古代世界の午後雑記


「古代世界の午後」更新履歴と雑記
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突厥碑文邦訳一覧とリンク

匈奴と突厥の暦と祖先の業績の記録方法について調べてたところ、突厥自身が作成した碑文が意外に邦訳されていることを知りました。Wikipediaの突厥碑文の記事に碑文一覧があるのですが、訳文の箇所がわかりにくいので自分のメモのためこの記事を作成しています。また、Wikipdiaの突厥碑文一覧(本日時点)に掲載されていない碑文とその邦訳もあることを知りました。

突厥碑文訳にはいろいろ参考になったことがあります。






大阪大学学術リポジトリ『モンゴル国現存遺蹟・碑文調査研究報告』(1999年)のPDFへのリンクはこちらです。殆どの碑文の訳注は、二つ目のPDF(以下PDF2)に掲載されています。碑文の内容はいづれも短いもので、1つ1-2頁程度です。

1.ブグト碑文 (ソグド語・ソグド文字/裏面ブラーフミー文字)
 邦訳はPDF2のp124-5。碑文周辺の遺構から瓦建築が存在したことが判明している。兎の年にマガ・タトパル可汗(莫賀侘鉢可汗)が即位し、11年後に死去し、息子が死去した父のために碑文を建てたとあり、兎の年は571年となる。世界は七州から成るという世界観、七日間という数字があり、「七」が目立つ。マガ可汗の兄ムカン可汗の息子が反乱し西突厥が成立する。遺構にはバルバルという独特な石人が多数ある。バルバルは第二突厥時代の石人とは大きくことなる模様。

2.オンギ碑文(オンギン碑文) (古テュルク語・突厥文字)
 PDF2のp134。有力武人の墓碑。数行。タツ(辰年)に息子が父親(バガ・テングリケン)のため建造。タブガチ(=中国)の語がある。8世紀前半の語用とともに11世紀以降の語用も見られる。

3.イフ=ハヌイ=ノール銘文 (古テュルク語・突厥文字)
 PDF2のp139。2行。石棺に刻まれた銘文。嘆きの言葉のみ。イヘ=アスヘテ碑文と字体の類似から8世紀との説がある。

4.シヴェート=オラーン碑文 
 PDF2のp141。石人が存在することから第二突厥時代のもの。また突厥王族阿史那氏の象徴はヤギ型タムガ(印章)とのことで、これが石獅子に彫られている。文字はない。碑文の目的は不明。

5.カラ=バルガスン第二碑文 (古テュルク語・突厥文字)
 石柱。訳はPDF2のp144-4。12行。本人と子供の名が登場し、人生を振り返った非常に短い回想録のようなもの。1973年発見。周囲に遺構なし(8km離れたカラ=バルガスン城址の石柱との説がある)。雄ヤギ型タムガ等があるため、阿史那氏との関係も推測される。年代は、第二突厥時代か、あるいはウイグル王国時代の突厥の残党との説がある(カラ=バルガスンは東ウイグル可汗時代の首都オルドゥ=バリク(宮帳の町)の遺構のこと)。

6.キョル=テギン亀跌銘文 (古テュルク語・突厥文字)
 PDF2p147。キョル=テギン碑文から数m地点。数行に渡るが内容は1行程度。キョル=テギンの名が見える。

7.キュリ=チョル碑文 (古テュルク語・突厥文字)
 多数の石人/石獅子/石羊がある。他の石碑と異なり、雄ヤギ型タムガが無いので、石棺の被葬者は阿史那氏王家の人物ではないとされている。瓦が出土している。碑文邦訳はPDF2p153-4。30行程。80歳で死去した高位の武人イシュバラ=ビルゲ=キュリ=チョルの墓碑。チョルの人生が語られている。ビシュバリク(北庭)、鉄門、大食の地名、契丹、カルルク、トクズ=オグズという部族名が登場している。

以上は『モンゴル国現存遺蹟・碑文調査研究報告』所収のもの。いづれも短文です。以下はその他掲載のもの。

8.大唐安西阿史夫人壁記 (漢語・漢字)

 唐の安西都護府管轄下の地を故郷であり、唐朝の武将を夫に持った突厥人女性の墓に収められたと思われるに刻まれた碑文。10行程度。阿史夫人は、突厥王族阿史那氏のこと(突厥には阿史徳氏もいるが、壁記には王族との記載があるため)。文中に史氏が製作したとあるので、夫はソグド人との可能性もある(漢人/突厥人の可能性もある)。全文訳が、大阪大学の学術リポジトリ『大唐安西阿史夫人壁記の再読と歴史学的考察』(PDF)(石見清裕、森安孝夫)のp100に掲載されています(碑文拓本画像も同リポジトリ(こちら)にあります)。上記5のカラ=バルガスン地方。内容は人生の具体的な局面の記載はなく、身元と夫の職種、生涯についての具体的な内容がないありきたりの追悼文。卯年と記載があるため、667年か679年、ブグト碑文の後、突厥文字出現以前と推定されるとのこと。

9.チョイレン銘文(古テュルク語・突厥文字)
 6行。邦訳はWikipediaにある(こちら)が、英訳と内容が異なっている。英訳(こちら)を以下に訳出。

(I am) Tun Yegen Erkin
(I am) Tun Bilge (Wise) Qutlug ...
For Elteris kagan on seventh of third month of the year Ram
parted ...?
I wrote (these) mourning words.
There were people to grief and love (him)

-(私は)トゥン・イェゲン・イルキン。私はトゥン・ビル・(賢者)クトゥルグ。未年の第三月の七日にイルティリシュ・カガンのために別れることになった。私は(これら)哀惜の言葉を書いた。(彼)を愛し、悲しむ人々がいた-

イルティリシュ・カガンとは、突厥代第二帝国初代阿史那骨咄禄(在682-91年)のこと。

以下10-11は、小野川秀美『満蒙史論叢』 第4巻、1943年所収「突厥碑文譯註」(p249-425)に邦訳が掲載されています。

10.キョル=テギン碑文(ホショ・ツァイダム碑文) (古テュルク語・突厥文字/漢語・漢字) 
 『満蒙史論叢』4巻283-316頁に古テュルク語部分の邦訳があります。キョル・テギンとビルゲ可汗の古テュルク語碑文はほとんど同一の内容です。漢文碑文は、キョル=テギンのものが328頁に、ビルゲ可汗のものが329-330頁に原文があり、邦訳はありません(小野川氏の記載によれば、白鳥庫吉の研究に詳細な解説があるようですが翻訳ではないそうです。白鳥氏の論文の題名の記載がないのが残念です)。ここでも、東突厥第一帝国滅亡時に散り散りとなり、もっとも少なくなったときに70人、その後少し終結して700人となった、などの記載がでてきて、ここでも「七」という数字がブグト碑文同様特殊な数字という印象を受けます。また、「九姓鉄勒」など、「九」の数字もよくでくるのが特徴です。

11.トニュクク碑文 (古テュルク語・突厥文字)
 『満蒙史論叢』4巻p317-327頁に邦訳があります。

12.イヘアスヘテ(Ikhe-Askhete)碑文

 Altun Tamgan Tarkan
(アルトゥン・タムガン・タルカン ?-724)という突厥の高官のために729年に立てられたとの説のある石碑(タルカンは達汗かも知れない)。邦訳はなさそうで、トルコ語訳が『İhe Ashete Yazıtı: Yeni Bir Okuma veAnlamlandırma Denemesi (イヘ・アステペ碑文:新しい読みと理解のための試論)』イスタンブルにあるBeykent大学のOrçun Ünal氏の論文)の4頁目に、碑文の絵が21頁目(表)と22頁目(裏)にあります。松田孝一編『内陸アジア諸言語資料の解読によるモンゴルの都市発展と交通に関する総合研究』大阪国際大学(2005年)の大澤孝「モンゴリアのイヘ・アスヘテ(Ikhe-Askhete)画像銘文の文献学的再検討」でこの碑文の内容が検討されているそうです。

Google翻訳で訳してみました(おおよその内容をざっと把握するための適当訳です)。

第一石碑表側
1行目 私は
Ash Tudunの弟
2行目 Yeğen Uykinがこの墓を飾った
3行目 Azqan (Azから来た人々の一人*1)の男がこの墓を装飾で豊に飾った。彼女はそれを飾った。

*1Az(アーズ)とは部族名の模様。
キョル=テギン碑文(『満蒙史論叢』4巻p302 ,p309)や、トニュクク碑文(同巻p321)に征服対象の部族名として登場している。

第一石碑裏面
1行目
Ash Tudunの弟であるアルトゥン・タムガン達汗の葬儀は平和のために我々が儀式を執り行った。私たちはさよならを言って別れた。死(*反乱の意味もある)が・・・
2行目
彼の息子
TorgulとYelgekが、
年(*アルトゥンの死去が724年とされているので、亥年は723年のことかも知れない)に
3行目
(ここから?)戻っていった。
悲しめ!国 (?)
4行目
ばらばらにされたように、我々は考えている。(ここを)去り、酔い覚ましに行け!

第二碑文
1行目 天空は、神の偉大さを願い
2行目 反乱(*別の解釈/この墓は飾られた)
3行目 我々は分かれた。反乱
4行目 我々は敵

12.『阿史那感徳墓誌』 (漢語・漢字)

 齊藤茂雄著『突厥「阿史那感徳墓誌」訳注考(2011年)』(PDF)のp13-22と長い邦訳がある。阿史那感徳は、韻利可汗(-634年)の曽孫(665-691年)。墓誌は2000出土、2004年刊行。墓誌に付された名称は「大周故冠軍大将軍帰義可汗阿史那誌」。漢籍に掲載されていない突厥有力者(唐の傀儡可汗となる)である点が史料として重要とのこと。則天文字が利用されている。内容の大半は、歴代史書に登場する過去の人物との比較を用いた修辞が大半を占め、本人の性格や生涯の直截的な記載量は少ない。
 冒頭に天空が9つに分かれる、とあり、冒頭は突厥の地誌、韻利可汗、父伽那の概要、3頁目の途中から6頁冒頭が本人の生涯。687年武側天に三代60年近い唐へ奉仕により帰義可汗に任じられる。690年宮殿での忠勤が認められ軍大将軍・行右鷹揚衛大将軍に昇進、翌年死去。6頁中-7頁中が性格、7頁中-8頁は阿史徳夫人について(692年死去、阿史徳氏は、トニュククの一族。漢籍に登場する突厥氏族は、阿史那、阿史徳、執失氏のみ)。夫妻とも洛陽南に葬られた。最後の2頁は本文の要約(繰返し)。全体的に漢人視点で描かれていて、突厥の肉声は感じられない。


14.ドンゴイ・シレー遺跡の碑文 (古テュルク語・突厥文字)
 8世紀。テングリ可汗時代。大阪大学による2013年の発見(記事)。モンゴル東部で発見された点が重要。

全体所感:

 読み応えがあったのは、ブグト碑文とキュリ=チョル碑文、キュル=テギン碑文、トニュクク碑文ぐらいです。

『モンゴル国現存遺蹟・碑文調査研究報告』では、過去の報告内容との照会が非常に困難であるという現状がよくわかりました。多くの遺跡は19世紀末から20世紀初頭に発見されたもので、遺跡が発見されてから数次にわたる各調査者の報告内容がまちまちで、調査報告書が刊行されていなかったり、一部が未公刊だったり、1997年の日本隊の調査までの間に、盗掘や、自然環境、管理者による遺物の移動、破片が複数の博物館に分散したり、農耕による出土場所の破壊、同一碑文か複数碑文かの解釈の相違など、様々な事態がおこり、過去の報告書との付け合せを深く・慎重に行なう必要があり大変さがよくわかりました。

 また、『モンゴル国現存遺蹟・碑文調査研究報告』(調査の正式名称は、「モンゴル日本共同「ビチェース」学術調査プロジェクト」)は、1996-98年の三年間、毎年一ヶ月実施した現地調査で、最初の80頁ほどは、日誌となっていて、遺跡旅行記としても読める、という発見がありました。頻繁に昼食を抜いたり大変な様子がよくわかります。アメリカのGPSが軍事上の理由から、故意に最大100m程度ランダムに精度を落としているなど、様々な知見があります。写真がないのが残念です。

 なお、大阪大学が実施した、日本・モンゴル共同調査プロジェクト「ビチェースⅡ」(2006-8年の8月1-2週間の調査、2009年報告書刊行)(PDF)も前半部が旅行日誌で、しかも写真付きです(БИЧЭЭС II(ビチェース)とは、モンゴル語で碑文という意味のようです)。

--その他メモ--------------------

(1)キルギス碑文

古代テュルク語・突厥文字による、イェニセイ川流域に居住していたキルギス人によるイェニセイ碑文群の部分訳が、『満蒙論叢4巻』に複数登場しています。

1.ホイト・タミル碑文

オルホン河支流ホイト・タミル川近くの出土。『満蒙論叢4巻』p263に部分訳あり。文中に申年(720年)が登場している。

2.バルリック第一碑文
『満蒙論叢4巻』p264に部分訳あり。

3.ウィバート第三碑文(
Uybat)
『満蒙論叢4巻』p266に部分訳あり。

4.ツバ第三碑文(
Tuba)
『満蒙論叢4巻』p268に部分訳あり。

5.アルチン・ケル第二碑文(
Altyn-kol)
『満蒙論叢4巻』p268-9に部分訳あり。

6.ベグレ碑文(
Begre)
『満蒙論叢4巻』p269に部分訳あり。

(2)カオス・Wikipediaの整理

突厥人 中国語版に記事が立っていて、英語版では
”Turkic peoples”、日本語版では”テュルク諸民族”となっている。

突厥汗国 中国語版。日本語版にはリンクが無い。しかし実質的に日本語版の「突厥」に対応する中国語版の記事はこちら。日本語版の「突厥」は”Göktürks(青いトルコ人=突厥人の意味)に貼られている。トルコ語版では”Göktürk Kağanlığı”となっている。

突厥 日本語版に記事があり、中国語版とトルコ語版にはない。英語版では”Göktürks”にリンクされている(キョル=テギン碑文には「Kök türk(青い突厥」」の語は、突厥内の一部族として登場しているだけでした(『満蒙論叢4巻』p288-9)。

※余禄

漢代の農書である『氾勝之書』をずっと『氾勝の書』だと勘違いしていました。この17年間ほど。この本を読んでいながら。氾勝之=はんしょうし という人名ということを最近知りました。
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by zae06141 | 2017-03-16 00:09 | その他歴史関係 | Comments(0)
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