古代世界の午後雑記


「古代世界の午後」更新履歴と雑記
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カテゴリ:その他歴史関係( 62 )


書籍「海のかなたのローマ帝国/ローマ経済の考古学/渤海の歴史と文化/サウジアラビアを知るための65章」等

 この週末2日間、終日図書館にこもって色々読みました。朝開館直前に行って閉館まで1日11時間、しかもどういうわけか集中力が持続し続けるという私としては近来稀な出来事。幾つかについては書評をAmazonなどに記載したものもありますが、それ以外のものも多いので、書籍紹介も兼ねて簡単にフィードバックしたいと思います。といっても沢山目を通したので斜め読みが多く、一冊全部読んだものは少ないのですが。。

「海のかなたのローマ帝国」
 きっかけは先週「ローマ帝国 (〈1冊でわかる〉シリーズ) 」を読んだこと。本屋で南川高志氏が記載している解説を立ち読みし、少し興味は持っていたのですが、今更入門書的な書籍を買うまでもないと思っていたところ、蔵書数も少ない近所の町内図書館にあったので借りてきて読みました。啓発される視点が多く、特に「ローマの支配の地方への浸透ぶりの実際」と「英国のインド統治とローマ帝国」などが参考となりました。2003年に出版された時はローマ時代のブリタニアのなどという辺境を扱った「海のかなたのローマ帝国」の意義が理解できなかったのですが、「ローマ帝国 (〈1冊でわかる〉シリーズ」に啓発されて読んでみたところ、かなり有用でした。ギボンの「ローマ帝国衰亡史」が18世紀後半に登場し、インド赴任時代のチャーチルが愛読したなどの話や、熱心なローマ研究ぶりなど、英国は植民地時代の最初から、ローマ支配を参考にしていたものと思い込んでいたのですが、その先入観を覆されました。19世紀末までは、「衰亡史」も没落を主軸に捉えた反面教師のように受け取られていたのですね。それにしても南川氏の文章は上手いですね。たまたま私にとって相性が良いだけなのかも知れませんが、どうにも引きずり込まれてしまい、飛ばし読み、斜め読みができず、結局2/3を読まされることになりました。巻末で、今後はドイツ、フランスなどの地方支配の実態の研究に向かう、との記載がありましたが、今後の研究(の書籍化)が楽しみです。

・「ローマ経済の考古学

 431ページもある分厚い大著です。ローマ帝国各地の貨幣、農地、鉱山、採石場などの状況を丹念に分析した書籍です。読み物としては面白くはありませんが、資料としては非常に有用だと思いました。分厚いので斜め読みどころか、拾い読み、全ページ目を通しましたが、実際に読んだ分量は50ページ程ですが、参考になりました。紀元前後から250年の銀貨の銀含有率の変遷表は良く目にしますが、318-340年の資料ははじめて。コンスタンティヌスと内戦中のリキニウス支配時代の東方の銀貨の銀含有量が極度に低くなり、それが内戦の資金捻出の為、との分析は説得力がありました。しかし、この年代の銀含有量は3.5%以下というのも驚きです(2世紀までは70%以上、250年で40%程度)。また、英国、スペイン、シリアその他各地の田園地帯の遺跡を分析し、都市とヴィラと一般農民の分布の分析などは、当時の農地の景観を具体的にイメージすることができて有用でした。同じような分析が、各地のついて延々と繰り返し続くので、読み物としては飽きてしまうと思うのですが、南川氏が英国について書いている田園風景と似たような景観が帝国全土に広がっていたことが良くわかります。遺物の出土範囲から、地方のローカルな交易圏を分析する点などは、こうした話は、オリエントとインダス文明の交流など、異なった文明の交流などではよく目にする話ですが、ローマ帝国内のローカル経済という地味な分野でも地道に行われていることに少し感動しました。


・「渤海の歴史と文化
 後に続く後継国を持たず、蜃気楼に浮かぶ楼閣のごとく忽然と現れて消え去った渤海には幻想的なロマンを感じ、惹かれるものがあります。とはいえ渤海史は一応講談社の「渤海国」で概説に目を通しており、渤海史に限らず詳細な政治史にはあまり興味が無いので(ギボンのローマ帝国衰亡史やタキトゥスさえ一部しか読めていないのでした)、前半の歴史の部分は全て飛ばし、目を通したのは最後の章、朝鮮、日本、中国の史料一覧と解説、及び3国の渤海認識の歴史的変遷、及び3国とロシアを合わせた研究史と研究動向と文学・思想・絵画など文化関連の章だけ。中国と韓国の間で争点となっている論争の背景などに興味があったのと、最近は史料や研究史に興味が傾いてきていることもあり、最後の章はそんな私にはうってつけでした。

 それによると、韓国が渤海国を自国史に編入したのはナショナリズムが勃興した日本統治時代から戦後のことだと思っていたのですが、李氏朝鮮時代の著作の一部に、既にそうした見解が見られていたとは知りませんでした。新羅と渤海を南北時代と称するのも、近年のイデオロギーの産物ではなく、李氏時代の著作に既にあったのですね。また、史料一覧については非常に詳細で(というか、もともと史料が少なすぎなので、ニッチ史料まで紹介できるということなのでしょうが)、秋田県の多賀にある碑文まで紹介されているのには驚きました。中国の歴代史料にも、「旧唐書」系と「新唐書」系で見解が分かれている(前者は高句麗の別種説、後者は靺鞨説)のもへぇ~という感じ。

 中国の研究史や渤海認識についても、韓国の学者にしては冷静な記述がなされているように思えましたが、その次の日本の渤海認識の章を、本書の監訳者である濱田耕策氏が書いていることから、「この翻訳はかなり訳者が手を入れているのでは?」との疑念も出てきてしまいましたが。。。。(濱田氏のパートでは「渤海は日本に朝貢している、と当時の日本側は認識していた」という記載が出てくるのですが、韓国人がこういう文章を書くとは思えないのでした)。そういう疑念があるとはいえ、結果的にはあまり偏向色を感じない、冷静な学究書籍となっていると思えます。渤海史書籍としてはかなり有用なのではないかと思えました。それにしても、国王だけではなく、臣下や将軍までが唐から官位をもらっていたとなると、中国が自国内の地方政権と主張するのもわかる気もするのですが、近代以前の中国の冊封体制は近代的な概念では理解し難い独特の論理でできているので、渤海独立国論争は解釈に振り回されて永遠に続くのでしょうね。。。。

・「疾駆する草原の征服者―遼 西夏 金 元 中国の歴史
 読んだのは杉山正明氏の、契丹研究の為の中国取材旅行の章と東丹国の章だけ。歴史シリーズで著者のエッセイが長々と続くのは珍しいと思うのですが、面白かったです。気になったのは1点、宋代の人口について、「宋の優勢を印象づける為、単に史書の数字を3倍しただけの1億3千万という説は受け入れがたい。史書の通り4000万と考える」というのはどうかなぁ。前回の記事でも記載した通り、宋代の史書記載の人口に疑念があり、1億という推定値を出しているのはそれなりの根拠があってのことなので、そうした研究を無視するのは研究者としてどうなのかなぁ。この人の場合、中国中心史観を相対化したいのはわかるのですが、思い入れが強いあまり「戦争といっても余程の例外を除きモンゴルは戦わなかった」「モンゴルは負けることが多かった」(「遊牧民から見た世界史」p361)などと書いてしまう姿勢が気になります。政治家が「秘書がやった」、金正日が「拉致は部下が勝手にやった」などと言っても通用しないのと同じで、「2回目の元寇は高麗と南宋がやった」などとは誰も思わないと思うのですが。。。。「遊牧民から見た世界史」は著者の思想の普及を図ったアジ本なので構わないのですが、講談社の中国の歴史シリーズみたいな書籍でやるのは学者としての信用を損なうように思えます。見解を異にする人を説得できる客観的な主張をするのが学者の務めだと思うのですが、杉山氏の場合、シンパを増やすことにしかならない姿勢が見られるのが残念です。

・「サウジアラビアを知るための65章
 最近、イスラーム研究者や親イスラームの方々を「護教論者」と糾弾する人々がいる人を知りました。そういう方はアラブ研究者である池内恵などを絶賛しているようです。が、彼はあくまで「アラブ」の研究者であって、イスラーム全体の研究者では無い筈なのですが、反「護教論者」は池内恵をもって、イラン研究者(桜井啓子など)を糾弾しているのが不思議です。更に不思議なのは、反「護教論者」の一人にせっせとAmazonレビューを書いている方がおられ、イスラーム関連のレビューを全て拝見したところ、サウジアラビアだけは、批判していないことがわかりました。結局反「護教論者」って、親米派なのね。と思うとともに、私自身があまりサウジについて読んだことが無いことにも思い至り、今回何冊か目を通してみました。
 まず最初にわかったことは、「イランを知るための65章」では、55名の執筆人がおり、私の知る範囲で著名なイラン研究者は殆ど参加しているのに対し、「サウジアラビアを知るための65章」では池内氏が入っていない点。執筆者が11名と少ないので、池内氏も貴重な戦力だと思うのですが、なんで?派閥とか?本書は決してサウジ礼賛の書ではなく、マイナス面も多数記載しているので、池内氏の辛口記事を入れても問題ないように思えるのですが。。。池内氏の守備範囲はエジプト・シリア・ヨルダンという印象もあるのですが、ひょっとして彼はサウジについてはあまり知らないのではないか?と思えてしまいました。とりあえず本書は役に立ちましたが、生の生活情報が殆ど無いので、在住者の経験も知りたいと思い、次の2作を読んでみました。

・「恋するサウジ
・「不思議探検サウジアラビア
 読み始めるまでこの2作が同じ著者だとは思っていなかったのですが、何か違いがあるかも知れない、と思い、一応目を通しましたが、内容は殆ど同じ。ただ、後者は文章より読者の興味を引くような可愛いイラストが主体で、更に本書には本来DVDが付されていて、どうやら本書のメインはそちらにある模様。で、読んだ感想なのですが、富裕者向け観光ガイドという感じ。著者は「古い情報に誤解している方も多い」「70ヶ国を訪問したが、こんなに親切で安全は国は無い!」「アメリカをそのまま持ってきたようなショッピングモールがある。英語も良く通じる」「常識の違いは、ポイントを抑えることで楽める」と感動を熱く語っています。素直に感動した気持ちを伝えたいのだという気持ちはわかるのですが、サウジに恋するあまり、盲目になってしまっている、という感じ。あとがきで「テロが無い」とまで書くに至っては、こういう人が早稲田大学の客員教授だとはビックリです(外務省の海外安全ホームページのサウジアラビアのページに本書出版当時のテロ被害情報があります)。貧乏国を嫌悪する様子が見られるのも気分が悪くなりました。なんというか、北朝鮮で豊富な石油が出れば、北朝鮮もサウジアラビアみたいになれるんじゃないの。で、そこにアメリカンショッピングモールがあれば著者も礼賛するようになるんじゃないの。と思いましたね。まあ著者はサウジに招待されて視察するくらいだから、サウジの広報を勤めるのが仕事なのかも知れませんが、それにしても能天気すぎるのではないかと思います。と同時に、イランや中国を批判する人の意識も少しわかりました。イランや中国が好きな私も(決してムッラー体制や共産党を支持しているわけではないのですが)、きっと郡司さんと同じように見えているのでしょうね。

・「アルジェリアを知るための62章
 最近アルジェリア大使館の個人ビザ取得のページをネットで読んで、「アルジェリアも平和になり、開放的になったのか」と、最新情報に更新する為にざっと目を通しましたが、ジェトロの報告書みたいな内容でした。これじゃあ読者はアルジェリアに赴任する商社マンくらいしかいないんじゃないの、というくらいサウジアラビアよりも政治と経済に偏った内容。まあでも未だにテロ発生国のイメージがあったので、国内がだいぶ安定したことがわかっただけでも目を通した甲斐はありました。

・「スペイン・ポルトガル史 (新版 世界各国史)

 フィフリストの記事でも記載しましたが、最近12から15世紀のスペイン・ポルトガルと、12世紀のシチリアに興味を持ち出したので、レコンキスタ時代のイベリア半島経済、特に統計情報を知りたいと思い、その部分だけ目を通しましたが、殆ど通史だけ。16世紀に入ると人口や輸出入額などの数値が出てくるのですが、レコンキスタ時代はほぼ政治史だけ。まあ予想はしていましたが残念。

・「世界歴史大系 スペイン史〈1〉古代~近世
 こちらは2008年の出版であり、かつスペインのみを扱い、しかも2分冊であるにも関わらず、レコンキスタ時代の経済情報は「スペイン・ポルトガル史 」と同じような感じ。それ以外でも数値情報が少ないように思えました。

・「ポルトガル史
 こちらもレコンキスタ時代の経済情報は少ないのですが、単なる通史と期待していなかったところ、1527から32年に行われた全国人口調査の数値が掲載されているのは拾い物でした。各州とベスト13位までの都市人口表や、17世紀以降の英国との経済関係の数値情報などが掲載されていて有用でした。

ところで、スペイン関係の部分を記載していて、何故図書館に行ったのか思い出しました。そもそも、高山博氏の「中世地中海世界とシチリア王国」を借りに行ったのでした。先に図書館のホームページで在庫を確認してからいけばよかったのですが、以前置いてあった記憶がありでかけてみたところ、置いてなかったので、借りて直ぐ帰ってくる筈が、終日こもることになってしまったのでした。

・「イスラム世界は何故没落したか
 西欧の勃興時期に興味がでてくると、同時に、イスラームはいつ停滞・没落したのか?にも興味が出てきてしまうようです。本書にその辺を期待してみたのですが、基本的にオスマン朝をしか扱っておらず、しかも、基本的には「停滞をいつ意識したか」という点とその後の対応を扱っていて、停滞した時期やその理由などを知りたかったので、この点期待外れでしたが、天文計算や暦については緻密ではあったけれども、日常の時間や度量衡は指の大きさを基準にするなど「絶対尺度」が無かった点や、14世紀に既に機械時計が発明されていた西欧人にとっては、16世紀に既にイスラーム人の時間感覚がルーズに思えるなど、色々と参考になる情報が掲載されていて有用です。西欧がイスラーム文化に興味を持ち、言語を学習したり政治的にも常駐大使を派遣するなど多方面で興味を持ったのに対して、オスマン側では案件ごとにしか大使を派遣せず、しかもその大使も西欧の社会や文化に興味を持たないなど(西欧を見下していたから)、など、。まだ1/3程しか読んでいないのでちゃんとした書評はできないのですが、没落要因の一部は参考になりました。図書館から借りてきたので引き続き読み通したいと思っていますが、西欧を見下す思考は、西欧の発展に負けた理由ではあっても、停滞した理由では無いと思うので、停滞理由については他著にあたってみたいと思います。


 というわけで、各書数行程度のコメントで終わらそうと思って書き始めたのですが、えんえん大部な記事となってしまいました。最近仁木稔氏が、次回著作執筆の為の資料調査をブログにアップしていて、実のところ、それに触発されて、数行コメントを書こうと思ったのですが、誰も読みたくなくなるような長大なものになってしまいました。今後は控えることにしたいと思います。
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by zae06141 | 2010-06-29 00:43 | その他歴史関係 | Comments(10)

清代中期の役人洪亮吉の一人当たりを養う耕地面積論とアンガ・スマディソン推計の清代一人当たりGDP

 基礎的なデータであるにも関わらず、ネット上にあまり流通していないようなので「唐、宋、金、南宋、元代の年代別人口一覧表」作りました。ご興味のある方はこちらの表をご覧ください。これで、後漢と唐代から元代、明代以降の中国の人口変遷の概要を把握できるものと思います。日本版Wikiにも少し中国歴代人口変遷の表が記載されていますが、これらは史書記載の「口数」だけが記載されており、「実勢値」についての検討が省かれています。特に宋・南宋代については、史書記載の値はかなり問題のある値であることから、推計値も記載しました。それによると宋代、金・南宋代の人口は1億近く、明朝後期の数値に近いものとなり、宋代の繁栄を裏づける数値と言えそうです。宋・金代は、前漢・後漢、唐、明、清と異なり、農民反乱によるカタストロフィを迎えたわけでは無く、今回人口表作成にあたって引用した書籍の推定によれば、宋から金・南宋代に切り替わる時にも、大きな人口減少が無かったことから、お決まりの人口過剰によるカタストロフィは(王朝の衰退は人口過剰だけが原因ではないのは勿論ですが)無く、宋代の生産性向上や新規農地開拓などの要素の方が上回っていたのかも知れません。

 ところで、清代中期の役人、洪亮吉(1746年-1809年)によると、「一年一人の食糧を計るとおよそ四畝が必要となる。十人の家では四+畝が必要となる」と同時代人の証言(しかも身近な実例で実証し易い内容)があり、(洪亮吉の記述の原文はこちらの法政大学菊池道樹氏の論文から引用(p9-p10))、1766年(乾隆三十一年)ぐらいを境に一人当たり四畝を下回ったとのこと(こちらの中国語頁には、1766年には3.5畝で、既に正常な生活水準下回っている(而在乾隆三十一年(1766),全國人均土地約為3.5畝。已低於正常生活水平的標準)とあります)。1766年は、推計人口約2億8千万人くらいなので、清朝は結構なキャパがあったようです。明朝が、推定1億6千万を天井に人口減少となり、最後は農民反乱で滅んだことを思うと、清代前半は意外と生産性上昇があったのかも知れません(こちらの滋賀大学の石田與平氏の論文によると、1661年から1810年の間の人口増は2.7倍で耕地面積の増加は13%とあります)。なお、清代の四畝とは、約2456平米のようです(幻想山狂仙洞様のサイト、中国歴代度量衡換算表参照)。

 ついでながら、前漢末期の一人当たり耕地面積と比較してみると、前漢末期は人口5959万で82700万畝、1人あたり約13.9畝で、上記度量衡換算表によれば、6440平米となり、清朝の方が2.62倍の生産性となることになります。とはいえ、前漢末期の数字が、洪亮吉の言うよう、「必要な耕地面積」であるとは限らず、過剰な値なのか、余裕のある値なのかが不明なので、単純な比較はあまり意味の無いところですが。。。。(清朝末期の人口で比較したら同じくらいの生産性になってしまうかも知れません)。と、ここまで考えてきて思いあたったのですが、アンガス・マディソンが、紀元前後の世界の一人当たりのGDPの試算をしていて(こちらの氏のサイトに紀元1年から現在までのGDPをまとめたCSVファイルがあります)、紀元1年が450ドル、1820年が600ドルと、たったの約1.3倍のGDP向上となっています。私はこれをかなりうさんくさい値だと思っていたのですが、仮に1766年の一人当たりの生産力を四畝とし、その後の人口増大は1人当たりの収入低下を招いたとなると、1766年の2億8000万に対して1820年は3億8千万人ですから、約35.7%の人口増=約26%の収入低下となり、前漢代と比べて2.63倍の生産性があっても、1820年の実収入は、1.93倍程度に留まります。アンガスの出した1.3倍と比べて差はあるものの、それほど出鱈目な値ではなさそうな気がしてきました。一方で、ローマ帝国の550ドルが1820年の欧州で1200ドル程度(2.18倍)となっているのに比べると、1.3倍と1.93倍では大きく印象が異なります。1.93倍であれば、それほど欧州にひけをとらないことになりますね。。。。まあいづれにしても数字のお遊びに過ぎませんが。。。。

 ちなみに唐代の数字も計算してみました。「通典」(巻二田制下)で、天宝14年の戸数は891万戸、人口は5291万(とはいえ杜佑は別の箇所(「食貨」巻7の「歷代盛衰戶口」)にて、戸数を1350万戸と推定している。これに準じて人口を計算すると7695万人となる)、耕地面積は143000万畝、1人当たり、27.02畝、前傾「中国歴代度量衡換算表」では、唐代の1畝は580.326平方メートルであるから、1人当たり約15684平米となり、漢代の倍以上となってしまいます。これに対して、渡辺信一郎著「中國古代の財政と國家」p470では、一頃で50石の収穫があるとして、1430万頃で7億1500万石の収穫があるとしている(著者は1400万と数字を丸めて計算しているので、7億石と算出しているが、ここでは1430万を用いて再計算した)。また、1人当たり1日の必要量を0.2石とし、0.2*365*5291万=38624万石(ここでも著者は、360日、5300万と数字を丸めているので、365日と5291万を採用しました)、つまり、生活必要量は、生産量7億石の約54%となります。ということは、先に算出した15684平米の54%である8469平米が、1人当たりの必要耕地面積、ということになります。この数字でも、漢代の生産性よりも低いことになってしまいますが。。。。。
 そこで、杜佑が推定している戸数から算出した7695万人で計算してみることにします。すると、必要量は5億1673万石という数値が得られます。全生産量の72%が生活必要量ということになります。一方1人当たりの耕地面積は18.6畝。唐代の1畝で計算すると、1万794平米となります。この72%が一人当たりの必要耕地面積となるので、7772平米。つまり、漢代の6440平米を少々超えてしまう値(少し生産性が落ちた程度)となりますね。。。。、 、もっとも、漢代の場合は、「1人当たりの必要耕地面積」は不明ですし、唐代の、1万畝で50石の生産性の根拠も、渡辺氏の著書に出典の記載が無い為、あくまで参考以下、数字のお遊びにしかなりませんが。。。。。
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by zae06141 | 2010-06-25 23:58 | その他歴史関係 | Comments(0)

卑弥呼の発音はやはりピミコ?

昨夜のNHKの日本語に関する番組「みんなでニホンGO!」では、現在の日本語の「ハヒフヘホ」は、古代では「パピプペポ」であり、平安期になって「ファフィフフェフォ」となった、との話をやっていた。根拠は、言語学者の金田一京助だったか金田一春彦氏だったかが作成した、「万葉時代の発音で読む万葉集」「平安時代の発音で読む枕草子」の録音資料や、一般に、言語は辺境地帯ほど、古音が保存されるという学説により、現在の石垣島で、標準語でのハ行音がパ行音とされる単語が多い、など。「春過ぎて」で始まる持統天皇の短歌を「パル過ぎて」、「春はあけぼの」で始まる枕草子を「ファルはあけぼの」と音読する資料は興味深いものがありました。

 そこで思い出さされるのが、唐朝に亡命したサーサーン朝の最後の王ヤズダギルドの子、ペーローズが、唐書では、「卑路斯」と記載されている件。無論唐書が書かれた時代(五代、宋)と魏志倭人伝の書かれた3世紀後半とは開きがあり、ペーローズも、近世ペルシア語ではフィールーズと音価が変化しているので、卑弥呼も、フィミコであった可能性もあります。ひとつ共通しているのは、ペーローズからフィールーズへの、P音からPh/F音への変化が、推測される万葉時代から平安期日本語の変化と共通している点。

 卑弥呼の発音はがピミコ、或いはフィミコという説は従来からあるようですが、ペーローズの発音との共通点を考えると、やはりピミコかフィミコに近く、少なくとも「ヒミコ」ではなかったのではないかと思えてきてしまいます。

 とはいえ、唐代に成立した「魏書」で、ペルシアは「波斯」と書かれ、これはファールスの音写とされているが、「ファールス」は近世ペルシア語発音で、中世ペルシア語では「パールス」。唐代に成立した「魏書」が、「Ph/F」音の「ファ」で、五代・宋代に成立した唐書の方が、Ph/Fではなく、P音を使って、ペーローズを「卑」としていたというのは矛盾することになってしまうので、このあたり、どうなのでしょうね。

なお、youtubeに、源氏物語を当時の発音で読んでいる映像があがっています(朗読 源氏物語(Tale of Genji) 若紫1 平安朝日本語復元による試み)。
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by zae06141 | 2010-04-23 23:58 | その他歴史関係 | Comments(2)

国立国会図書館アジア情報室記事紹介:ブーラーク印刷所の歴史と各国図書館事情

 このところ千一夜物語や「カリーラとディムナ」などアラビア文学の情報を調べていたら、「カルカッタ版」、「ブーラーク版」などの言葉を目にするようになり、少し調べてみたところ、ブーラークとは19世紀初頭にカイロに開設された印刷所のことであり、それに関する有用な紹介記事が、国立国会図書館のサイトにありました。

 「アラビア文字活字印刷の普及とムハンマド・アリー時代のブーラーク印刷所」

 この記事によると、アラビア文字の印刷は西欧において開始され、それらがオスマン朝に輸入されたものの、イスラーム世界の印刷業の開始が遅れたのは、主に2つの理由とされています。
 
1.知識は師弟相伝の記憶によって伝えられるべきもの
2.欧州印刷の活字では、美しいアラビア文字の書体を表現できなかった

 さらに、髙松洋一氏の「オスマン朝における活版印刷の導入 - イブラヒム・ミュテフェッリカの印刷所開設(1727) を中心として」という論考では、「1485 年にはすでに、オスマン朝においてムスリムがアラビア文字によって印刷を行なうことは、勅令により禁じられていた」とされています。印刷本による知識の普及が近代西欧飛躍のもっとも重要な要因のひとつであることを考えると、このようなオスマン政府の措置は自らの可能性を閉ざしてしまったものとして非常に残念です。とはいえ、同論考によると、そのオスマン朝でも、欧州製作のアラビア文字の印刷本の輸入は行われており、イスタンブールでは、アラビア文字を利用しない、非ムスリムのトルコ語やペルシア語文献の印刷は行われていたそうですから、もう少しアラビア学芸最盛期の書籍の現存になどが行われていてもよさそうにも思えるのですが、そこまで裾野は広くなかったのでしょうね。

 一方、紙がサーサーン朝時代に中国から輸入されるようになり、紙の製造技術がアッバース朝時代に伝わったイスラーム世界に、同様に中国から印刷術が伝わらなかったのだろうかとの疑問があります。この点については、箕輪成男氏の「紙と羊皮紙・写本の社会史(p155)」に、エジプトのエルハイユムという場所で発見された、900-1350年頃に比定されるパピルスには、印刷されたアラビア文字が記載されているとのこと。同書でも、印刷術が広まらなかったのは、文字の美観にあるとされています。中国から伝わったかどうかは定かでは無いものの、アラビア学芸最盛期には印刷技術があったらしいことと、13世紀以降アラブの退潮とともに最盛期の学芸著作の多くが損失していったということを考えると、情報の流通をコントロールすることは秩序の安定に寄与することはあっても、文化の発展は遅滞もしくは退行してしまうものなのだ、と思わずにはいられません(そう考えると、現世界でネットを制御しようとしている発展中諸国家も、大局的には停滞しかもたらさないのではないかと思うのです)。

 さて、「アラビア文字活字印刷の普及とムハンマド・アリー時代のブーラーク印刷所」には、18世紀初頭ハンガリー出身のイブラヒム・ミュテフェッリカの印刷所作成活動や、ブーラーク印刷所成立の経緯、ブーラーク印刷所で印刷された書籍の分野・言語別分類などが掲載されていて有用です。

 また、この記事の掲載されている、国立国会図書館のアジア情報室というところが出している通報所収の記事は、単なる記事の概要紹介レベルを超えた情報量があり、非常に便利です。

 情報の流通に興味のある私としては、昨今のアジア各国図書館事情を調査した下記報告記は非常に興味深く参考になりました。

ベトナムの出版事情および統計にみる国外の著作動向: アジア情報室通報第2巻第2号

タイの出版界の状況について : アジア情報室通報第5巻第4号

インドネシアの出版、書店、図書館――出張報告 : アジア情報室通報第6巻第3号

エジプトとトルコの出版事情―出張報告 : アジア情報室通報第5巻第2号

カザフスタンの出版事情と図書館-出張報告:アジア情報室通報第6巻第4号

タイの出版、書店、図書館、日本関係機関―出張報告 : アジア情報室通報第6巻第2号

パキスタンの諸言語資源をめぐる現状と課題 : アジア情報室通報第4巻第4号

モンゴル国立中央図書館について: アジア情報室通報第2巻第3号

 アジア情報室の皆様にはこれからも有益なご活動と、サイトへの記事掲載のように、国民へのフィードバックを継続を期待したいと思います。
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by zae06141 | 2010-02-21 22:43 | その他歴史関係 | Comments(0)

1937年と1941年のGDPベスト15国

 アンガス・マディスン教授のExcel表を見ているうちに、戦前の日本の国力はどのような数値となっているのだろうか、と、興味が出てきてしまったので、少し調べてみました。ちょっと検索したところでは特にまとめてあるサイトは見つからなかった為、ここで紹介してみます(ここで言っているGDPとは、マディソン教授が考案した補正値ですので、ご注意ください)。なお、教授のシートは、植民地は含んでいないようなので、旧植民地についてデータがあるものについては、それを加算したものも記載します。

【1】.1937年のGDP(植民地別)

1.米国     832,469
2.ソ連     398,017
3.ドイツ    317,783
4.中国     296,043
5.英国     294,025
6.インド    250,768
7.フランス   188,125
8.日本     165,017
9.イタリア   142,954
10.インドネシア 78,485
11.ポーランド  58,980
12.アルゼンチン 55,650
13.カナダ    50,733
14.ブラジル   48,355
15.オランダ   46,716

【1】.1937年のGDP(植民地込み)

1.米国      854,688 (フィリピンを含む)
2.英国      551,464 (インド、マレーシアを含む)
3.ソ連      398,017
4.ドイツ     317,783
5.中国      296,043
6.日本      195,680 (韓国、台湾含む*1)
7.フランス    188,125 (アルジェリア、ヴェトナムなどのデータ無し)
8.イタリア    142,954 (リビアのデータ無し)
9.オランダ    125,201 (インドネシア含む)
10.ポーランド  58,980
11.アルゼンチン 55,650
12.カナダ    50,733
13.ブラジル   48,355
14.スペイン   45,272
15.チェコスロヴァキア 41,578

*1 教授のシートで「韓国」となっている部分の1937年のデータに、北朝鮮部分を含んでいるかどうかは不明。当時の日本の領土であり、資料が残っているので、北朝鮮部分についても調査は可能だと思うのですが、教授の過去GDP算出は、現在の「領土」ベースで記載していることが多いので、この部分はなんともいえないところです。

【2】1941のGDP(植民地別)

1.米国       1,098,921
2.ドイツ       401,174
3.英国        360,737
4.ソ連        333,656
5.インド       270,531
6.日本        212,594
7.イタリア      153,517
8.フランス      131,052
9.インドネシア    89,316
10.カナダ       71,508
11.アルゼンチン   61,986
12.ブラジル      54,981
13.スペイン      52,726
14.オーストラリア  48,271
15.メキシコ      40,851

*マディソン・シートでは、中国のデータが欠損しています。

【2】1941のGDP(植民地込み)

1.米国       1,098,921 (フィリッピンのデータ無し)
2.ドイツ        740,477 (フランス、ベルギー、オランダ、ギリシア含む。ユーゴはデータ無し)
3.英国         622,012 (インド、マレーシア含む)
4.ソ連         333,656
5.日本         287,416 (韓国、台湾含む、ヴェトナムのデータ無し)
6.イタリア       153,517 (リビアのデータ無し)
7.カナダ        71,508
8.アルゼンチン    61,986
9.ブラジル       54,981
10.スペイン      52,726
11.オーストラリア  48,271
12.メキシコ      40,851
13.スウェーデン   31,395
14.トルコ        27,158
15.スイス       26,851

 占領にはコストがかかる為、被占領国のGDPをそのまま加算することに意味があるのか、という議論もあるかと思いますが、まあ数字のお遊びですから、加算してみました。これを見ると、1941年当時のドイツが、イタリアとあわせると、英国とソ連相当くらいにはなるので、「米国の参戦さえなければ、いけそうだ」、と考えたのも納得できそうな値にはなります。1937年当時の日本も、中国相手だけなら、なんとかなる、と考えてしまう程度には、そこそこの数値となっています。しかし、米国があまりにも突出している為、米国が参戦した時点で終わったのは無理からぬところだと言えそうです。
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by zae06141 | 2010-01-03 09:29 | その他歴史関係 | Comments(3)

紀元前後と2008年の世界人口の内訳

 アンガス・マディソン教授の資料が、教授のサイトで公開されています。ここの資料をもとに、各時代の人口とGDPをまとめた「世界日本化計画」というサイトを見つけました。大変な労作で、非常に参考になります。こちらのURLに、一覧頁があります
 私の興味は、特に下記の4つの資料にあり、どれも興味深く参考になりました。

紀元1年世界全体の人口とGDP
紀元1年のローマ帝国の各地域の人口とGDP
紀元1000年の世界全体の人口とGDP

 しかし、古代イラン史に興味のある私としては、イラクの人口とGDPが低過ぎる点に納得できなかった為、マディソン教授の資料、Statistics on World Population, GDP and Per Capita GDP, 1-2006 AD (Last update: March 2009, horizontal file, copyright Angus Maddison) を参照してみたところ、そもそも教授の資料の数値におけるイラクの値に原因があることがわかりました。McCormick.Adams教授の南イラクの研究によると(こちらに以前まとめたパルティア・サーサーン朝時代に関する概要があります)、パルティア・サーサーン朝のイラクは、パルティア・サーサーン時代は大変繁栄していて、それが、サーサーン朝末期の混乱とイスラームの侵攻による破壊を経て、都市や集落の規模が、イスラーム初期には、サーサーン朝期の半分程度にまで落ちていることが明らかにされています。GDPも人口も、パルティア・サーサーン朝とイスラーム期では大きな相違があったことがわかるのですが、マディソン教授のデータでは、イラクの人口は、紀元1年に100万、紀元1000年に200万となっていてイランの紀元1年と1000年が400万、450万となっている点と比べると、非常に低い値に留まっています。ところで、湯浅赳男氏「文明の人口史―人類と環境との衝突、一万年史 」の5章第8節「イスラーム文明と人口」の章p118では、ラッセル氏の(「後期古代と中世の人口」)研究を引いて、7世紀のイスラーム期イラクの人口を910万と記載しています。7世紀のイスラーム期とは、既にサーサーン朝末期の混乱による農地荒廃と、イスラーム初期における、南イラクの一部地域が放棄された時期であり、イスラーム帝国の重心は、アラビアとシリアにあった時期です。バグダードの建設も8世紀後半。となると、サーサーン朝の繁栄のピーク期は、910万を上回る人口とGDPがあってもおかしくはないということになります。紀元前後のパルティア期でさえ、Adams氏の主張では初期イスラーム期を上回る値となっていることから、パルティア期にも900万前後の人口があったとしてもおかしくはないと言えそうです。

 ところで、湯浅氏の前掲書p124では、他の研究者の例も引いて、初期イスラーム期のイラク人口について、ベロッホ氏の600から800万、イサウィ氏の500から600万という数値を引いていて、いづれにしてもマディソン教授の掲載している紀元1年の100万、1000年の200万という値とは大きな幅があります。これら人口推定の根拠として、当時のエジプトの税収よりもイラクの税収の方が高く、そのエジプトの人口が400万から500万とされている為、イラクの人口が、各氏とも500万以上の値を示す結果となっているとのことです(ちなみにマディソン教授のデータでも、エジプトの紀元1年に450万、紀元1000年に500万となっていて、上記各氏の値とほぼ同じ値となっている)。

  というわけで、所詮は数字のお遊び、イラクに910万という数値を適用し、紀元1年の人口グラフを修正したものを作成しました。その他、グラフ作成時に加工したポイントには下記のものがあります。

・ローマ帝国の人口は、湯浅氏の著作に掲載されている、ベロッホ氏の数値5400万を採用(内訳はこちら)。マディソン氏の算出値だと、東方領土の数値に欠損が多いこともあり、掲載値だけを採用すると、4000万強にしかならないこともあり、領土全域について記載のある5400万を採用した。
・中央アジア・北アジアの人口は、「中国人口通史(4):東漢巻-中国人口通史叢書 袁延勝 著 人民出版社」記載の値、約635万を採用(こちらに数値をまとめた資料があります
・インドネシア以外の東アジアと、コーカサス・シリア、地中海東海岸の値が、マディソン・シートに記載が無い為、数値の記載のあるアジア諸国の値をアジア合計値から差し引いたものを、4等分し、1/4づつ東南アジアとパルティアに配分した。残りの1/2はローマ東方領土と中央アジア・北アジアに相当する為、こちらは、上記5400、635万に含まれているものとみなし、省いた。
・旧ソ連の値も、コーカサス、中央アジアに含まれる部分があるため、390万のうち100万を「その他欧州」に加算し、他は省いた。

 以上の加工の結果、紀元1の人口グラフは下記となりました。

a0094433_16562572.jpg


 ローマ帝国が22%、パルティア圏7%、インド31%、漢帝国29%となりました。
 更に、参考までに、マディソン教授のシートから2008年の人口割合のグラフも作成してみました。古代世界と比較しやすくする為、欧米圏、イスラーム圏の間は白い線を引きました。下記は、欧米圏25%、イスラーム圏12%、インド20%、中国20%となっています。

a0094433_16563332.jpg


なお、下記加工を行っています。
・インドの値は、バングラディッシュ、スリランカ、ネパールを含む
・中国は、香港・台湾を含む
・インドネシアとマレーシアは、東南アジアに含む

 結局、結論ありきの牽強付会な結果としかなっていないとはいえ、欧州とローマ、インド、パルティアとイスラーム、中国の割合は、それ程大きく変わっているわけではない、ということになっています。とへいえ、サハラ以南のアフリカと東南アジアの人口増加が非常に目立つ結果となっていることがよくわかりました。7世紀に、アラブが急激に世界史を動かしたように、アフリカや東南アジアが世界を動かす日がやってくるのかも知れません。
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by zae06141 | 2010-01-02 19:15 | その他歴史関係 | Comments(0)

東京の地下鉄路線図と漢代領域図って似てる感じがします(+少しまじめな中国歴史地図の話)。

 という、どうでもいい話題(後半は少しまともな話です)。

上が漢代(Wikipedia掲載)、下が東京地下鉄路線図。漢代地図は、ちょっと上下の縮尺を縮小していますが、そうすることで一層似てくるような気がします(特に大江戸線の路線が)。

a0094433_1133086.jpg

こちらのWikipedia掲載地図を加工しました

a0094433_114059.jpg


ところで、中国版Wikiの漢朝の項目を見ると、紀元前87年と紀元2年の漢代地図が2つ掲載されています。

紀元前87年の地図はこちら

紀元2年の地図はこちら

両者を見比べると、紀元2年の領域図では、あきらかに隙間が増え、領域が縮小していることがわかります。今資料を参照したわけではないのですが、福建省のあたりは、紀元87年当時には、武帝が内地移住政策をとったため、一部の居住者が残っていたものの、基本的には放棄されていた筈です(史記か漢書にそのような記載がある)。
 ところで、中国科学技術院が出している谭其骧編公式歴史地図によると、前漢は、後期の状況を記載したものと(具体的年号は書いていない)となっていて、こちらで参照することができます。これによると、当時の浙江省には、西部都尉とか、東部都尉、南部都尉などの役人の駐在所があり、現福建省を統括していた筈なので、前87年の地図が、福建省全土を覆っているのは、そのへんの事情を詳細に反映しているものなのかも知れません(更には、現福州のあたりに、治県という役所もありました(治県の遺跡情報はこちら)。

 一方、谭其骧編公式歴史地図の後漢代の地図(こちら)では、西部都尉、東部都尉、南部都尉は掲載されておらず、現福州に、東治、現温州に永寧が置かれており、Wikiの地図を拡大してみると、そのあたりも点として塗りつぶされているようにも見えます。つまり、中国語版Wikiの2つの掲載地図は、かなり正確な状況を著しているものなのかも知れません。

 ところで、私としては、Wikiの紀元2年の地図の方が、当時政府がちゃんと把握していた領土、実情に即しているように思え、この地図は結構好きです。同じ理由で、Wiki掲載の秦朝の地図や、三国時代の地図も、一般的な地図では、塗りつぶしてある箇所が、ちゃんと隙間だらけになっているところが、リアルな感じがして好きです。

 ところで、中国版Wiki掲載中国歴史地図でちょっと興味を引かれるのは、明代の地図。我々が一般的に目にするものと同じような明代地図(1580年)なのですが、中国政府の公式見解では、この時代はチベットは領土になっているんですよね。谭其骧編公式歴史地図でも、後期明代地図(1582年)では、チベットはちゃんと明朝領として塗りつぶされています。中国版Wikiは、中国国内でも参照できるので、この辺が鷹揚というか、単に放置されているだけというか、まあこんな感じではありますね。

 最近のWikiの中国歴史地図では、ここでご紹介したような、単にベタで領域を塗りつぶすのではなく、実際の把握地域を正確に記そうという努力が見られる地図が増えてきて、この点は非常に嬉しい傾向だと思っています。最近は、宋朝のもできたようです(半年前には確か無かった。ただ高麗領がちょっと広すぎな気がしますが。。。)。そのうち唐朝や清朝もできるかも知れません。あと、西晋の行政区画地図というのも中国版Wikiに掲載されています。こちらも大変珍しい貴重な資料だと思います。
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by zae06141 | 2009-12-29 02:13 | その他歴史関係 | Comments(0)

書籍「ペルシア語が結んだ世界」

 最近面白い歴史書籍に続けて出会いました。「夢想の中のビザンティウム」、「ガラスの中の古代ローマ」、「古代仕事大全」、そして、本書「ペルシア語が結んだ世界」です。中国の歴史以外の書籍に飢えていたこともあり、古本が出るまで我慢できず、いづれも高額な書籍ながらジュンク堂書店の割引セールス(といっても5%だけだけど)にも嵌められたこともあって買ってしまいました。で、「ペルシア語が結んだ世界」がよみ終わり、「夢想の中のビザンティウム」も大体終わってきたところ。どちらも元はとれた感じがしています。「夢想の中のビザンティウム」は次回にして、今回は「ペルシア語が結んだ世界」の感想。

 もともと、17世紀のイスラーム世界は、安定した時代ということで興味を持っていたのですが、オルハン・パムク「わたしの名は紅」で、ティムール朝が身近な過去として描かれ、アクバル治下のインドが「同じ世界」とも感じられる描き方をされていたことで、単なる通史ではなく、よりミクロな視点で、この時代・地域を知ることができないだろうか、と思っていたところ、本書が出たので、早速読んでみました。

 非常に面白く、様々な知見を得ることができ、3000円はいい買い物だったように思えます。

 まず、近世イスラム世界でのペルシア語の位置づけについての認識を改めさせられました。
 オスマン朝・サファヴィー朝・ムガル朝でペルシア語が行政・文芸語だったのは知ってはいたものの、漠然と、ラテン語やサンスクリット語・古代漢語・シュメール語などが、口語としては死語となって以降も、学術分野や行政分野で古典文語として生き延びたのと同じで、近世イスラーム世界におけるペルシア語も同じようなものだったのではと思いこんでいました。行政で利用されていたので、近世におけるラテン語などとは違っていることはよく考えればわかることなのですが、なんとなくラテン語やシュメル語のようなものだとの思い込んでいたのでした。しかし、実際は近世の欧州各国の宮廷におけるフランス語などと同様に国際共通語としての流行であると認識が改まりました。

 更には、このペルシア語の流行は、古代ペルシア以来の歴史的イラン世界が直接影響しているものと思い込んでいて、この影響関係自体は誤りではなさそうなのですが、「歴史的イラン世界」についての認識の方が改めさせられることになりました。古代地中海世界や中華世界、インド世界と並ぶ、「大イラン圏」という認識は元々あったのですが、イラン世界の中心はあくまでパルティアやサーサーン朝だとの考えがあり、中央アジアは、イラン系言語を話すイラン系民族の地ではあっても、イラン世界の周辺だと軽視していました。中央アジアは、イラン本国に対して、「トゥーラーン」の地にあたり、中国本土に対する、匈奴と西域に相当する縁辺地帯なのではないか、との考えです。とはいえ、「ヴィースとラーミーン」などでは、パルティアの中心はメルブであり、また、近年の考古学上の成果からは、古代メルブが、メソポタミアに匹敵する程古くから開けた、かなりの先進地帯であったらしいことが推測されるようになってきているなど、なんとなく、イラン世界は、メソポタミアやファールス地方など南西部と、メルブを中心とするホラサーン地方と2つの中心があったのではないかと薄々感じてはいたのですが、本書を読んで(本書では古代については言及されていないものの)その印象は強まりました。ダリウス3世やヤズドギルド3世がメルブ方面へ逃亡したのも、西から攻められたから単に東へ逃亡した、というだけではなく、メルブ方面が、イラン世界のひとつの中心だったからではないのか、とさえ思ったりしています*1。750年のアッバース革命の中心地はホラサーンであり、アッバース朝のマームーンの拠点がメルブだったのも、辺境だから反乱を起こしやすかった、というだけではないような気がしてきました。アラブ征服後のペルシア文芸復興運動が、サーマーン朝下で発展したのも、以前は、中世初期の西欧におけるキリスト教文化の保存が、ブリテン島で行われたのと同様に、周辺地域で古い文化が保存される現象なのかもと思っていたのですが、これも事実は逆で、このあたりが古来から中心地だったからなのかも知れません。そう考えると、近世フランス語が欧州宮廷で流行し、フランスが近世欧州の文化的中心となった背景には、西欧の中でラテン語文化を保存した地域だった背景があったのと同様、サーマーン朝の領域が、ひとつの中心地帯だったからなのかも知れません。そう考えると、歴史的イラン世界と言える地域は、旧サーサーン朝の領域である所謂「イーラーン・ザミーン(イーラーン・ザーミーン)」と呼ばれる地域だけではなく、アム川の北、「トゥーラーン」をも含む地域なのかも知れません。

*1 ゾロアスター教の伝説では、ゾロアスターを保護したヒスタスペス王はバクトリアの王だったとの説があり、更に、シチリアのディオドロスの伝えるセミラミス伝説では、セミラミスが東方へ遠征し、バクトリアを支配したとの話もでてきます。こうした伝説も、当時のマルギアナ、バクトリアあたりがひとつの中心地帯だったことを伝えているのかも知れません。

 ところで、近代国民国家史観からすると、サファヴィー朝はイラン史、ムガル朝はインド史となり、セルジューク朝やチムール朝などは収まりが悪い感じがあったのですが、これについても、本書を読むうちに、「ペルシア語文化圏」と括ることですっきりするようになりました。チャガタイ汗国やイル汗国の領域は概ね、イラン世界=ペルシア語文化圏であって、チムール朝の征服行動は、旧モンゴル帝国を意識してアナトリアやロシア、インドへ遠征したとはいえ、王朝の領土は「ペルシア語文化圏」にだいたい一致しているように思えます。同時に、ムガル朝はインド史ではあっても「インド世界」とは思えなくなり、サファヴィー朝は「ペルシア語文化圏」の中心というわけではなく、一端に過ぎないと感じられるようにもなりました。

 このように、全時代を通じた、イラン世界の認識にまで影響を受ける結果となりました。私にとっては、これだけでも十分有用な書籍と言えるわけですが、本書には、他にも得がたい内容があります。

 最近は、通史的な、時代の縦軸を描いた書籍に飽き足りなくなってきて、特定の時代のみに注目した歴史書籍をよみたいと思うようになってきました。だいたい、概説史を読んだ後は、その時代の政治や経済・社会・文化史など、テーマを絞った書籍を読みたくなるわけですが(例えば漢代貨幣史とか明代経済史とか)、最近はこの段階も通り越して、更によりミクロな視点の記述を読みたいと思うようになってきています。典型例は、「万暦十五年」のような、時代の横軸を描いた書籍です。現在読んでいる「夢想の中のビザンティウム」も、「12世紀フランスの文学史」ではなく、「12世紀フランス文学を通して見た、当時の西欧人のビザンツ認識」に絞り、一見文学作品の製作年代の推論や紹介を行っているようでいて、全体としては、第四回十字軍によるコンスタンティノープル征服に至る西欧人の心性の探求となっていて、ミクロな視点から時代の横軸を描いた内容となっています。「ペルシア語が結んだ世界」でも、8人の論者が、異なった視点や素材を用いて10世紀から19世紀のペルシア語文化圏について論考を寄せていて、領域はアナトリア、クリミア半島、イラン、中央アジア、インド、中国に跨っており、時代の横軸を描いていると言える側面があります。本書の魅力と思えるのは、論者の専門分野や、残存資料の制約から来る偶然の産物なのかも知れませんが、論者が取り上げる素材やトピックが、地域毎に、詩人伝や法律文書、歴史書、トルコ語文学作品、知識人の著作などと異なっている点にもあるように思えます。歴史書についてはクリミア汗国、法律文書については、西トルキスタン、スーフィー文書についてはイランなど、それぞれのトピック毎に地域と時代が異なる為、「ペルシア語文化圏」の全体を扱った通史ではなく、特定の時代について、全部のトピックを網羅したわけでもない、いわば、「ペルシア語文化圏」の世界を斜めに横切ったような著作となっている点が、本書の魅力となっているように思えるのです。
 本書を通じて、、詩人伝の成立過程や法廷業務・知識人の教育課程・歴史書の歴史観など様々な、ミクロな切り口からこの歴史的世界の社会を一端伺い知ることができると同時に、他の地域や時代での同様な事柄はどうなっているのだろう、と、更に詳細な内容への関心を掻き立てられました。

 とまあ、久しぶりに記事を書いているので、結構な長文、しかもだらだらと冗長な文章となってしまいましたが、まだ書き足りないので、一部の内容を分割することにしました。イラン史やインド史、トルコ史などの枠組みではなく、「ペルシア語文化圏世界」という枠組みで、この時代の詳細を扱った書籍が、今後も増えて欲しいと思います。


 ところで、「ペルシア語が結んだ世界」の内容自体については、古代ペルシアに関する2つの知見を得ることができました。一つは近世ペルシア語圏の歴史認識。もうひとつはブズルグミフルに関する情報です。

「5章18世紀クリミアのオスマン語史書「諸情報の要諦」における歴史叙述」では、4冊の歴史書が紹介されています。

・バイダーウィー「歴史の秩序」(1275年)
 -アダム以降の諸預言者、古代ペルシアの諸王朝、イスラームのカリフトイマーム、アッバース朝(以下略)
・シャラフッディーン・アリー・ヤズディー(-1454年)「世界征服者の歴史」(1430年頃)
 -天地創造と預言者達、トルコとモンゴルの伝承、モンゴル帝国史、ティムールの祖先、ティムール伝
・ミールホーンド(-1498年)「清浄の楽園」
 -天地創造と諸預言者、古代ペルシアの諸王朝、ムハンマド、正統カリフ、ウマイヤ朝、アッバース朝(以下略)
・アブデュルガッサール(17世紀末-18世紀中頃)「諸情報の要諦」
 -ピーシュダーディー朝、カヤーニー朝、アレクサンドロスからサーサーン朝の間の諸王、サーサーン朝、周辺地域、ムハンマド、ウマイヤ朝、アッバース朝(以下略)

 以上の書籍中の古代ペルシアの部分は、フィルダウシーの「王書」をネタ本としているとのことですが近世ペルシア語圏においては、古代ペルシアが、「正統王朝」的に扱われていることがよくわかります。アブデュルガッサール「諸情報の要諦」は、最終的にモンゴル帝国とティムール朝を経由してオスマン朝の歴史に接続しているオスマン語書籍であるにも関わらず、トルコやモンゴルの創世神話ではなく、イスラームの創世神話(ユダヤ教の創世神話に古代ペルシアが接続している)となっている点に、この時代・地域の歴史認識が見て取れると言えそうです。

 一方、ブズルグミフルの伝記を読むのは、今や夢のひとつとなってしまっているのですが、ブズルグミフルとホスロー1世の問答が、ハムドゥッラー・ムスタウフィー(1281頃~1349年頃)の「選史」(1330年)の「賢者伝」、ブズルグミフルの項や、ハイダーウィー(が著者と推測される)の「精髄」(13世紀)に掲載されていて、アブデュルガッサールは、「諸情報の要諦」に「精髄」経由で、この問答を掲載しているとのことです。これはひょっとしたら、中世ペルシア語文献「ブズルグミフルの回想」ののとかも知れません。そうして、ひょっとしたら、「賢者伝」所収ということは、人生訓(ハンダルズ)ではなく、伝記かも知れません。アブデュルガッサールは英訳はでていなさそうなのですが、ハムドゥッラー・ムスタウフィーはどうなのでしょうか。調べてみる価値はありそうです。
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by zae06141 | 2009-11-28 23:59 | その他歴史関係 | Comments(0)

善く敗るる者は亡びず ~小説「鷺と雪」~

 「善く敗るる者は亡びず」

 いままであまり深く考えたことがなかったこの言葉が、最近心に響いています。
 きっかけは、北村薫の直木賞受賞作「鷺と雪」の中での引用。

 「鷺と雪」は、書籍としては「街の灯」「玻璃の天」から続く短編集3部作のシリーズものですが、この中の「玻璃の天」の第1話「幻の橋」と「鷺と雪」第3話「鷺と雪」の2箇所でこの故事成語が引用されています。当初「街の灯」を読んだ時は、昭和の東京の風景を、詩情に満ちた表現で再現したライトなミステリーという感覚で、主人公が少女であることから、「空飛ぶ馬」シリーズの昭和初期に舞台をとった焼き直し版という感触もあったので、「悪くないけど、直木賞を取るほどの作品だろうか」と思っていたのですが、「鷺と雪」まで読み終えてみると、「善く敗るる者は亡びず」というこの言葉が、戦前戦後の日本の興亡を的確に捉えた言葉だと思えるようになり、時間が経つにつれて、じわりと胸に迫ってくるようになりました。

 「善く敗るる者は亡びず」は、「漢書」の「刑法志」に登場する言葉で、「善く師する者は陳せず」「善く陳する者は戦わず」「善く戦う者は敗れず」に続く言葉で、これらの言葉は、「幻の橋」(文庫版p84)では以下のように解説されています。

 「うまく軍を動かす者なら、布陣せずにことを解決する。しかし、その才がなく敵と対峙することになっても、うまく陣を敷ければ、それだけでことを解決できる。さらに、その才がなく実践となっても、うまく戦えば負けない」

 ところが、「幻の橋」でも「鷺と雪」でも、「善く敗るる者は亡びず」については、特に解説がありません。そこで、「漢書」を取り出してきて、この含蓄ある言葉が一体どういう経緯で使われているのか、問題の箇所の前後を見てみました。すると、語源となった背景として語られている事件は、意外にしょぼい話であることがわかりました。春秋時代の楚の昭王(前515-489年)の時代、闔閭(前514-496年)王の元、急速に力をつけた辺境の国呉が、楚からの亡命者伍子胥に率いられて楚の都、郢を陥落させ、昭王が隋国に亡命し、その後、楚の家臣申包胥が秦に救援を求めにいき、秦公の庭で7日7晩救援を訴え続け、その忠誠心にうたれた秦公が出兵し、昭王は郢を回復することができた、という事件です。これが「善く敗るる者」なのかなぁ。単に敗北して亡命し、他国に救援を求めて、他国の力で回復しただけで、歴史上ありふれた出来事だし、特に含蓄ある内容の感じられる事件ではないじゃないの。と少々がっかりしてしまったのですが、しばらくしてくると、この言葉は、寧ろ、「鷺と雪」において、作者によって、この言葉が持つ本来の意味を付与されたと思えるようになってきました。

 この言葉が、日本を日中戦争へと向かわせた、いくつかあるターニングポイントの中の、おそらくもっとも重要であろう事件のひとつである226事件前夜に、その後の全てを予感させる言葉として、登場人物たちに語らせたこと、そうして、「亡びず」という言葉通り、戦後の日本が復興を遂げたという結果があること。「鷺と雪」終盤の記述をひとたび読んでしまうと、これ以上に、「善く敗るる者は亡びず」という言葉にさわしい使われ方、背景となった事件は無いのではないか、と思えるほど、絶妙な引用だと思えるようになってきました。

 「鷺と雪」は、終盤近くのこの言葉一発で、単なる軽目の時代劇短編連作を越えて、重厚な歴史作品に匹敵する程の「歴史作」となったように思え、この作品が直木賞受賞作であるのも納得できるようになりました。

 更には、最近の日本が戦後繁栄のピークを越え、衰退期に入ってきているのではないかとの議論もある昨今の日本人にとっては、「善く敗るる」という言葉は、「今後の衰退をどのように乗り越えるのか」という観点で、胸に迫るものがあるのではないでしょうか。負けが見えている戦い、衰退期の社会にとって、「善く敗るる」という言葉は、その後の具体的な希望が見えない段階においてこそ、力となる言葉なのではないかと思うのです。この意味では、この言葉がやたらと胸に響いているのも、昨今の私自身の状況にも重なるようにも思えるのです。40歳を越えて人生後半に入り、成功をしているとは言えない状況で残りの人生をどのように生きるのか、という点で、今の私には、「善く敗るる」という言葉は、重要なキーワードとなりつつある感じです。

 久々に味わい深い歴史小説に出会ったという点、現在の日本や、自分自身と重なる点、など、多くの点で、「鷺と雪」は、私にとって強い印象を残す作品となりました。
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by zae06141 | 2009-10-25 18:37 | その他歴史関係 | Comments(0)

オルハン・パムク「わたしの名は紅」と「薔薇の名前」

 配送代2200円も払って取り寄せた「わたしの名は紅」。漸くよみ終わりました。多くの書評が既にネット上にあるので、私の方であまり追加することは無いとかいいながら少しだけ。

 重厚な歴史ミステリーということで、「薔薇の名前」を連想しましたが、単に歴史ミステリーというだけではなく、思想的論理闘争が似ているように思えました。「薔薇の名前」では、中世的神の論理に対して、近代的論理がテーマのひとつでしたが(「薔薇の名前」はテーマが多過ぎと言えるほど深い小説なので、もちろんこの思想的対決はあくまで数あるテーマのひとつでしかありません)、「わたしの名は紅」も、イスラーム的論理と西洋近代論理の対決がテーマのひとつであるように思えました。

 もっとも、この点に関して、「わたしの名は紅」が、「薔薇の名前」と異なる点は、根源的な思想的対決ではなく、絵画に関する限定的な対立である点と、決定的な回答が出ない点にあるように思えました。
 「根源的な」と言っているのは、「薔薇の名前」において、近代論理が、中世的論理に打ち勝つのではなく、近代論理もまた、ひとつの「論理体系」(つまりは記号体系)であるに過ぎない、という、論理と記号体系というものの、底冷えのする結論点まで描き出してしまっている部分を指しています。舞台となった14世紀前半が、廃れ行く中世的論理と勃興しつつある近代論理の狭間の時代にあり、真理はどちらにあるわけでもなく、近代的論理もまた、ひとつの「論理体系(記号体系)」であることを、遂には主人公は知ってしまう。それゆえ、20世紀もまた、近代的論理の終焉の近き、狭間近き時代にある、ということを描き出していたものと思うわけです。

 「わたしの名は紅」においては、ここまで深い論議が行われているわけではなく(いや、ひょっとしたら行われているのかも知れないが、私には理解できなかっただけなのかも)、イスラームの画の論理、「画とは、神の視点で見たものを描くことである。そこに画家個人の視点は存在しない」ということと、「画家が見たままのものを描く」という、西洋画の論理の対決に、1000年間程イスラームに主に防戦ばかりだった西洋が、攻勢に出るようになった時代の趨勢が象徴されているだけの様に思えました。神の視点と個人の視点との相克や、絵師の内面の葛藤などは描かれても、神の論理と近代西洋論理との間の究極的な結論が描かれていない点が、「決定的な回答が出ていない点」であるように思えるわけです。とはいえ、だから「わたしの名は紅」が、「薔薇の名前」に及ばない、などと言っているわけでは無く、つまりは、この点が、「似ているようで、異なっている点」である、と思う点なのです。もっとも、「薔薇の名前」のごとく、神の論理も記号だなどと言ってしまうようなことがイスラーム社会で受け入れられる筈がなく、また、そのような小説を書いた作者が、有神論者でありうる、などという考え方も、誤解されるだけで、やはり今のイスラーム社会では受け入れられないでしょうから、この点を掘り下げて描くことは、できなかったものと思うのですが。。。。

 「薔薇の名前」を連想させた点についてはこの程度なのですが、当時の時代状況を描いた歴史小説と言う観点では、それが作者の視点ということではあっても、さまざまな示唆を受けることができました。

 西洋論理と神の視点との対立は、16世紀末に一時イスタンブールで盛り上がったものの、どちらも支配的勢力とはならず、沸騰しないまま煮え切らずにずるずると後退し、それが17、18世紀のオスマン朝の停滞に結びついてゆく、という、当時の時代状況を活写した点。

 また、細密画に関する文化史的側面など、日本語ではあまり情報が無いように思えるのですが、ヘラト派、タブリース派、イスファハーン派、そしてイスタンブール派など、さまざまな派が各地に勃興し、相互に影響を与え合っていた様子や、モンゴル時代の、中国からの影響などを実感することができました。最近この時代のインドの細密画についての手軽な解説書が出版されていますが(「インド細密画への招待 (PHP新書)」)、オスマン朝やサファヴィー朝の細密画や文化史についても、手軽な紹介・入門書が出て欲しいと思います。

 更に、歴史上は、非常に短い、挿話に過ぎないようにしか思えなかったチムール朝の時代が、意外なインパクトをもって16世紀のオスマン世界で認識されていた(かも知れない)、ということ。ひょっとしたら、当時のオスマン朝の人々にとってのチムール朝とは、現在の日本における江戸時代のごとき存在であって、その前のセルジュークやアッバース家、ブワイフ家の時代などは、足利以前、鎌倉とか平安時代のように感じられていたのかも。

 というように、フィクションではありながら、十分16世紀末のイスタンブールの世界にトリップさせてくれる作品でした。

 最後に1点。欧米で激賞される、非欧米圏の作家は、とかく、欧米の論理思考を身に着けた「欧米人」だったりするのですが、オルハン・パムク氏は、この点、どうなのでしょうか。中南米の作家などには、よくこうした分析がなされることが多いのですが、氏の場合はどのように分析されているのか興味があります。もっとも、そうした視点の記事は、ネット上に多く見つけることができるように思うのですが、もし、この観点で優れた論考をご存知の方がおられましたら、ご紹介していただけますと助かります。

 なお、前回紹介いたしましたが、この時代のオスマン朝、それも同じ細密画をテーマとした、「Cenneti Beklerken」という映画があります。最近アクバルの映画や、15世紀初頭ビザンツ映画を見たりと、この地域・時代関連の作品に接する機会が増えてきています。

2014年追記:
 本書が背景としている、16-17世紀頃のイスラームの書物や写本、細密画の歴史を扱った書籍『イスラーム書物の歴史』という書籍が2014年6月に出版されています。『わたしの名は紅』の背景である当時の書籍事情にご興味のある方にはヒットするかも知れません。
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by zae06141 | 2009-04-14 00:08 | その他歴史関係 | Comments(0)