の推定によれば、宋から金・南宋代に切り替わる時にも、大きな人口減少が無かったことから、お決まりの人口過剰によるカタストロフィは(王朝の衰退は人口過剰だけが原因ではないのは勿論ですが)無く、宋代の生産性向上や新規農地開拓などの要素の方が上回っていたのかも知れません。

 ところで、清代中期の役人、洪亮吉(1746年-1809年)によると、「一年一人の食糧を計るとおよそ四畝が必要となる。十人の家では四+畝が必要となる」と同時代人の証言(しかも身近な実例で実証し易い内容)があり、(洪亮吉の記述の原文はこちらの法政大学菊池道樹氏の論文から引用(p9-p10))、1766年(乾隆三十一年)ぐらいを境に一人当たり四畝を下回ったとのこと(こちらの中国語頁には、1766年には3.5畝で、既に正常な生活水準下回っている(而在乾隆三十一年(1766),全國人均土地約為3.5畝。已低於正常生活水平的標準)とあります)。1766年は、推計人口約2億8千万人くらいなので、清朝は結構なキャパがあったようです。明朝が、推定1億6千万を天井に人口減少となり、最後は農民反乱で滅んだことを思うと、清代前半は意外と生産性上昇があったのかも知れません(こちらの滋賀大学の石田與平氏の論文によると、1661年から1810年の間の人口増は2.7倍で耕地面積の増加は13%とあります)。なお、清代の四畝とは、約2456平米のようです(幻想山狂仙洞様のサイト、中国歴代度量衡換算表参照)。

 ついでながら、前漢末期の一人当たり耕地面積と比較してみると、前漢末期は人口5959万で82700万畝、1人あたり約13.9畝で、上記度量衡換算表によれば、6440平米となり、清朝の方が2.62倍の生産性となることになります。とはいえ、前漢末期の数字が、洪亮吉の言うよう、「必要な耕地面積」であるとは限らず、過剰な値なのか、余裕のある値なのかが不明なので、単純な比較はあまり意味の無いところですが。。。。(清朝末期の人口で比較したら同じくらいの生産性になってしまうかも知れません)。と、ここまで考えてきて思いあたったのですが、アンガス・マディソンが、紀元前後の世界の一人当たりのGDPの試算をしていて(こちらの氏のサイトに紀元1年から現在までのGDPをまとめたCSVファイルがあります)、紀元1年が450ドル、1820年が600ドルと、たったの約1.3倍のGDP向上となっています。私はこれをかなりうさんくさい値だと思っていたのですが、仮に1766年の一人当たりの生産力を四畝とし、その後の人口増大は1人当たりの収入低下を招いたとなると、1766年の2億8000万に対して1820年は3億8千万人ですから、約35.7%の人口増=約26%の収入低下となり、前漢代と比べて2.63倍の生産性があっても、1820年の実収入は、1.93倍程度に留まります。アンガスの出した1.3倍と比べて差はあるものの、それほど出鱈目な値ではなさそうな気がしてきました。一方で、ローマ帝国の550ドルが1820年の欧州で1200ドル程度(2.18倍)となっているのに比べると、1.3倍と1.93倍では大きく印象が異なります。1.93倍であれば、それほど欧州にひけをとらないことになりますね。。。。まあいづれにしても数字のお遊びに過ぎませんが。。。。

 ちなみに唐代の数字も計算してみました。「通典」(巻二田制下)で、天宝14年の戸数は891万戸、人口は5291万(とはいえ杜佑は別の箇所(「食貨」巻7の「歷代盛衰戶口」)にて、戸数を1350万戸と推定している。これに準じて人口を計算すると7695万人となる)、耕地面積は143000万畝、1人当たり、27.02畝、前傾「中国歴代度量衡換算表」では、唐代の1畝は580.326平方メートルであるから、1人当たり約15684平米となり、漢代の倍以上となってしまいます。これに対して、渡辺信一郎著「中國古代の財政と國家」p470では、一頃で50石の収穫があるとして、1430万頃で7億1500万石の収穫があるとしている(著者は1400万と数字を丸めて計算しているので、7億石と算出しているが、ここでは1430万を用いて再計算した)。また、1人当たり1日の必要量を0.2石とし、0.2*365*5291万=38624万石(ここでも著者は、360日、5300万と数字を丸めているので、365日と5291万を採用しました)、つまり、生活必要量は、生産量7億石の約54%となります。ということは、先に算出した15684平米の54%である8469平米が、1人当たりの必要耕地面積、ということになります。この数字でも、漢代の生産性よりも低いことになってしまいますが。。。。。
 そこで、杜佑が推定している戸数から算出した7695万人で計算してみることにします。すると、必要量は5億1673万石という数値が得られます。全生産量の72%が生活必要量ということになります。一方1人当たりの耕地面積は18.6畝。唐代の1畝で計算すると、1万794平米となります。この72%が一人当たりの必要耕地面積となるので、7772平米。つまり、漢代の6440平米を少々超えてしまう値(少し生産性が落ちた程度)となりますね。。。。、 、もっとも、漢代の場合は、「1人当たりの必要耕地面積」は不明ですし、唐代の、1万畝で50石の生産性の根拠も、渡辺氏の著書に出典の記載が無い為、あくまで参考以下、数字のお遊びにしかなりませんが。。。。。
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by zae06141 | 2010-06-25 23:58 | その他歴史関係 | Comments(0)

卑弥呼の発音はやはりピミコ?

昨夜のNHKの日本語に関する番組「みんなでニホンGO!」では、現在の日本語の「ハヒフヘホ」は、古代では「パピプペポ」であり、平安期になって「ファフィフフェフォ」となった、との話をやっていた。根拠は、言語学者の金田一京助だったか金田一春彦氏だったかが作成した、「万葉時代の発音で読む万葉集」「平安時代の発音で読む枕草子」の録音資料や、一般に、言語は辺境地帯ほど、古音が保存されるという学説により、現在の石垣島で、標準語でのハ行音がパ行音とされる単語が多い、など。「春過ぎて」で始まる持統天皇の短歌を「パル過ぎて」、「春はあけぼの」で始まる枕草子を「ファルはあけぼの」と音読する資料は興味深いものがありました。

 そこで思い出さされるのが、唐朝に亡命したサーサーン朝の最後の王ヤズダギルドの子、ペーローズが、唐書では、「卑路斯」と記載されている件。無論唐書が書かれた時代(五代、宋)と魏志倭人伝の書かれた3世紀後半とは開きがあり、ペーローズも、近世ペルシア語ではフィールーズと音価が変化しているので、卑弥呼も、フィミコであった可能性もあります。ひとつ共通しているのは、ペーローズからフィールーズへの、P音からPh/F音への変化が、推測される万葉時代から平安期日本語の変化と共通している点。

 卑弥呼の発音はがピミコ、或いはフィミコという説は従来からあるようですが、ペーローズの発音との共通点を考えると、やはりピミコかフィミコに近く、少なくとも「ヒミコ」ではなかったのではないかと思えてきてしまいます。

 とはいえ、唐代に成立した「魏書」で、ペルシアは「波斯」と書かれ、これはファールスの音写とされているが、「ファールス」は近世ペルシア語発音で、中世ペルシア語では「パールス」。唐代に成立した「魏書」が、「Ph/F」音の「ファ」で、五代・宋代に成立した唐書の方が、Ph/Fではなく、P音を使って、ペーローズを「卑」としていたというのは矛盾することになってしまうので、このあたり、どうなのでしょうね。

なお、youtubeに、源氏物語を当時の発音で読んでいる映像があがっています(朗読 源氏物語(Tale of Genji) 若紫1 平安朝日本語復元による試み)。
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by zae06141 | 2010-04-23 23:58 | その他歴史関係 | Comments(2)

国立国会図書館アジア情報室記事紹介:ブーラーク印刷所の歴史と各国図書館事情

 このところ千一夜物語や「カリーラとディムナ」などアラビア文学の情報を調べていたら、「カルカッタ版」、「ブーラーク版」などの言葉を目にするようになり、少し調べてみたところ、ブーラークとは19世紀初頭にカイロに開設された印刷所のことであり、それに関する有用な紹介記事が、国立国会図書館のサイトにありました。

 「アラビア文字活字印刷の普及とムハンマド・アリー時代のブーラーク印刷所」

 この記事によると、アラビア文字の印刷は西欧において開始され、それらがオスマン朝に輸入されたものの、イスラーム世界の印刷業の開始が遅れたのは、主に2つの理由とされています。
 
1.知識は師弟相伝の記憶によって伝えられるべきもの
2.欧州印刷の活字では、美しいアラビア文字の書体を表現できなかった

 さらに、髙松洋一氏の「オスマン朝における活版印刷の導入 - イブラヒム・ミュテフェッリカの印刷所開設(1727) を中心として」という論考では、「1485 年にはすでに、オスマン朝においてムスリムがアラビア文字によって印刷を行なうことは、勅令により禁じられていた」とされています。印刷本による知識の普及が近代西欧飛躍のもっとも重要な要因のひとつであることを考えると、このようなオスマン政府の措置は自らの可能性を閉ざしてしまったものとして非常に残念です。とはいえ、同論考によると、そのオスマン朝でも、欧州製作のアラビア文字の印刷本の輸入は行われており、イスタンブールでは、アラビア文字を利用しない、非ムスリムのトルコ語やペルシア語文献の印刷は行われていたそうですから、もう少しアラビア学芸最盛期の書籍の現存になどが行われていてもよさそうにも思えるのですが、そこまで裾野は広くなかったのでしょうね。

 一方、紙がサーサーン朝時代に中国から輸入されるようになり、紙の製造技術がアッバース朝時代に伝わったイスラーム世界に、同様に中国から印刷術が伝わらなかったのだろうかとの疑問があります。この点については、箕輪成男氏の「紙と羊皮紙・写本の社会史(p155)」に、エジプトのエルハイユムという場所で発見された、900-1350年頃に比定されるパピルスには、印刷されたアラビア文字が記載されているとのこと。同書でも、印刷術が広まらなかったのは、文字の美観にあるとされています。中国から伝わったかどうかは定かでは無いものの、アラビア学芸最盛期には印刷技術があったらしいことと、13世紀以降アラブの退潮とともに最盛期の学芸著作の多くが損失していったということを考えると、情報の流通をコントロールすることは秩序の安定に寄与することはあっても、文化の発展は遅滞もしくは退行してしまうものなのだ、と思わずにはいられません(そう考えると、現世界でネットを制御しようとしている発展中諸国家も、大局的には停滞しかもたらさないのではないかと思うのです)。

 さて、「アラビア文字活字印刷の普及とムハンマド・アリー時代のブーラーク印刷所」には、18世紀初頭ハンガリー出身のイブラヒム・ミュテフェッリカの印刷所作成活動や、ブーラーク印刷所成立の経緯、ブーラーク印刷所で印刷された書籍の分野・言語別分類などが掲載されていて有用です。

 また、この記事の掲載されている、国立国会図書館のアジア情報室というところが出している通報所収の記事は、単なる記事の概要紹介レベルを超えた情報量があり、非常に便利です。

 情報の流通に興味のある私としては、昨今のアジア各国図書館事情を調査した下記報告記は非常に興味深く参考になりました。

ベトナムの出版事情および統計にみる国外の著作動向: アジア情報室通報第2巻第2号

タイの出版界の状況について : アジア情報室通報第5巻第4号

インドネシアの出版、書店、図書館――出張報告 : アジア情報室通報第6巻第3号

エジプトとトルコの出版事情―出張報告 : アジア情報室通報第5巻第2号

カザフスタンの出版事情と図書館-出張報告:アジア情報室通報第6巻第4号

タイの出版、書店、図書館、日本関係機関―出張報告 : アジア情報室通報第6巻第2号

パキスタンの諸言語資源をめぐる現状と課題 : アジア情報室通報第4巻第4号

モンゴル国立中央図書館について: アジア情報室通報第2巻第3号

 アジア情報室の皆様にはこれからも有益なご活動と、サイトへの記事掲載のように、国民へのフィードバックを継続を期待したいと思います。
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by zae06141 | 2010-02-21 22:43 | その他歴史関係 | Comments(0)

1937年と1941年のGDPベスト15国

 アンガス・マディスン教授のExcel表を見ているうちに、戦前の日本の国力はどのような数値となっているのだろうか、と、興味が出てきてしまったので、少し調べてみました。ちょっと検索したところでは特にまとめてあるサイトは見つからなかった為、ここで紹介してみます(ここで言っているGDPとは、マディソン教授が考案した補正値ですので、ご注意ください)。なお、教授のシートは、植民地は含んでいないようなので、旧植民地についてデータがあるものについては、それを加算したものも記載します。

【1】.1937年のGDP(植民地別)

1.米国     832,469
2.ソ連     398,017
3.ドイツ    317,783
4.中国     296,043
5.英国     294,025
6.インド    250,768
7.フランス   188,125
8.日本     165,017
9.イタリア   142,954
10.インドネシア 78,485
11.ポーランド  58,980
12.アルゼンチン 55,650
13.カナダ    50,733
14.ブラジル   48,355
15.オランダ   46,716

【1】.1937年のGDP(植民地込み)

1.米国      854,688 (フィリピンを含む)
2.英国      551,464 (インド、マレーシアを含む)
3.ソ連      398,017
4.ドイツ     317,783
5.中国      296,043
6.日本      195,680 (韓国、台湾含む*1)
7.フランス    188,125 (アルジェリア、ヴェトナムなどのデータ無し)
8.イタリア    142,954 (リビアのデータ無し)
9.オランダ    125,201 (インドネシア含む)
10.ポーランド  58,980
11.アルゼンチン 55,650
12.カナダ    50,733
13.ブラジル   48,355
14.スペイン   45,272
15.チェコスロヴァキア 41,578

*1 教授のシートで「韓国」となっている部分の1937年のデータに、北朝鮮部分を含んでいるかどうかは不明。当時の日本の領土であり、資料が残っているので、北朝鮮部分についても調査は可能だと思うのですが、教授の過去GDP算出は、現在の「領土」ベースで記載していることが多いので、この部分はなんともいえないところです。

【2】1941のGDP(植民地別)

1.米国       1,098,921
2.ドイツ       401,174
3.英国        360,737
4.ソ連        333,656
5.インド       270,531
6.日本        212,594
7.イタリア      153,517
8.フランス      131,052
9.インドネシア    89,316
10.カナダ       71,508
11.アルゼンチン   61,986
12.ブラジル      54,981
13.スペイン      52,726
14.オーストラリア  48,271
15.メキシコ      40,851

*マディソン・シートでは、中国のデータが欠損しています。

【2】1941のGDP(植民地込み)

1.米国       1,098,921 (フィリッピンのデータ無し)
2.ドイツ        740,477 (フランス、ベルギー、オランダ、ギリシア含む。ユーゴはデータ無し)
3.英国         622,012 (インド、マレーシア含む)
4.ソ連         333,656
5.日本         287,416 (韓国、台湾含む、ヴェトナムのデータ無し)
6.イタリア       153,517 (リビアのデータ無し)
7.カナダ        71,508
8.アルゼンチン    61,986
9.ブラジル       54,981
10.スペイン      52,726
11.オーストラリア  48,271
12.メキシコ      40,851
13.スウェーデン   31,395
14.トルコ        27,158
15.スイス       26,851

 占領にはコストがかかる為、被占領国のGDPをそのまま加算することに意味があるのか、という議論もあるかと思いますが、まあ数字のお遊びですから、加算してみました。これを見ると、1941年当時のドイツが、イタリアとあわせると、英国とソ連相当くらいにはなるので、「米国の参戦さえなければ、いけそうだ」、と考えたのも納得できそうな値にはなります。1937年当時の日本も、中国相手だけなら、なんとかなる、と考えてしまう程度には、そこそこの数値となっています。しかし、米国があまりにも突出している為、米国が参戦した時点で終わったのは無理からぬところだと言えそうです。
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by zae06141 | 2010-01-03 09:29 | その他歴史関係 | Comments(3)

紀元前後と2008年の世界人口の内訳

 アンガス・マディソン教授の資料が、教授のサイトで公開されています。ここの資料をもとに、各時代の人口とGDPをまとめた「世界日本化計画」というサイトを見つけました。大変な労作で、非常に参考になります。こちらのURLに、一覧頁があります
 私の興味は、特に下記の4つの資料にあり、どれも興味深く参考になりました。

紀元1年世界全体の人口とGDP
紀元1年のローマ帝国の各地域の人口とGDP
紀元1000年の世界全体の人口とGDP

 しかし、古代イラン史に興味のある私としては、イラクの人口とGDPが低過ぎる点に納得できなかった為、マディソン教授の資料、Statistics on World Population, GDP and Per Capita GDP, 1-2006 AD (Last update: March 2009, horizontal file, copyright Angus Maddison) を参照してみたところ、そもそも教授の資料の数値におけるイラクの値に原因があることがわかりました。McCormick.Adams教授の南イラクの研究によると(こちらに以前まとめたパルティア・サーサーン朝時代に関する概要があります)、パルティア・サーサーン朝のイラクは、パルティア・サーサーン時代は大変繁栄していて、それが、サーサーン朝末期の混乱とイスラームの侵攻による破壊を経て、都市や集落の規模が、イスラーム初期には、サーサーン朝期の半分程度にまで落ちていることが明らかにされています。GDPも人口も、パルティア・サーサーン朝とイスラーム期では大きな相違があったことがわかるのですが、マディソン教授のデータでは、イラクの人口は、紀元1年に100万、紀元1000年に200万となっていてイランの紀元1年と1000年が400万、450万となっている点と比べると、非常に低い値に留まっています。ところで、湯浅赳男氏「文明の人口史―人類と環境との衝突、一万年史 」の5章第8節「イスラーム文明と人口」の章p118では、ラッセル氏の(「後期古代と中世の人口」)研究を引いて、7世紀のイスラーム期イラクの人口を910万と記載しています。7世紀のイスラーム期とは、既にサーサーン朝末期の混乱による農地荒廃と、イスラーム初期における、南イラクの一部地域が放棄された時期であり、イスラーム帝国の重心は、アラビアとシリアにあった時期です。バグダードの建設も8世紀後半。となると、サーサーン朝の繁栄のピーク期は、910万を上回る人口とGDPがあってもおかしくはないということになります。紀元前後のパルティア期でさえ、Adams氏の主張では初期イスラーム期を上回る値となっていることから、パルティア期にも900万前後の人口があったとしてもおかしくはないと言えそうです。

 ところで、湯浅氏の前掲書p124では、他の研究者の例も引いて、初期イスラーム期のイラク人口について、ベロッホ氏の600から800万、イサウィ氏の500から600万という数値を引いていて、いづれにしてもマディソン教授の掲載している紀元1年の100万、1000年の200万という値とは大きな幅があります。これら人口推定の根拠として、当時のエジプトの税収よりもイラクの税収の方が高く、そのエジプトの人口が400万から500万とされている為、イラクの人口が、各氏とも500万以上の値を示す結果となっているとのことです(ちなみにマディソン教授のデータでも、エジプトの紀元1年に450万、紀元1000年に500万となっていて、上記各氏の値とほぼ同じ値となっている)。

  というわけで、所詮は数字のお遊び、イラクに910万という数値を適用し、紀元1年の人口グラフを修正したものを作成しました。その他、グラフ作成時に加工したポイントには下記のものがあります。

・ローマ帝国の人口は、湯浅氏の著作に掲載されている、ベロッホ氏の数値5400万を採用(内訳はこちら)。マディソン氏の算出値だと、東方領土の数値に欠損が多いこともあり、掲載値だけを採用すると、4000万強にしかならないこともあり、領土全域について記載のある5400万を採用した。
・中央アジア・北アジアの人口は、「中国人口通史(4):東漢巻-中国人口通史叢書 袁延勝 著 人民出版社」記載の値、約635万を採用(こちらに数値をまとめた資料があります
・インドネシア以外の東アジアと、コーカサス・シリア、地中海東海岸の値が、マディソン・シートに記載が無い為、数値の記載のあるアジア諸国の値をアジア合計値から差し引いたものを、4等分し、1/4づつ東南アジアとパルティアに配分した。残りの1/2はローマ東方領土と中央アジア・北アジアに相当する為、こちらは、上記5400、635万に含まれているものとみなし、省いた。
・旧ソ連の値も、コーカサス、中央アジアに含まれる部分があるため、390万のうち100万を「その他欧州」に加算し、他は省いた。

 以上の加工の結果、紀元1の人口グラフは下記となりました。

a0094433_16562572.jpg


 ローマ帝国が22%、パルティア圏7%、インド31%、漢帝国29%となりました。
 更に、参考までに、マディソン教授のシートから2008年の人口割合のグラフも作成してみました。古代世界と比較しやすくする為、欧米圏、イスラーム圏の間は白い線を引きました。下記は、欧米圏25%、イスラーム圏12%、インド20%、中国20%となっています。

a0094433_16563332.jpg


なお、下記加工を行っています。
・インドの値は、バングラディッシュ、スリランカ、ネパールを含む
・中国は、香港・台湾を含む
・インドネシアとマレーシアは、東南アジアに含む

 結局、結論ありきの牽強付会な結果としかなっていないとはいえ、欧州とローマ、インド、パルティアとイスラーム、中国の割合は、それ程大きく変わっているわけではない、ということになっています。とへいえ、サハラ以南のアフリカと東南アジアの人口増加が非常に目立つ結果となっていることがよくわかりました。7世紀に、アラブが急激に世界史を動かしたように、アフリカや東南アジアが世界を動かす日がやってくるのかも知れません。
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by zae06141 | 2010-01-02 19:15 | その他歴史関係 | Comments(0)

東京の地下鉄路線図と漢代領域図って似てる感じがします(+少しまじめな中国歴史地図の話)。

 という、どうでもいい話題(後半は少しまともな話です)。

上が漢代(Wikipedia掲載)、下が東京地下鉄路線図。漢代地図は、ちょっと上下の縮尺を縮小していますが、そうすることで一層似てくるような気がします(特に大江戸線の路線が)。

a0094433_1133086.jpg

こちらのWikipedia掲載地図を加工しました

a0094433_114059.jpg


ところで、中国版Wikiの漢朝の項目を見ると、紀元前87年と紀元2年の漢代地図が2つ掲載されています。

紀元前87年の地図はこちら

紀元2年の地図はこちら

両者を見比べると、紀元2年の領域図では、あきらかに隙間が増え、領域が縮小していることがわかります。今資料を参照したわけではないのですが、福建省のあたりは、紀元87年当時には、武帝が内地移住政策をとったため、一部の居住者が残っていたものの、基本的には放棄されていた筈です(史記か漢書にそのような記載がある)。
 ところで、中国科学技術院が出している谭其骧編公式歴史地図によると、前漢は、後期の状況を記載したものと(具体的年号は書いていない)となっていて、こちらで参照することができます。これによると、当時の浙江省には、西部都尉とか、東部都尉、南部都尉などの役人の駐在所があり、現福建省を統括していた筈なので、前87年の地図が、福建省全土を覆っているのは、そのへんの事情を詳細に反映しているものなのかも知れません(更には、現福州のあたりに、治県という役所もありました(治県の遺跡情報はこちら)。

 一方、谭其骧編公式歴史地図の後漢代の地図(こちら)では、西部都尉、東部都尉、南部都尉は掲載されておらず、現福州に、東治、現温州に永寧が置かれており、Wikiの地図を拡大してみると、そのあたりも点として塗りつぶされているようにも見えます。つまり、中国語版Wikiの2つの掲載地図は、かなり正確な状況を著しているものなのかも知れません。

 ところで、私としては、Wikiの紀元2年の地図の方が、当時政府がちゃんと把握していた領土、実情に即しているように思え、この地図は結構好きです。同じ理由で、Wiki掲載の秦朝の地図や、三国時代の地図も、一般的な地図では、塗りつぶしてある箇所が、ちゃんと隙間だらけになっているところが、リアルな感じがして好きです。

 ところで、中国版Wiki掲載中国歴史地図でちょっと興味を引かれるのは、明代の地図。我々が一般的に目にするものと同じような明代地図(1580年)なのですが、中国政府の公式見解では、この時代はチベットは領土になっているんですよね。谭其骧編公式歴史地図でも、後期明代地図(1582年)では、チベットはちゃんと明朝領として塗りつぶされています。中国版Wikiは、中国国内でも参照できるので、この辺が鷹揚というか、単に放置されているだけというか、まあこんな感じではありますね。

 最近のWikiの中国歴史地図では、ここでご紹介したような、単にベタで領域を塗りつぶすのではなく、実際の把握地域を正確に記そうという努力が見られる地図が増えてきて、この点は非常に嬉しい傾向だと思っています。最近は、宋朝のもできたようです(半年前には確か無かった。ただ高麗領がちょっと広すぎな気がしますが。。。)。そのうち唐朝や清朝もできるかも知れません。あと、西晋の行政区画地図というのも中国版Wikiに掲載されています。こちらも大変珍しい貴重な資料だと思います。
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by zae06141 | 2009-12-29 02:13 | その他歴史関係 | Comments(0)

書籍「ペルシア語が結んだ世界」

 最近面白い歴史書籍に続けて出会いました。「夢想の中のビザンティウム」、「ガラスの中の古代ローマ」、「古代仕事大全」、そして、本書「ペルシア語が結んだ世界」です。中国の歴史以外の書籍に飢えていたこともあり、古本が出るまで我慢できず、いづれも高額な書籍ながらジュンク堂書店の割引セールス(といっても5%だけだけど)にも嵌められたこともあって買ってしまいました。で、「ペルシア語が結んだ世界」がよみ終わり、「夢想の中のビザンティウム」も大体終わってきたところ。どちらも元はとれた感じがしています。「夢想の中のビザンティウム」は次回にして、今回は「ペルシア語が結んだ世界」の感想。

 もともと、17世紀のイスラーム世界は、安定した時代ということで興味を持っていたのですが、オルハン・パムク「わたしの名は紅」で、ティムール朝が身近な過去として描かれ、アクバル治下のインドが「同じ世界」とも感じられる描き方をされていたことで、単なる通史ではなく、よりミクロな視点で、この時代・地域を知ることができないだろうか、と思っていたところ、本書が出たので、早速読んでみました。

 非常に面白く、様々な知見を得ることができ、3000円はいい買い物だったように思えます。

 まず、近世イスラム世界でのペルシア語の位置づけについての認識を改めさせられました。
 オスマン朝・サファヴィー朝・ムガル朝でペルシア語が行政・文芸語だったのは知ってはいたものの、漠然と、ラテン語やサンスクリット語・古代漢語・シュメール語などが、口語としては死語となって以降も、学術分野や行政分野で古典文語として生き延びたのと同じで、近世イスラーム世界におけるペルシア語も同じようなものだったのではと思いこんでいました。行政で利用されていたので、近世におけるラテン語などとは違っていることはよく考えればわかることなのですが、なんとなくラテン語やシュメル語のようなものだとの思い込んでいたのでした。しかし、実際は近世の欧州各国の宮廷におけるフランス語などと同様に国際共通語としての流行であると認識が改まりました。

 更には、このペルシア語の流行は、古代ペルシア以来の歴史的イラン世界が直接影響しているものと思い込んでいて、この影響関係自体は誤りではなさそうなのですが、「歴史的イラン世界」についての認識の方が改めさせられることになりました。古代地中海世界や中華世界、インド世界と並ぶ、「大イラン圏」という認識は元々あったのですが、イラン世界の中心はあくまでパルティアやサーサーン朝だとの考えがあり、中央アジアは、イラン系言語を話すイラン系民族の地ではあっても、イラン世界の周辺だと軽視していました。中央アジアは、イラン本国に対して、「トゥーラーン」の地にあたり、中国本土に対する、匈奴と西域に相当する縁辺地帯なのではないか、との考えです。とはいえ、「ヴィースとラーミーン」などでは、パルティアの中心はメルブであり、また、近年の考古学上の成果からは、古代メルブが、メソポタミアに匹敵する程古くから開けた、かなりの先進地帯であったらしいことが推測されるようになってきているなど、なんとなく、イラン世界は、メソポタミアやファールス地方など南西部と、メルブを中心とするホラサーン地方と2つの中心があったのではないかと薄々感じてはいたのですが、本書を読んで(本書では古代については言及されていないものの)その印象は強まりました。ダリウス3世やヤズドギルド3世がメルブ方面へ逃亡したのも、西から攻められたから単に東へ逃亡した、というだけではなく、メルブ方面が、イラン世界のひとつの中心だったからではないのか、とさえ思ったりしています*1。750年のアッバース革命の中心地はホラサーンであり、アッバース朝のマームーンの拠点がメルブだったのも、辺境だから反乱を起こしやすかった、というだけではないような気がしてきました。アラブ征服後のペルシア文芸復興運動が、サーマーン朝下で発展したのも、以前は、中世初期の西欧におけるキリスト教文化の保存が、ブリテン島で行われたのと同様に、周辺地域で古い文化が保存される現象なのかもと思っていたのですが、これも事実は逆で、このあたりが古来から中心地だったからなのかも知れません。そう考えると、近世フランス語が欧州宮廷で流行し、フランスが近世欧州の文化的中心となった背景には、西欧の中でラテン語文化を保存した地域だった背景があったのと同様、サーマーン朝の領域が、ひとつの中心地帯だったからなのかも知れません。そう考えると、歴史的イラン世界と言える地域は、旧サーサーン朝の領域である所謂「イーラーン・ザミーン(イーラーン・ザーミーン)」と呼ばれる地域だけではなく、アム川の北、「トゥーラーン」をも含む地域なのかも知れません。

*1 ゾロアスター教の伝説では、ゾロアスターを保護したヒスタスペス王はバクトリアの王だったとの説があり、更に、シチリアのディオドロスの伝えるセミラミス伝説では、セミラミスが東方へ遠征し、バクトリアを支配したとの話もでてきます。こうした伝説も、当時のマルギアナ、バクトリアあたりがひとつの中心地帯だったことを伝えているのかも知れません。

 ところで、近代国民国家史観からすると、サファヴィー朝はイラン史、ムガル朝はインド史となり、セルジューク朝やチムール朝などは収まりが悪い感じがあったのですが、これについても、本書を読むうちに、「ペルシア語文化圏」と括ることですっきりするようになりました。チャガタイ汗国やイル汗国の領域は概ね、イラン世界=ペルシア語文化圏であって、チムール朝の征服行動は、旧モンゴル帝国を意識してアナトリアやロシア、インドへ遠征したとはいえ、王朝の領土は「ペルシア語文化圏」にだいたい一致しているように思えます。同時に、ムガル朝はインド史ではあっても「インド世界」とは思えなくなり、サファヴィー朝は「ペルシア語文化圏」の中心というわけではなく、一端に過ぎないと感じられるようにもなりました。

 このように、全時代を通じた、イラン世界の認識にまで影響を受ける結果となりました。私にとっては、これだけでも十分有用な書籍と言えるわけですが、本書には、他にも得がたい内容があります。

 最近は、通史的な、時代の縦軸を描いた書籍に飽き足りなくなってきて、特定の時代のみに注目した歴史書籍をよみたいと思うようになってきました。だいたい、概説史を読んだ後は、その時代の政治や経済・社会・文化史など、テーマを絞った書籍を読みたくなるわけですが(例えば漢代貨幣史とか明代経済史とか)、最近はこの段階も通り越して、更によりミクロな視点の記述を読みたいと思うようになってきています。典型例は、「万暦十五年」のような、時代の横軸を描いた書籍です。現在読んでいる「夢想の中のビザンティウム」も、「12世紀フランスの文学史」ではなく、「12世紀フランス文学を通して見た、当時の西欧人のビザンツ認識」に絞り、一見文学作品の製作年代の推論や紹介を行っているようでいて、全体としては、第四回十字軍によるコンスタンティノープル征服に至る西欧人の心性の探求となっていて、ミクロな視点から時代の横軸を描いた内容となっています。「ペルシア語が結んだ世界」でも、8人の論者が、異なった視点や素材を用いて10世紀から19世紀のペルシア語文化圏について論考を寄せていて、領域はアナトリア、クリミア半島、イラン、中央アジア、インド、中国に跨っており、時代の横軸を描いていると言える側面があります。本書の魅力と思えるのは、論者の専門分野や、残存資料の制約から来る偶然の産物なのかも知れませんが、論者が取り上げる素材やトピックが、地域毎に、詩人伝や法律文書、歴史書、トルコ語文学作品、知識人の著作などと異なっている点にもあるように思えます。歴史書についてはクリミア汗国、法律文書については、西トルキスタン、スーフィー文書についてはイランなど、それぞれのトピック毎に地域と時代が異なる為、「ペルシア語文化圏」の全体を扱った通史ではなく、特定の時代について、全部のトピックを網羅したわけでもない、いわば、「ペルシア語文化圏」の世界を斜めに横切ったような著作となっている点が、本書の魅力となっているように思えるのです。
 本書を通じて、、詩人伝の成立過程や法廷業務・知識人の教育課程・歴史書の歴史観など様々な、ミクロな切り口からこの歴史的世界の社会を一端伺い知ることができると同時に、他の地域や時代での同様な事柄はどうなっているのだろう、と、更に詳細な内容への関心を掻き立てられました。

 とまあ、久しぶりに記事を書いているので、結構な長文、しかもだらだらと冗長な文章となってしまいましたが、まだ書き足りないので、一部の内容を分割することにしました。イラン史やインド史、トルコ史などの枠組みではなく、「ペルシア語文化圏世界」という枠組みで、この時代の詳細を扱った書籍が、今後も増えて欲しいと思います。


 ところで、「ペルシア語が結んだ世界」の内容自体については、古代ペルシアに関する2つの知見を得ることができました。一つは近世ペルシア語圏の歴史認識。もうひとつはブズルグミフルに関する情報です。

「5章18世紀クリミアのオスマン語史書「諸情報の要諦」における歴史叙述」では、4冊の歴史書が紹介されています。

・バイダーウィー「歴史の秩序」(1275年)
 -アダム以降の諸預言者、古代ペルシアの諸王朝、イスラームのカリフトイマーム、アッバース朝(以下略)
・シャラフッディーン・アリー・ヤズディー(-1454年)「世界征服者の歴史」(1430年頃)
 -天地創造と預言者達、トルコとモンゴルの伝承、モンゴル帝国史、ティムールの祖先、ティムール伝
・ミールホーンド(-1498年)「清浄の楽園」
 -天地創造と諸預言者、古代ペルシアの諸王朝、ムハンマド、正統カリフ、ウマイヤ朝、アッバース朝(以下略)
・アブデュルガッサール(17世紀末-18世紀中頃)「諸情報の要諦」
 -ピーシュダーディー朝、カヤーニー朝、アレクサンドロスからサーサーン朝の間の諸王、サーサーン朝、周辺地域、ムハンマド、ウマイヤ朝、アッバース朝(以下略)

 以上の書籍中の古代ペルシアの部分は、フィルダウシーの「王書」をネタ本としているとのことですが近世ペルシア語圏においては、古代ペルシアが、「正統王朝」的に扱われていることがよくわかります。アブデュルガッサール「諸情報の要諦」は、最終的にモンゴル帝国とティムール朝を経由してオスマン朝の歴史に接続しているオスマン語書籍であるにも関わらず、トルコやモンゴルの創世神話ではなく、イスラームの創世神話(ユダヤ教の創世神話に古代ペルシアが接続している)となっている点に、この時代・地域の歴史認識が見て取れると言えそうです。

 一方、ブズルグミフルの伝記を読むのは、今や夢のひとつとなってしまっているのですが、ブズルグミフルとホスロー1世の問答が、ハムドゥッラー・ムスタウフィー(1281頃~1349年頃)の「選史」(1330年)の「賢者伝」、ブズルグミフルの項や、ハイダーウィー(が著者と推測される)の「精髄」(13世紀)に掲載されていて、アブデュルガッサールは、「諸情報の要諦」に「精髄」経由で、この問答を掲載しているとのことです。これはひょっとしたら、中世ペルシア語文献「ブズルグミフルの回想」ののとかも知れません。そうして、ひょっとしたら、「賢者伝」所収ということは、人生訓(ハンダルズ)ではなく、伝記かも知れません。アブデュルガッサールは英訳はでていなさそうなのですが、ハムドゥッラー・ムスタウフィーはどうなのでしょうか。調べてみる価値はありそうです。
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by zae06141 | 2009-11-28 23:59 | その他歴史関係 | Comments(0)

善く敗るる者は亡びず ~小説「鷺と雪」~

 「善く敗るる者は亡びず」

 いままであまり深く考えたことがなかったこの言葉が、最近心に響いています。
 きっかけは、北村薫の直木賞受賞作「鷺と雪」の中での引用。

 「鷺と雪」は、書籍としては「街の灯」「玻璃の天」から続く短編集3部作のシリーズものですが、この中の「玻璃の天」の第1話「幻の橋」と「鷺と雪」第3話「鷺と雪」の2箇所でこの故事成語が引用されています。当初「街の灯」を読んだ時は、昭和の東京の風景を、詩情に満ちた表現で再現したライトなミステリーという感覚で、主人公が少女であることから、「空飛ぶ馬」シリーズの昭和初期に舞台をとった焼き直し版という感触もあったので、「悪くないけど、直木賞を取るほどの作品だろうか」と思っていたのですが、「鷺と雪」まで読み終えてみると、「善く敗るる者は亡びず」というこの言葉が、戦前戦後の日本の興亡を的確に捉えた言葉だと思えるようになり、時間が経つにつれて、じわりと胸に迫ってくるようになりました。

 「善く敗るる者は亡びず」は、「漢書」の「刑法志」に登場する言葉で、「善く師する者は陳せず」「善く陳する者は戦わず」「善く戦う者は敗れず」に続く言葉で、これらの言葉は、「幻の橋」(文庫版p84)では以下のように解説されています。

 「うまく軍を動かす者なら、布陣せずにことを解決する。しかし、その才がなく敵と対峙することになっても、うまく陣を敷ければ、それだけでことを解決できる。さらに、その才がなく実践となっても、うまく戦えば負けない」

 ところが、「幻の橋」でも「鷺と雪」でも、「善く敗るる者は亡びず」については、特に解説がありません。そこで、「漢書」を取り出してきて、この含蓄ある言葉が一体どういう経緯で使われているのか、問題の箇所の前後を見てみました。すると、語源となった背景として語られている事件は、意外にしょぼい話であることがわかりました。春秋時代の楚の昭王(前515-489年)の時代、闔閭(前514-496年)王の元、急速に力をつけた辺境の国呉が、楚からの亡命者伍子胥に率いられて楚の都、郢を陥落させ、昭王が隋国に亡命し、その後、楚の家臣申包胥が秦に救援を求めにいき、秦公の庭で7日7晩救援を訴え続け、その忠誠心にうたれた秦公が出兵し、昭王は郢を回復することができた、という事件です。これが「善く敗るる者」なのかなぁ。単に敗北して亡命し、他国に救援を求めて、他国の力で回復しただけで、歴史上ありふれた出来事だし、特に含蓄ある内容の感じられる事件ではないじゃないの。と少々がっかりしてしまったのですが、しばらくしてくると、この言葉は、寧ろ、「鷺と雪」において、作者によって、この言葉が持つ本来の意味を付与されたと思えるようになってきました。

 この言葉が、日本を日中戦争へと向かわせた、いくつかあるターニングポイントの中の、おそらくもっとも重要であろう事件のひとつである226事件前夜に、その後の全てを予感させる言葉として、登場人物たちに語らせたこと、そうして、「亡びず」という言葉通り、戦後の日本が復興を遂げたという結果があること。「鷺と雪」終盤の記述をひとたび読んでしまうと、これ以上に、「善く敗るる者は亡びず」という言葉にさわしい使われ方、背景となった事件は無いのではないか、と思えるほど、絶妙な引用だと思えるようになってきました。

 「鷺と雪」は、終盤近くのこの言葉一発で、単なる軽目の時代劇短編連作を越えて、重厚な歴史作品に匹敵する程の「歴史作」となったように思え、この作品が直木賞受賞作であるのも納得できるようになりました。

 更には、最近の日本が戦後繁栄のピークを越え、衰退期に入ってきているのではないかとの議論もある昨今の日本人にとっては、「善く敗るる」という言葉は、「今後の衰退をどのように乗り越えるのか」という観点で、胸に迫るものがあるのではないでしょうか。負けが見えている戦い、衰退期の社会にとって、「善く敗るる」という言葉は、その後の具体的な希望が見えない段階においてこそ、力となる言葉なのではないかと思うのです。この意味では、この言葉がやたらと胸に響いているのも、昨今の私自身の状況にも重なるようにも思えるのです。40歳を越えて人生後半に入り、成功をしているとは言えない状況で残りの人生をどのように生きるのか、という点で、今の私には、「善く敗るる」という言葉は、重要なキーワードとなりつつある感じです。

 久々に味わい深い歴史小説に出会ったという点、現在の日本や、自分自身と重なる点、など、多くの点で、「鷺と雪」は、私にとって強い印象を残す作品となりました。
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by zae06141 | 2009-10-25 18:37 | その他歴史関係 | Comments(0)

オルハン・パムク「わたしの名は紅」と「薔薇の名前」

 配送代2200円も払って取り寄せた「わたしの名は紅」。漸くよみ終わりました。多くの書評が既にネット上にあるので、私の方であまり追加することは無いとかいいながら少しだけ。

 重厚な歴史ミステリーということで、「薔薇の名前」を連想しましたが、単に歴史ミステリーというだけではなく、思想的論理闘争が似ているように思えました。「薔薇の名前」では、中世的神の論理に対して、近代的論理がテーマのひとつでしたが(「薔薇の名前」はテーマが多過ぎと言えるほど深い小説なので、もちろんこの思想的対決はあくまで数あるテーマのひとつでしかありません)、「わたしの名は紅」も、イスラーム的論理と西洋近代論理の対決がテーマのひとつであるように思えました。

 もっとも、この点に関して、「わたしの名は紅」が、「薔薇の名前」と異なる点は、根源的な思想的対決ではなく、絵画に関する限定的な対立である点と、決定的な回答が出ない点にあるように思えました。
 「根源的な」と言っているのは、「薔薇の名前」において、近代論理が、中世的論理に打ち勝つのではなく、近代論理もまた、ひとつの「論理体系」(つまりは記号体系)であるに過ぎない、という、論理と記号体系というものの、底冷えのする結論点まで描き出してしまっている部分を指しています。舞台となった14世紀前半が、廃れ行く中世的論理と勃興しつつある近代論理の狭間の時代にあり、真理はどちらにあるわけでもなく、近代的論理もまた、ひとつの「論理体系(記号体系)」であることを、遂には主人公は知ってしまう。それゆえ、20世紀もまた、近代的論理の終焉の近き、狭間近き時代にある、ということを描き出していたものと思うわけです。

 「わたしの名は紅」においては、ここまで深い論議が行われているわけではなく(いや、ひょっとしたら行われているのかも知れないが、私には理解できなかっただけなのかも)、イスラームの画の論理、「画とは、神の視点で見たものを描くことである。そこに画家個人の視点は存在しない」ということと、「画家が見たままのものを描く」という、西洋画の論理の対決に、1000年間程イスラームに主に防戦ばかりだった西洋が、攻勢に出るようになった時代の趨勢が象徴されているだけの様に思えました。神の視点と個人の視点との相克や、絵師の内面の葛藤などは描かれても、神の論理と近代西洋論理との間の究極的な結論が描かれていない点が、「決定的な回答が出ていない点」であるように思えるわけです。とはいえ、だから「わたしの名は紅」が、「薔薇の名前」に及ばない、などと言っているわけでは無く、つまりは、この点が、「似ているようで、異なっている点」である、と思う点なのです。もっとも、「薔薇の名前」のごとく、神の論理も記号だなどと言ってしまうようなことがイスラーム社会で受け入れられる筈がなく、また、そのような小説を書いた作者が、有神論者でありうる、などという考え方も、誤解されるだけで、やはり今のイスラーム社会では受け入れられないでしょうから、この点を掘り下げて描くことは、できなかったものと思うのですが。。。。

 「薔薇の名前」を連想させた点についてはこの程度なのですが、当時の時代状況を描いた歴史小説と言う観点では、それが作者の視点ということではあっても、さまざまな示唆を受けることができました。

 西洋論理と神の視点との対立は、16世紀末に一時イスタンブールで盛り上がったものの、どちらも支配的勢力とはならず、沸騰しないまま煮え切らずにずるずると後退し、それが17、18世紀のオスマン朝の停滞に結びついてゆく、という、当時の時代状況を活写した点。

 また、細密画に関する文化史的側面など、日本語ではあまり情報が無いように思えるのですが、ヘラト派、タブリース派、イスファハーン派、そしてイスタンブール派など、さまざまな派が各地に勃興し、相互に影響を与え合っていた様子や、モンゴル時代の、中国からの影響などを実感することができました。最近この時代のインドの細密画についての手軽な解説書が出版されていますが(「インド細密画への招待 (PHP新書)」)、オスマン朝やサファヴィー朝の細密画や文化史についても、手軽な紹介・入門書が出て欲しいと思います。

 更に、歴史上は、非常に短い、挿話に過ぎないようにしか思えなかったチムール朝の時代が、意外なインパクトをもって16世紀のオスマン世界で認識されていた(かも知れない)、ということ。ひょっとしたら、当時のオスマン朝の人々にとってのチムール朝とは、現在の日本における江戸時代のごとき存在であって、その前のセルジュークやアッバース家、ブワイフ家の時代などは、足利以前、鎌倉とか平安時代のように感じられていたのかも。

 というように、フィクションではありながら、十分16世紀末のイスタンブールの世界にトリップさせてくれる作品でした。

 最後に1点。欧米で激賞される、非欧米圏の作家は、とかく、欧米の論理思考を身に着けた「欧米人」だったりするのですが、オルハン・パムク氏は、この点、どうなのでしょうか。中南米の作家などには、よくこうした分析がなされることが多いのですが、氏の場合はどのように分析されているのか興味があります。もっとも、そうした視点の記事は、ネット上に多く見つけることができるように思うのですが、もし、この観点で優れた論考をご存知の方がおられましたら、ご紹介していただけますと助かります。

 なお、前回紹介いたしましたが、この時代のオスマン朝、それも同じ細密画をテーマとした、「Cenneti Beklerken」という映画があります。最近アクバルの映画や、15世紀初頭ビザンツ映画を見たりと、この地域・時代関連の作品に接する機会が増えてきています。

2014年追記:
 本書が背景としている、16-17世紀頃のイスラームの書物や写本、細密画の歴史を扱った書籍『イスラーム書物の歴史』という書籍が2014年6月に出版されています。『わたしの名は紅』の背景である当時の書籍事情にご興味のある方にはヒットするかも知れません。
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by zae06141 | 2009-04-14 00:08 | その他歴史関係 | Comments(0)

人類史観まとめ

【1】「恩賞は、戦争に勝つより難しい」

 前回、1988年のNHK大河ドラマ「武田信玄」を再見して、特に得るものはなかった、と記載しまたが、1点だけありました。それは、戦勝後、重臣たちを前に信玄が語った台詞です。

 「恩賞は、戦争に勝つより難しい」

いやぁ、そうだよなぁあああ。と深く頷いてしまったのですが、このことは人事管理の重要なポイントであり、政治や統治の要なのではないかと、このところ思うようになっています。恩賞とは、言葉を変えれば、利益や資源を、功を挙げた者に配分することであり、社会システムとは、利益や資源の配分を、規則的に行う仕組みであり、政治とは、利害調整のツールだと思うのです(あたりまえか)。私の部署のたった十数名のチームでさえ、査定や昇進を巡って紛糾しているのですが、武田軍も、国家も、史上の帝国も、組織というもので、利益/資源分配を巡って起こっていることは、共通しているように思えるのです。

 最近の私のチームは神聖ローマ帝国のような感じ。私にとって歴史とは、現在社会の行く末を知る為の地図のようなものであって、戦国時代や三国志の武将のリーダーシップが、経営者の方々への参考材料として利用されるようなものとは違うと考えていて、あまり日常業務と歴史的薀蓄を重ねたことは無かったのですが、本日帰宅途中気づいてみると、そんな感じ。実は昨年9月に、「やっと戦力が整って、やりたいことができるようになった」と思ったのも束の間、確か翌日あたりに、当時のマネージャが異動願いを出していることが発覚し、「満月とは、欠け始めである」とはよく言うものだなぁ、と思ったものなのですが、その後後任に据えたリーダーも、1月またずして異動を願いで、更に同時期に、後任の昇進に不満を持っていたシニアメンバーも異動願い。更に玉突きのようにうひとりと、3ヶ月の間に4名もの異動・退職願いを出され、一気にチーム崩壊に瀕してしまったのでした。当然私のマネージ力も疑われて四苦八苦。今日こうして久々に職場のことがかけるのは、収束に確たる目処がついたということでもあるのですが、昨年の2チーム体制から、ずいぶん異なった情勢となっています。

 まず、最大勢力のグループから1チーム(3名)がスピンアウト。元のグループのリーダーは、職位としてはもっとも高いのですが、そのメンバーの1人は、ほぼ独り立ちできつつあり、独立勢力という感じ。リーダの直下は事実上2名となり、うち1名もあまり統制が取れているとは言えない感じ。もう片方のチームも、立て続けにリーダーが抜けたことから、現在公式のリーダーはいない状況で、「事実上のリーダ」がいる状況。鎌倉幕府の執権や室町幕府の管領というような感じ。彼の場合、公式にリーダーとするには、不足している部分が多過ぎ、一度もリーダー宣言しないまま、事実上のチームリーダー扱いをしているわけです。この点では、スピンアウトした3名チームのリーダーも同様で、「○○チーム」と読んでるくせに、彼らをリーダーとは一度も称していないのでした。「事実上の独立」みたいな感じになってます。そして唯一リーダーと公称されている人は、実権が及ぶ範囲が一人だけ、と一番小さい勢力圏となってしまっているのでした。更には、当初の第二チームの1人が、第一チームの担当業務をやっているなど、ますます神聖ローマな感じになってきています。

 チーム再編成の流動的な状況なので、無理に枠組みだけ作っても意味がない、ということでこのようにしているのですが、いまの情勢にはあっているような気がします。古い枠組みは有名無実化し、個々人が力を蓄えてくるのに合わせて(逆に駄目な人はこれまで同列だった人の下につく)再編する、という方針。この不況下の中、新規3名の採用もほぼ決まり、11月以降停滞していた事業プランもほぼ再建の目処が立ち、分裂状況も底を打った、という感触があります。久々に少し肩の荷がおりた気分です。

 ここ5ヶ月に及ぶ混乱は、私が来てからの昨年来の業務変動や、業務種類の増加、昨夏から秋にかけての急速な増員(毎月1名計4名)などにより、一部メンバーの実力と地位や業務との不一致、メンバー本人の自己認識と成果にずれが発生したことが根底にあると考えています。まさに、人口増加や生産性の向上や技術革新が社会変動を招く、という状況を身をもって体験することになった、という気もしています。
 
【2】 目的共同体(企業、ゲゼルシャフト、ノモス)と自然共同体(故郷、ゲマインシャフト、カオス)と

 人間の組織体は、ちいさな集団から巨大な集団まで利益/資源の配分を巡って常に諍いが起こっているわけですが、何故このようになってしまっているのかという点については、生物界から社会が分立した時点に求められるという見解があります。「人類は、ある日突然、生物界から離れ、社会を持っていることに気づいた」という話を学生時代の講義で聞いた覚えがあります。「生物」とは元来、個々の意識を持たない物理的存在であり、元来親からの誕生直後から、ひとりで自活ができるようなモノだったのが、幼形成熟(ネオテニー)などが進み、未熟なままで誕生し、一定期間親が「育てる」という「社会層」が介入するようになり、それが一層発達し、集団で子供を養育するようになり、ネオテニーと社会層の拡大が平行して行われ、ひいては、「個人の意識の誕生」を促した、という考え方です。意識が誕生し、ある日、「社会」というものの存在に気づいた、というわけです。同時に、他人は自分と違う考えを持つ、ということにも気づいた。この時点から、人類の利益/資源分配を巡る諍いが起こるようになったということなのでしょう。

 集団には、特定の目的に賛同する集まりである集団と、既存の、個人の意思とは無関係に成立している集団があります。社会学や哲学では、前者をゲゼルシャフトとか共同幻想、対自体、後者をゲマインシャフトとか、共同態、即自体、ノモスなど色々な用語で呼んだりするようですが、前者が意識して選択する共同体、後者が、生得的共同体、と考えれば、整理しやすいのではないかと思います。宗教団体、大学のサークル、ナチス党の支持者や企業に所属する人、納税し、選挙登録をして「参加」する合衆国などは前者、ドストエフスキーが理想とした中世キリスト教共同体や、アーリア神話による、ゲルマン民族の統合思想など、極端なナショナリズム、日本で生まれればそのまま戸籍と選挙権が得られ「日本人」となる日本人、大阪に住んでいるのだから阪神ファンという発想などは後者ということになります。

 前者の、目的を持った人々の集団では、利益分配での紛糾の占める割合は、後者の生得的集団よりも低いのではないかと考えていました。目的が明白なので、目標の達成に最も寄与した順番で利益分配すれば良いだけです。目標に不満があれば、集団を代わればよいわけです。これに対して、生得的集団では、国が気に入らなくても、移住する、という人は寧ろ多くはなく、生得的集団内で利害を調整せざるを得ない、よって、こういう集団を、一定方向へと纏め上げ為に、「一億中流幻想」とか、「全体主義」のような方法が利用されてきたのだと考えておりました。

 企業のような、本来その企業の仕事をやりたい人々の集まりである筈の集団では、目標が明白なので、その目標の達成にもっとも寄与した順番で利益分配すれば、問題が無い筈なのですが、何故にこんなに紛糾するのだろうか。というのが、このところの日々の疑問だったのですが、やはりこれは、中国オフィスが、「バック部門」だからなのかなぁ、と思うようになりました。日本で、顧客前線に出ていれば、売り上げが査定に直結するので、査定も簡単。放っておいても部下は顧客に叩かれるので、上司は部下を宥めていればよく、マネージャの仕事も、人事管理よりも、戦場で勝利する為の作戦と用兵に比重をおけるわけです。ところが、バック部門で、直接の顧客がいない場合、「技術力」「有益な資料作成数」などが査定基準となってくるのですが、売上のような、誰でも納得せざるを得ない「外部の基準」が無いために、部内で基準を作る、ということになり、その基準の妥当性を巡る、メンバー間での見解の相違が露呈することになるわけです。そうしてマネージャの業務の重心は、人事管理に移行していってしまう。組織体が大きくなる程、本来目的集団だった集団の内部に、生得的共同体が発生していくような気もします。

 そんなわけで、顧客相手のフロントに戻りたいとか、いっそのこと十名くらいの小企業にでも転職するか、などと考えたりするのですが、小企業というのは、上手くいけば、自由で高収入な集団でいられますが(若手への教育コストがかからないことが主な要因)、失敗すると、下請けという封建的階層社会の下層に位置することになってしまうので、甘い想定は禁物です。となると、今の勤め先でフロントに戻るのが現実的なのか、人生ここらで再度チャレンジすべきか、など、落ち着いてきたら落ち着いてきたで、色々と考えてしまうのでした。ともあれ、これでチーム事情が落ち着いてくれれば、秋口には帰国できそう(というより戻らされそう)な感じになってきました。とはいえ、このような内容を書く度にその後暗転したりしているので、今後もどうなることやら。



【3】間主観世界中に占める「客観」部分の減少と「少数者の客観」「個人主観世界」の拡大

 人事マネジメント書籍を見ると、「最近の若者は」という管理職のため息が必ず記載され、特に「叩き上げ」で管理職となった人々に対して、コーチングや教育重視の指南が多く見られる点が共通しているように思えます。「せっかく俺が成功してきた貴重なノウハウを教えてやっているのに。教えたとおりやればできるのに、何故できないんだ。何故やろうとしないんだ。これだから今の若者は」という嘆きに対して、「わからないのは教え方が下手なだけ」「過去の成功体験に基づく信念は、現状の理解の妨げにしかならない」などと、対策の指摘も共通しているように思えます。

 これらの現象に対しては、豊かというだけではなく、社会が多様化したことも大きな要因だと思うのです。私が大学を卒業した頃、「新人類」という言葉が流行し、高度経済成長期の大量消費の時代から、少量多品種の消費時代へと変化しつつある時でした。更にインターネットの発達で、いままで周囲では見つけづらかった、ニッチな商品や、ニッチな趣味仲間も簡単に見つけられ、多様なコミュニティが急拡大しているように思えます。インターネット空間は、間違いなくこうした社会のあり方を巨大な規模で推進しています。津村記久子の小説『ミュージック・ブレス・ユー』の主人公は、趣味が合う人を見つけて英語のブログまで読む主人公が登場していますが、まさにそんな時代です。つまり、「最近の若者は」という嘆きが指摘する現象の中には、人類の進化沿った方向に進んでいる要素も大きいのだ、と思うわけです。

 ネオテニー(幼形成熟)が、人類を、自然界から独立させ、「社会層」を生み、社会層は歴史とともに益々拡大している、という話を記載しましたが、その一方で人類は、「社会」に対する「個人的な領域」をも拡大する方向で進んでいるのだと思います。現象学的社会学などでは、社会とは、個々人の主観の交わりから生成される、社会構成員皆が同意・共有する「客観部分」の事だとしています(社会学で間主観と呼ぶ部分です)と。イメージにすると、下記の図(図A)のようになるのでしょうか。

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 この図のひとつの円が「個人」であり、全員の円が重なっている部分が、社会の構成員全員に認識されている社会制度や「現実」「客観」(間主観)部分でであり、一部重なり合っている部分が、「一部の人の間だけで意見の一致する部分」(これも間主観)、またく重ならない部分が、「個人の主観部分、睡眠中やドラッグなどで見る夢や幻想、日頃の妄想」というわけです。近代以前の中世の村落共同体や、現在でも南米やアフリカの部族共同体などには、強力な掟や神話・宗教・社会制度などに縛られている共同体がありますが、これは、上図のような、円の重なる部分の多い、個人的部分を極力少なく押さえ込んだ共同体と言えます。こうした村社会では、掟を破った構成員は、しばし村を追放されたり、処刑されたりして、円の重なる部分である、「客観的秩序」を脅かさないようにして維持されるわけです。中世の村落や南米アフリカ部族社会では、社会の規模は小さく、土地や自然の力に圧倒されていて、お互いに交流は制限されていることから、それぞれの村や部族独自の奇妙とも思える神話や制度が発達する傾向にあります。

 これに対して、多様な地域を統合した古代帝国や現代社会では、中世的小規模や村や部族は、巨大な帝国や、グローバリゼーションの中で交流することになり、抵抗がありながらも破壊され、混交の中に活力と新しい創造が生まれる傾向があります。多様な交流は、共通の価値感の領域を減らし、上の図Aから、下図(図B)のような、「個人の領域」の増大する社会に向かうことになります。人々の間での共通認識部分が相対的に減少した結果、一度社会秩序が崩れるとカオスを生みやすくなっています。端的に表現すれば、全体的にカオスの領分が増大しているのが人類社会と言えます。

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 古代や未開社会は、時としてとんでもない習俗が行われていたりします。13世紀フビライが滅ぼした雲南のある村では、旅人を食べる習慣があり、フビライはこれを知って奇異な悪習を無くす為に村を滅ぼしたそうですが、少なくとも村の中では、奇異でもなんでもなく、普通の社会制度だった筈です。人類学は、ポトラッチのような、近代西欧の論理では驚きをもって迎えられる習俗を明らかにしてきました。このように、広大な地域に点在した村や部族社会の習俗は、帝国やグローバリゼーションに含まれることにより、より巨大な円の共通部分を生み出すと同時に、1個人や、少数の嗜好を同じくする人々にしか共有できない価値観や常識へインスピレーションを与えることになります。例としてあまり良いとはいえませんが、同性愛者などは、図Aの社会では排斥されたかも知れませんが、図Bの社会では、「少数の人だけが重なる部分」が増大する為に、世間全員からは受け入れられなくても、分かり合えるもの同士、彼らだけの世界を見つけ(政治的主張から、趣味の仲間、同性愛者同士等々)、共同体を作ることも可能になってきます。現代では、前近代では世間から受け入れられなくても、「そういう人々がいる」ということは認知されるようになってきています。インターネットは、まさに少数者のコミュニティの増加に寄与しましたから、一昔前までは、誰とも重なる事の無い、まったくの個人の幻想のような妄想に終わっていたものでさえ、共有できる仲間を見つけることが出来るようになってきています。


【4】物理・生物学層の領域の縮小と個人の意識・社会の領域の拡大

 このように、世界は、図Aから図Bへと、少数者だけの価値感の世界や、個人的な妄想の領域の拡大へと向かっており、近年の猟奇的な犯罪の増加は、こうした個人主観世界の増大に起因するものが増えてきているのではないかと思うのです(もちろん全てがこのような理由とは言いません)。これは物理的な病気では無く、円の重なる「社会」部分の比重が低下し、個人の主観世界の比重が過度に増大することで起こることから、社会や心理の分野の問題であるように思えます。心理学や生理学の世界では、社会や個人の意識が生理層に影響し、ひいては物理的症状に影響を与える、という話があり、人類進化の初期段階では、生物層や生理層が、圧倒的に個人の意識を規定していたものが、段々と比重が逆転し、今では、個人の意識層・心理層が生理層に大きく影響するまでに発展してきたということなのでしょう。この考えを更に推し進めれば、人類の思考は、遂に核兵器を産み、核兵器のボタンを任かされた少数の指導者が物理的に世界を滅ぼすことも出来るまでになり、10万年前には、ほぼ100%物理層に囚われていた人類が、物理層を次々と克服し、地球を破壊・コントロールできるまでになってきた、ということにも表われています。図で表すと以下のようなイメージです。上記図Bは下図Cの右端の状況を、右端から少し左によった部分が図Aという位置づけです。数千年前は「環境決定論」に近い段階にあった人類は、「環境可能論」の段階へと発展してきているわけです。
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図3

 私には、個人の主観の多様化や社会の多様化は、人類の進歩と表裏一体であると思えます。「社会」の誕生は、一面硬い地面だったところに、泥が発生し、泥がどんどん拡大してやがて沼になり、沼の中で、さまざまな粘土細工が構築されてゆく、というイメージがあります。「沼」は「社会層」の増大であり、沼と硬い土の間の層は「生理層」、沼の中心は、「個人の心理層」があり、沼の中心に向かう程、泥の含む水分が多くなり流動的となり、不安定になることから、個人の意識を安定させる社会秩序というものが、より重要となってくるように思えるのです。全体主義とか管理社会は、こうした趨勢の中で比較的安易に「心理層-社会層」を安定させる解決策なのだと思うわけです。こうした、多様化した不安定な社会では、人々の利害を調整する政治は益々重要になり、島となった共同体を結びつけるビジネスや、異なった共同体を紹介し、取り持つビジネスのニーズは今後増すように思えます。

同時に、現代の子供の誕生から大人への成長発達のイメージは、上の図Cと非常に似ているので、色を変えるだけで作図できてしまいます(下図D)。図Cと図Dの細かい説明は後でします。取り敢えずここでは、色を変えるだけで作図出来るほど似ている、という点だけ印象付ける為掲載しています。
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図4

この、人類の進化と、子供の成長のアナロジーは 「現代の未開社会=現代の西洋の古代原始社会」とした近代西欧思想の図式化です。図Cと図Dを合わせたものが次の図Eです。
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図E

このヨーロッパ(民主主義)と東洋的専制(独裁)と未開社会(部族社会)を分ける世界観は19世紀のヘーゲルで完成していて、彼の『歴史哲学』を図式化すると以下のようなものになるのだと思います。
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図F

ヘーゲルは「歴史哲学講義」において、「幼年期」少年期」青年期」「成年期「老年期」という言葉を用いて世界各地域を説明し、子供の成長と歴史の発展、同時代の各地域を同じ構図で見るという、ヘーゲル以降多くの学問に無意識に採用される視点・思考・構図・構造をまとめあげました。彼の考えでは、人類が進歩する程「自由の領域の拡大」し、原始的本能の部分は「万人が万人に対する戦い」をするようなカオス(原始的混沌)にあり、自由の拡大の行き着く先は、理性(プラトンの定義したロゴス)の拡大であり、ロゴスがカオスを駆逐する、ということだったわけですが、実情は逆で、20世紀後半以降は、物理層が縮小し、個人の心理や社会層の増大はカオスの拡大となっているのが人類の歴史だと考えられています。現代思想におけるポスト構造主義といわれる書籍では、漠然とした「古き良き伝統社会」をノモス、近代化≒カオス化、カオスを防ぐためのイデオロギー(全体主義思想とか世界宗教など)をコスコスと呼びますが、それを先に登場した図と合わせて図式化すると以下の図のできあがりです。
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図G

近代社会となり個々人の自由が拡大した結果、価値観やライフスタイルが多様化したことは、図Gでは、同心円が重なる部分が減少し、個人の領域が増大し、しかしそういう個人も社会を追放される事無く生きて行けるように、「ノモス」における「客観」部分は縮小し、その外側にカオス(2つの赤点線の間のドーナツ部分)部分が広まることとなりました。図Fで未開社会=原始的混沌とされたカオスが、図Gでは、欧米となると巨大になり(第一次二次世界大戦などを起こしてしまう)、逆にカオスを無理に制御しようとしてヒトラーやスターリン、毛沢東のような全体主義社会を生んでしまう結果を招いています。

(2016年8月追記:最近のイスラーム世界の異常なテロにおいては、イスラーム世界の人々は、自分たちの宗教と社会が図Gの左上のような共同体であると思い込んでいるものの、ISに感化されたテロは、図G左下の二重赤線の間のカオスの部分の思想をそのまま内側の赤丸の枠内(客観世界)で実行してしまっている、という図式に見えます。近代的な高度な教育を受けている(図G左下の社会の住民)であるからこそ、(赤丸の枠内での社会=狭義の社会)から逸脱している行動が出てくるのだと思うわけです。高度な教育を受けている程、あるいは知能が高い程、個人の頭の中で精緻な理想世界を作り上げる、しかし図G左下図のように、「社会における個人の領域」が拡大しているがゆえに、他人に受け入れてもらうことが難しくなりついには他人に強制するか自殺(自爆)するしかなくなる、という、笠井潔が<セカイ系>と名付けた原理が、19世紀のロシアのテロリストや、20世紀後半の極左テロ、現在のISテロにも共通して見られるように思えます)。


【5】求められる秩序維持方法

近代欧米に限らず、中華もイスラーム圏もインドも、多かれ少なかれ社会は図Gの左図の上から下、同図右の左から右に向かって発展してきています。文明が高度化するほど、カオスを制御する「社会秩序」の道具が必要となるわけです。これを覆すことは容易ではありませんから、既存文明の歴史が長い社会程、英米流の近代化は、カオスを生むことになってきたのだといえます。フランス革命、ナチスドイツ、日本軍国主義、ソ連邦、毛沢東の中国など、英米から距離が出る程、英米流の近代化社会が定着にいたるまで大きな混乱や反動、秩序維持のための締め付け(全体主義化)などを経験することになったわけです。

 伝統的な歴史や文明とは、現在においては、秩序を維持する為のひとつの道具です。欧米圏はギリシア・ローマ秩序に範を求め、中国は中華帝国に、イスラーム圏はイスラームの教え、インドはヒンデゥー教というように。ところが、最近では人類史上かつてない急速な人口増大とインターネットによる情報の流通により、過去1万年に存在した人類の数よりも、この50年間に地球上に存在した人口の方が多くなる程になってきています。こうなると、いつまで、伝統的歴史社会の影響力で、今後の社会秩序を維持できるのかどうかが問われることになりそうです。歴史の比重は減少し、70億人の人類社会の中での横の情報のやり取りから、秩序が生成・変化する事象が増大するように思えます(社会主義が、インド・中国に入り込んだように、イスラームが拡大するように)。

 現在、人類は下記の3つの方向で社会が拡大しているのだと思うのです。

  人口の増大、(物理・生物層に対する)社会層と個人主観世界の拡大

最近グローバルヒストリー書籍が流行しています。

ウィリアム・マクニール『世界史』
フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』
ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』

などがベストセラーとなり、

グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』
ウォーラーステイン『近代世界システム』

なども売れています(ウォーラーステインは解説本が売れています)。

これらの書籍は、人類史の過去の全体像を振り返り、今後の指針を見出すという動機が強いように思えます。今後の指針には、「今後の秩序維持方法」も含まれている筈です。

何年か前にドストエフスキーの新訳がベストセラーになりましたが、私の中では、ドストエフスキーが『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』に登場する人物は、上記図Gに対応しています。

カラマーゾフ:
 ドミトリー  ロシア民族の伝統(ノモス)の体現者
 イワン    コスモス(西欧的論理)とカオスの分裂の体現者
 アリョーシャ キリスト教的ノモスの体現者
悪霊
 ピョートル・ベルホーベンスキー コスモスとカオスの分裂の体現者<セカイ系>
 スタブローギン         コスモスなきカオス体現者

近代西欧化(グローバリゼーション)により、伝統社会秩序が崩される社会では、どこの国でもドストエフスキーがヒットするような気がしています。ドストエフスキーはキリスト教による救いを目指しているようなところがあるので、これがネックとなるかも知れませんが、イスラーム世界でもドストエフスキーは人気が出てもおかしくはないのではないか?と思っています。

フランシス・フクヤマは、民主主義の勝利で歴史は終わる、と主張していましたが、人類の歴史は、今後も多少の反動は経ながらも、全体的には自由(=カオス)の領域が拡大し続け、それを制御する方法が模索され続けるのだろうと思う次第です。

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by zae06141 | 2009-02-25 01:33 | その他歴史関係 | Comments(0)