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本日1週間ぶりに出勤したところ、メールが550通たまっていました。一日仕事になりましたが、夕方には処理し終えることができ、少しオフィスでネットサーフィンをしていたところ、たまたまドイツと日本の前大戦の賠償責任について議論しているサイトやブログに出くわしました。
その議論の多くでは、ドイツと日本の賠償責任は同一に比較できない、という内容で、このあたりは確かに納得できる部分がありました。また、ドイツが、統合するまで国家賠償を延期し、統一後に、英仏などが、賠償請求したところ、これに応じなかった、という話や、ドイツは、ナチスの与えた損害については賠償しているが、国家としては賠償していないのだ、という意見は、恥ずかしながら始めて知った次第です。 とはいえ、一連の議論、というか、基本的に、「ドイツは賠償しているのに、日本はまだだ」という中韓両国の主張に対する、「ドイツは国家賠償はしていないが、日本はしている」という反論にある意見群を読んだわけですが、一点気になったのは、ドイツのワイツゼッカー大統領が1985年に行った有名な演説(「荒れ野の40年」という題名で、全訳が出ています)を引用し、「ワイツゼッカーは、ナチスの罪と、それに対する責任を認めているのであって、ドイツ国家としての責任を認めていない」という主張です。 今手元に「荒れ野の40年」が無いため(中国駐在中で、書籍は東京の自宅にある)、またあっても、出版社が左派の岩波ということで、ドイツ語の原文にあたらないことには、訳者の思いが入っているや否やの判別もつかないとは思うのですが、この文章、この20年間で数度読み返した記憶があるのですが、私個人の印象としては、「戦後、そして将来生まれてくるドイツ人には罪はないが、ナチスのしたことについての責任はあるのだ」という内容に読めました。直接の加害者であるナチスと、ナチスを選出した有権者に罪はあっても、その罪を、子孫までが負うことはできない。だが、責任はあるのだ、と、私には読めました。 ドイツの大統領という立場から、政治的権益のために、ドイツの国家賠償を認めない、という隠された意図があったのかも知れません。しかし、私が、ワイツゼッカー演説を引用し、「ドイツと違い、日本の賠償責任は終わっている。だからドイツが謝罪したから日本もせよとは、おかど違い」と主張する人々の意見について疑問に思うのは、国家賠償を終えたということで、戦争を仕掛けた国々の人への責任までも免責されたと考えているのではないか、ということです。ワイツゼッカー演説の重要であり本質的な部分を軽視、あるいは無視しているのではないだろうか?という疑念です。 ワイツゼッカーは、「子孫にも責任はあるのだ」と言っています(と私は理解しています)。ドイツ人の思考を、必ずしも日本人が同調する必要はありませんが、しかし、心の問題として、責任は感じないのだろうか?祖先がしたことだから、賠償も終わったから、と免責されるべきことなのでしょうか? 政治家としてのワイツゼッカーは、ドイツの国益という観点から、国家賠償の問題を摩り替える意図があったのかも知れませんが、一方では、人間として、責任の問題を、人々の良心に訴えかけていたのだと、思うのです。 少し観点が変わりますが、日本人のどれほどの人が、先の大戦で、中国に敗戦したとの認識を持っているのでしょうか?実は、正直なところ、私は持っていません。敗戦時に15歳だった父親に聞いても、「満州以外の中国在住者だけが中国に敗戦した意識を持っていたのではないか」との意見でした。 多かれ少なかれ、多くの日本人がこのような意識なのではないでしょうか。反対に、中国の方はというと、抗日戦争に勝利した、という意識です。あまり反日意識の無い中国人も、このような意識なのではないでしょうか。今度同僚と飲みに行ったときにでもさりげなく聞いてみたいと思いますが、恐らくあたっているものと思います。このギャップが、日本と中国の間の歴史認識の食い違いの一つの要因でもあり、また上記賠償問題の議論において、ワイツゼッカーの言うところの責任意識についての言及が無い背景でもあるように思うのです。 軍部の独走もあったでしょうし、日本はドイツと違い、民主的に選出された政府ではなかった、という言い分もあるでしょう。帝国主義政策を採らなければ、植民地化される恐れがあったことも事実だと思います。また、インフラ整備という観点で、日本が、支配下地域に貢献したこともあったでしょう。また負けたから謝罪せよ、という戦勝国の態度に割り切れないところもあるでしょう。 しかし、だから大戦中日本がやったことが正当化されるとか、国家賠償すれば、それでいいのだ、ということにはならないと思います。ここはドイツではありませんし、キリスト教国の倫理感がそのまま適用できるわけではありません。ワイツゼッカーがああいったから、だから日本人も責任を取るべきだ、とはまったく思いません。ただ、やったことについての罪と責任の問題については、日本人として考えて欲しいし、また、将来に渡って考えてゆかねばならないと思うのです。この問題は、国家の賠償云々とは異なった、人として、国民としての良心の問題だと思うのです。 ワイツゼッカーの演説が、多くの人々を感動させたのは、こうした要素が根底にあったからだと思うのです。少なくとも、私はそう信じます。 他人に暴力を振るわれて、金さえ払えばいいだろう!と謝りもしないでお金を渡されて気がすむのでしょうか。お金の問題は、それはそれで法廷で闘争することにすればいいわけで、賠償問題は、政府と法廷に任せればいいのです。それはそれで重要なことではあるのでしょう。しかし私がより重要なことだと思うのは、罪と責任の問題を考え、必要であれば、心から謝罪する、という意識を持つことだと思います。少なくとも、罪と責任の問題を考えることが、戦争を起こした側の責任だと思うのです。 それが無い状況での日中韓それぞれの賠償紛争は、ただの双方ともども、単なる賠償ビジネスかつ、外交ゲームの駒だと思うのです。 その一方で思うのは、日本が戦って、敗戦した米国との間には、中韓と比べると謝罪や賠償問題を引きずらず(賠償問題が無いとは言っていません)、良好な関係にあります。主要な都市を徹底的に焼かれて、原爆まで落とされたのに。どうしてでしょうか。これこそが、戦後の日本に、米国的価値観を内面化させることに成功した米国の政策の勝利、および文化的優位性ということになるのでしょうが、日本人が植えつけられた敗戦意識も一役買っているのではないか、と思うのです。人間関係一般でも、敗北を腹のそこから認められない限り、心からは謝ろうとはなかなか思えないものだと思うのです。これもまた、人間の本質の一つなのではないでしょうか。 ※補記 2013/8/25 ドイツと日本の国家賠償の比較については、以下の回答で記載しました(zae06141の回答です) http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14112203754
by zae06141
| 2007-10-08 23:57
| 雑記
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