古代世界の午後雑記


「古代世界の午後」更新履歴と雑記
by Solaris1
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人類史観まとめ ver2

【1】 目的共同体(企業、ゲゼルシャフト、ノモス)と自然共同体(故郷、ゲマインシャフト、カオス)と

 人間の組織体は、ちいさな集団から巨大な集団まで利益/資源の配分を巡って常に諍いが起こっているわけですが、何故このようになってしまっているのかという点については、生物界から社会が分立した時点に求められるという見解があります。「人類は、ある日突然、生物界から離れ、社会を持っていることに気づいた」という話を学生時代の講義で聞いた覚えがあります。「生物」とは元来、個々の意識を持たない物理的存在であり、元来親からの誕生直後から、ひとりで自活ができるようなモノだったのが、幼形成熟(ネオテニー)などが進み、未熟なままで誕生し、一定期間親が「育てる」という「社会層」が介入するようになり、それが一層発達し、集団で子供を養育するようになり、ネオテニーと社会層の拡大が平行して行われ、ひいては、「個人の意識の誕生」を促した、という考え方です。意識が誕生し、ある日、「社会」というものの存在に気づいた、というわけです。同時に、他人は自分と違う考えを持つ、ということにも気づいた。この時点から、人類の利益/資源分配を巡る諍いが起こるようになったということなのでしょう。

 集団には、特定の目的に賛同する集まりである集団と、既存の、個人の意思とは無関係に成立している集団があります。社会学や哲学では、前者をゲゼルシャフトとか共同幻想、対自体、後者をゲマインシャフトとか、共同態、即自体、ノモスなど色々な用語で呼んだりするようですが、前者が意識して選択する共同体、後者が、生得的共同体、と考えれば、整理しやすいのではないかと思います。宗教団体、大学のサークル、ナチス党の支持者や企業に所属する人、納税し、選挙登録をして「参加」する合衆国などは前者、ドストエフスキーが理想とした中世キリスト教共同体や、アーリア神話による、ゲルマン民族の統合思想など、極端なナショナリズム、日本で生まれればそのまま戸籍と選挙権が得られ「日本人」となる日本人、大阪に住んでいるのだから阪神ファンという発想などは後者ということになります。

 前者の、目的を持った人々の集団では、利益分配での紛糾の占める割合は、後者の生得的集団よりも低いのではないかと考えていました。目的が明白なので、目標の達成に最も寄与した順番で利益分配すれば良いだけです。目標に不満があれば、集団を代わればよいわけです。これに対して、生得的集団では、国が気に入らなくても、移住する、という人は寧ろ多くはなく、生得的集団内で利害を調整せざるを得ない、よって、こういう集団を、一定方向へと纏め上げ為に、「一億中流幻想」とか、「全体主義」のような方法が利用されてきたのだと考えておりました。

 企業のような、本来その企業の仕事をやりたい人々の集まりである筈の集団では、目標が明白なので、その目標の達成にもっとも寄与した順番で利益分配すれば、問題が無い筈なのですが、何故にこんなに紛糾するのだろうか。というのが、このところの日々の疑問だったのですが、やはりこれは、中国オフィスが、「バック部門」だからなのかなぁ、と思うようになりました。日本で、顧客前線に出ていれば、売り上げが査定に直結するので、査定も簡単。放っておいても部下は顧客に叩かれるので、上司は部下を宥めていればよく、マネージャの仕事も、人事管理よりも、戦場で勝利する為の作戦と用兵に比重をおけるわけです。ところが、バック部門で、直接の顧客がいない場合、「技術力」「有益な資料作成数」などが査定基準となってくるのですが、売上のような、誰でも納得せざるを得ない「外部の基準」が無いために、部内で基準を作る、ということになり、その基準の妥当性を巡る、メンバー間での見解の相違が露呈することになるわけです。そうしてマネージャの業務の重心は、人事管理に移行していってしまう。組織体が大きくなる程、本来目的集団だった集団の内部に、生得的共同体が発生していくような気もします。

 そんなわけで、顧客相手のフロントに戻りたいとか、いっそのこと十名くらいの小企業にでも転職するか、などと考えたりするのですが、小企業というのは、上手くいけば、自由で高収入な集団でいられますが(若手への教育コストがかからないことが主な要因)、失敗すると、下請けという封建的階層社会の下層に位置することになってしまうので、甘い想定は禁物です。となると、今の勤め先でフロントに戻るのが現実的なのか、人生ここらで再度チャレンジすべきか、など、落ち着いてきたら落ち着いてきたで、色々と考えてしまうのでした。ともあれ、これでチーム事情が落ち着いてくれれば、秋口には帰国できそう(というより戻らされそう)な感じになってきました。とはいえ、このような内容を書く度にその後暗転したりしているので、今後もどうなることやら。



【2】間主観世界中に占める「客観」部分の減少と「少数者の客観」「個人主観世界」の拡大

 人事マネジメント書籍を見ると、「最近の若者は」という管理職のため息が必ず記載され、特に「叩き上げ」で管理職となった人々に対して、コーチングや教育重視の指南が多く見られる点が共通しているように思えます。「せっかく俺が成功してきた貴重なノウハウを教えてやっているのに。教えたとおりやればできるのに、何故できないんだ。何故やろうとしないんだ。これだから今の若者は」という嘆きに対して、「わからないのは教え方が下手なだけ」「過去の成功体験に基づく信念は、現状の理解の妨げにしかならない」などと、対策の指摘も共通しているように思えます。

 これらの現象に対しては、豊かというだけではなく、社会が多様化したことも大きな要因だと思うのです。私が大学を卒業した頃、「新人類」という言葉が流行し、高度経済成長期の大量消費の時代から、少量多品種の消費時代へと変化しつつある時でした。更にインターネットの発達で、いままで周囲では見つけづらかった、ニッチな商品や、ニッチな趣味仲間も簡単に見つけられ、多様なコミュニティが急拡大しているように思えます。インターネット空間は、間違いなくこうした社会のあり方を巨大な規模で推進しています。津村記久子の小説『ミュージック・ブレス・ユー』の主人公は、趣味が合う人を見つけて英語のブログまで読む主人公が登場していますが、まさにそんな時代です。つまり、「最近の若者は」という嘆きが指摘する現象の中には、人類の進化沿った方向に進んでいる要素も大きいのだ、と思うわけです。

 ネオテニー(幼形成熟)が、人類を、自然界から独立させ、「社会層」を生み、社会層は歴史とともに益々拡大している、という話を記載しましたが、その一方で人類は、「社会」に対する「個人的な領域」をも拡大する方向で進んでいるのだと思います。現象学的社会学などでは、社会とは、個々人の主観の交わりから生成される、社会構成員皆が同意・共有する「客観部分」の事だとしています(社会学で間主観と呼ぶ部分です)と。イメージにすると、下記の図(図A)のようになるのでしょうか。

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 この図のひとつの円が「個人」であり、全員の円が重なっている部分が、社会の構成員全員に認識されている社会制度や「現実」「客観」(間主観)部分でであり、一部重なり合っている部分が、「一部の人の間だけで意見の一致する部分」(これも間主観)、またく重ならない部分が、「個人の主観部分、睡眠中やドラッグなどで見る夢や幻想、日頃の妄想」というわけです。近代以前の中世の村落共同体や、現在でも南米やアフリカの部族共同体などには、強力な掟や神話・宗教・社会制度などに縛られている共同体がありますが、これは、上図のような、円の重なる部分の多い、個人的部分を極力少なく押さえ込んだ共同体と言えます。こうした村社会では、掟を破った構成員は、しばし村を追放されたり、処刑されたりして、円の重なる部分である、「客観的秩序」を脅かさないようにして維持されるわけです。中世の村落や南米アフリカ部族社会では、社会の規模は小さく、土地や自然の力に圧倒されていて、お互いに交流は制限されていることから、それぞれの村や部族独自の奇妙とも思える神話や制度が発達する傾向にあります。

 これに対して、多様な地域を統合した古代帝国や現代社会では、中世的小規模や村や部族は、巨大な帝国や、グローバリゼーションの中で交流することになり、抵抗がありながらも破壊され、混交の中に活力と新しい創造が生まれる傾向があります。多様な交流は、共通の価値感の領域を減らし、上の図Aから、下図(図B)のような、「個人の領域」の増大する社会に向かうことになります。人々の間での共通認識部分が相対的に減少した結果、一度社会秩序が崩れるとカオスを生みやすくなっています。端的に表現すれば、全体的にカオスの領分が増大しているのが人類社会と言えます。

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 古代や未開社会は、時としてとんでもない習俗が行われていたりします。13世紀フビライが滅ぼした雲南のある村では、旅人を食べる習慣があり、フビライはこれを知って奇異な悪習を無くす為に村を滅ぼしたそうですが、少なくとも村の中では、奇異でもなんでもなく、普通の社会制度だった筈です。人類学は、ポトラッチのような、近代西欧の論理では驚きをもって迎えられる習俗を明らかにしてきました。このように、広大な地域に点在した村や部族社会の習俗は、帝国やグローバリゼーションに含まれることにより、より巨大な円の共通部分を生み出すと同時に、1個人や、少数の嗜好を同じくする人々にしか共有できない価値観や常識へインスピレーションを与えることになります。例としてあまり良いとはいえませんが、同性愛者などは、図Aの社会では排斥されたかも知れませんが、図Bの社会では、「少数の人だけが重なる部分」が増大する為に、世間全員からは受け入れられなくても、分かり合えるもの同士、彼らだけの世界を見つけ(政治的主張から、趣味の仲間、同性愛者同士等々)、共同体を作ることも可能になってきます。現代では、前近代では世間から受け入れられなくても、「そういう人々がいる」ということは認知されるようになってきています。インターネットは、まさに少数者のコミュニティの増加に寄与しましたから、一昔前までは、誰とも重なる事の無い、まったくの個人の幻想のような妄想に終わっていたものでさえ、共有できる仲間を見つけることが出来るようになってきています。


【3】物理・生物学層の領域の縮小と個人の意識・社会の領域の拡大

 このように、世界は、図Aから図Bへと、少数者だけの価値感の世界や、個人的な妄想の領域の拡大へと向かっており、近年の猟奇的な犯罪の増加は、こうした個人主観世界の増大に起因するものが増えてきているのではないかと思うのです(もちろん全てがこのような理由とは言いません)。これは物理的な病気では無く、円の重なる「社会」部分の比重が低下し、個人の主観世界の比重が過度に増大することで起こることから、社会や心理の分野の問題であるように思えます。心理学や生理学の世界では、社会や個人の意識が生理層に影響し、ひいては物理的症状に影響を与える、という話があり、人類進化の初期段階では、生物層や生理層が、圧倒的に個人の意識を規定していたものが、段々と比重が逆転し、今では、個人の意識層・心理層が生理層に大きく影響するまでに発展してきたということなのでしょう。この考えを更に推し進めれば、人類の思考は、遂に核兵器を産み、核兵器のボタンを任かされた少数の指導者が物理的に世界を滅ぼすことも出来るまでになり、10万年前には、ほぼ100%物理層に囚われていた人類が、物理層を次々と克服し、地球を破壊・コントロールできるまでになってきた、ということにも表われています。図で表すと以下のようなイメージです。上記図Bは下図Cの右端の状況を、右端から少し左によった部分が図Aという位置づけです。数千年前は「環境決定論」に近い段階にあった人類は、「環境可能論」の段階へと発展してきているわけです。
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図3

 私には、個人の主観の多様化や社会の多様化は、人類の進歩と表裏一体であると思えます。「社会」の誕生は、一面硬い地面だったところに、泥が発生し、泥がどんどん拡大してやがて沼になり、沼の中で、さまざまな粘土細工が構築されてゆく、というイメージがあります。「沼」は「社会層」の増大であり、沼と硬い土の間の層は「生理層」、沼の中心は、「個人の心理層」があり、沼の中心に向かう程、泥の含む水分が多くなり流動的となり、不安定になることから、個人の意識を安定させる社会秩序というものが、より重要となってくるように思えるのです。全体主義とか管理社会は、こうした趨勢の中で比較的安易に「心理層-社会層」を安定させる解決策なのだと思うわけです。こうした、多様化した不安定な社会では、人々の利害を調整する政治は益々重要になり、島となった共同体を結びつけるビジネスや、異なった共同体を紹介し、取り持つビジネスのニーズは今後増すように思えます。

同時に、現代の子供の誕生から大人への成長発達のイメージは、上の図Cと非常に似ているので、色を変えるだけで作図できてしまいます(下図D)。図Cと図Dの細かい説明は後でします。取り敢えずここでは、色を変えるだけで作図出来るほど似ている、という点だけ印象付ける為掲載しています。
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図4

この、人類の進化と、子供の成長のアナロジーは 「現代の未開社会=現代の西洋の古代原始社会」とした近代西欧思想の図式化です。図Cと図Dを合わせたものが次の図Eです。
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図E

このヨーロッパ(民主主義)と東洋的専制(独裁)と未開社会(部族社会)を分ける世界観は19世紀のヘーゲルで完成していて、彼の『歴史哲学』を図式化すると以下のようなものになるのだと思います。
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図F

ヘーゲルは「歴史哲学講義」において、「幼年期」少年期」青年期」「成年期「老年期」という言葉を用いて世界各地域を説明し、子供の成長と歴史の発展、同時代の各地域を同じ構図で見るという、ヘーゲル以降多くの学問に無意識に採用される視点・思考・構図・構造をまとめあげました。彼の考えでは、人類が進歩する程「自由の領域の拡大」し、原始的本能の部分は「万人が万人に対する戦い」をするようなカオス(原始的混沌)にあり、自由の拡大の行き着く先は、理性(プラトンの定義したロゴス)の拡大であり、ロゴスがカオスを駆逐する、ということだったわけですが、実情は逆で、20世紀後半以降は、物理層が縮小し、個人の心理や社会層の増大はカオスの拡大となっているのが人類の歴史だと考えられています。現代思想におけるポスト構造主義といわれる書籍では、漠然とした「古き良き伝統社会」をノモス、近代化≒カオス化、カオスを防ぐためのイデオロギー(全体主義思想とか世界宗教など)をコスコスと呼びますが、それを先に登場した図と合わせて図式化すると以下の図のできあがりです。
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図G

近代社会となり個々人の自由が拡大した結果、価値観やライフスタイルが多様化したことは、図Gでは、同心円が重なる部分が減少し、個人の領域が増大し、しかしそういう個人も社会を追放される事無く生きて行けるように、「ノモス」における「客観」部分は縮小し、その外側にカオス(2つの赤点線の間のドーナツ部分)部分が広まることとなりました。図Fで未開社会=原始的混沌とされたカオスが、図Gでは、欧米となると巨大になり(第一次二次世界大戦などを起こしてしまう)、逆にカオスを無理に制御しようとしてヒトラーやスターリン、毛沢東のような全体主義社会を生んでしまう結果を招いています。

(2016年8月追記:最近のイスラーム世界の異常なテロにおいては、イスラーム世界の人々は、自分たちの宗教と社会が図Gの左上のような共同体であると思い込んでいるものの、ISに感化されたテロは、図G左下の二重赤線の間のカオスの部分の思想をそのまま内側の赤丸の枠内(客観世界)で実行してしまっている、という図式に見えます。近代的な高度な教育を受けている(図G左下の社会の住民)であるからこそ、(赤丸の枠内での社会=狭義の社会)から逸脱している行動が出てくるのだと思うわけです。高度な教育を受けている程、あるいは知能が高い程、個人の頭の中で精緻な理想世界を作り上げる、しかし図G左下図のように、「社会における個人の領域」が拡大しているがゆえに、他人に受け入れてもらうことが難しくなりついには他人に強制するか自殺(自爆)するしかなくなる、という、笠井潔が<セカイ系>と名付けた原理が、19世紀のロシアのテロリストや、20世紀後半の極左テロ、現在のISテロにも共通して見られるように思えます)。


【4】求められる秩序維持方法

近代欧米に限らず、中華もイスラーム圏もインドも、多かれ少なかれ社会は図Gの左図の上から下、同図右の左から右に向かって発展してきています。文明が高度化するほど、カオスを制御する「社会秩序」の道具が必要となるわけです。これを覆すことは容易ではありませんから、既存文明の歴史が長い社会程、英米流の近代化は、カオスを生むことになってきたのだといえます。フランス革命、ナチスドイツ、日本軍国主義、ソ連邦、毛沢東の中国など、英米から距離が出る程、英米流の近代化社会が定着にいたるまで大きな混乱や反動、秩序維持のための締め付け(全体主義化)などを経験することになったわけです。

 伝統的な歴史や文明とは、現在においては、秩序を維持する為のひとつの道具です。欧米圏はギリシア・ローマ秩序に範を求め、中国は中華帝国に、イスラーム圏はイスラームの教え、インドはヒンデゥー教というように。ところが、最近では人類史上かつてない急速な人口増大とインターネットによる情報の流通により、過去1万年に存在した人類の数よりも、この50年間に地球上に存在した人口の方が多くなる程になってきています。こうなると、いつまで、伝統的歴史社会の影響力で、今後の社会秩序を維持できるのかどうかが問われることになりそうです。歴史の比重は減少し、70億人の人類社会の中での横の情報のやり取りから、秩序が生成・変化する事象が増大するように思えます(社会主義が、インド・中国に入り込んだように、イスラームが拡大するように)。

 現在、人類は下記の3つの方向で社会が拡大しているのだと思うのです。

  人口の増大、(物理・生物層に対する)社会層と個人主観世界の拡大

最近グローバルヒストリー書籍が流行しています。

ウィリアム・マクニール『世界史』
フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』
ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』

などがベストセラーとなり、

グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』
ウォーラーステイン『近代世界システム』

なども売れています(ウォーラーステインは解説本が売れています)。

これらの書籍は、人類史の過去の全体像を振り返り、今後の指針を見出すという動機が強いように思えます。今後の指針には、「今後の秩序維持方法」も含まれている筈です。

何年か前にドストエフスキーの新訳がベストセラーになりましたが、私の中では、ドストエフスキーが『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』に登場する人物は、上記図Gに対応しています。

カラマーゾフ:
 ドミトリー  ロシア民族の伝統(ノモス)の体現者
 イワン    コスモス(西欧的論理)とカオスの分裂の体現者
 アリョーシャ キリスト教的ノモスの体現者
悪霊
 ピョートル・ベルホーベンスキー コスモスとカオスの分裂の体現者<セカイ系>
 スタブローギン         コスモスなきカオス体現者

近代西欧化(グローバリゼーション)により、伝統社会秩序が崩される社会では、どこの国でもドストエフスキーがヒットするような気がしています。ドストエフスキーはキリスト教による救いを目指しているようなところがあるので、これがネックとなるかも知れませんが、イスラーム世界でもドストエフスキーは人気が出てもおかしくはないのではないか?と思っています。

フランシス・フクヤマは、民主主義の勝利で歴史は終わる、と主張していましたが、人類の歴史は、今後も多少の反動は経ながらも、全体的には自由(=カオス)の領域が拡大し続け、それを制御する方法が模索され続けるのだろうと思う次第です。
<2009/2/25作成/2016/8月一部追記>

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by zae06141 | 2009-02-25 01:33 | その他歴史関係 | Comments(0)
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