古代世界の午後雑記


「古代世界の午後」更新履歴と雑記
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後期パルティア関連論説:南部玲生氏『後期アルサケス朝の帝国統治』と桑山由文氏『2世紀ローマ帝国の東方支配』

 今年3月頃ですが、昨年12月の『北大史学』55号22-42頁に掲載された南部玲生氏『後期アルサケス朝の帝国統治』と西洋古代史研究』2004年号に掲載された桑山由文氏『2世紀ローマ帝国の東方支配』を読みました。



 後期アルサケス朝の統治体制など、史料がないのだからどうにもならないような印象を持っていたので、どういう内容なのか非常に興味がありました。読了して、少ない史料や一見統治体制に関係なさそうな史料からでも、長期的に並べてみると、意外に一貫した展望を描くことはできるのだなあ、と感じ入りました。しかし、こうなってみると、前期パルティアの帝権はどうだったのか、なども改めて知りたくなってしまいました。更に言えば、同様の方法で、セレウコス朝やアケメネス朝の統治体制も描くことができ、アケメネス朝からササン朝末期までの「統治体制の変遷」を一貫して描くことも可能ではないか、という気がしてきました。アケメネス朝の同時代史料ペルセポリス城砦文書はエラム語、アケメネス時代からパルティア初期までの史料バビロン天文日誌はアッカド語、現代語訳史料も英語文献が少なくフランス語やドイツ語だったりと、古代イランを一人で研究することはおよそ無理なので、各時代の専門家の共著か、各雑誌への個別論文という形でもいいので、アケメネス朝からササン朝末期までの統治体制の変遷を(死ぬまでに)読んで見たいと思った次第です。

 同様のことを古代インドにも感じています。マウリヤ朝からグプタ・ハルシャ朝やその後のプラティハーラ朝などの三国時代までの統治体制や経済体制の変遷を一貫して扱った書籍や論文などを読んでみたいと思っているのですが、今回の南部氏の手法を適用すれば、案外できるのではないか、という気がしました。

 取りあえず、南部氏には『前期パルティアの統治体制』も書いて欲しいと願う次第です。

 ところで、南部氏の『後期パルティアの統治体制』には、トラヤヌスからセウェルス遠征までの時代の記載はないのですが、この時代に関するローマ側の占領パルティア領の様相を描いた『2世紀ローマ帝国の東方支配』(PDF)という桑山由文氏の論説が、個人的には役に立ちました。南川高志氏は『ローマ皇帝とその時代』で、ローマ帝国の拡張政策はハドリアヌスを持って転換したわけではなく、その後も継続していたことをマルクス・アウレリウス帝のマルコマンニ戦争を事例に論証されていますが、桑山氏の論説はハドリアヌスとピウスの時代も基本的に拡張政策は継続しており、ただし現実的に一挙に属州化するのは難しい状況を鑑み、まずは属国化するという、前1-後1世紀に小アジアのヘレニズム小王国を属国化→属州化した手順とあまり変わらない手法でハドリアヌス放棄地域に対する属国化政策が進んでいた様子を分析しています。パルティア国内の統治体制への言及はないものの、1世紀のパルティア諸王が苦労して属国への統制を強めようとしていたところ、トラヤヌス侵攻以降ローマが多くの属国へ影響力を行使し、属国側でもローマに使節を送るなどパルティア帝権から遠心する傾向が見られ、その動きはパルティアの属国統制強化への反発の動きだと解釈すれば、後期パルティア帝権強化の路線は継続していたと見なすことは可能です。

 パルティアの統治体制については数少ないパルティアの邦語書籍デベボイス『パルティアの歴史』やローズ・マリー・シェルドン『ローマとパルティア-二大帝国の激突三百年史』を読めばわかりそうだと思われるかも知れませんが、意外にそうではないのが現状です。前者は原著にある出典註を全部省いてしまっていて、著者の姿勢も、パルティア通史が19世紀後半に書かれてから半世紀以上経っていて新史料が多く得られているのに通史が書かれていない、という点にあるので、基本的に通史本です。史料については巻末で言及はあっても、本文中の各所にいちいち出典がついているわけではなく(邦語のみ、原著にはある)、この点では前95-217年という、パルティア全史を扱っているわけではないものの、後者の『ローマとパルティア』は、出典註が非常に多く有用です。しかし後者は、基本的にブッシュ政権のイラク政策失敗の批判が根底にあり、その上でローマの戦略の欠点を古典古代軍事史専門家として解析していて、パルティアの経済社会の分析などはほぼありません。パルティア史の主要史料であるローマ側の文献史料が基本的に軍事・外交の観点からのものがほとんどなのでこれは仕方がないところです。

 しかし、そういうわけなので、これら邦訳2冊では、パルティアの統治体制や社会経済文化というものはほとんどわかないので、南部氏や桑山氏の論説は貴重だと思うわけです。というか、桑山氏の論説を読むと、シェルドン氏の指摘する程ローマ側は駄目だったわけでもなく、軍事戦略的にはシェルドン氏指摘の通りお粗末な部分が多かったとしても、長期戦略的にはあいかわらずのローマぶりがわかるわけで、デベボイス本は2000年と2014年の2度図書館から借りて読みましたが大してコピーをとりたいと思うところもなく、シェルドン本も出典箇所確認くらいでしか見返すことはないのですが、桑山論説は昨夜見つけて読んで感心し、本日桑山論説と照合するため南部論文の3度目の読了後、両者の照合のため再度桑山論説を再読しました。両者は今後も何度も読み直しそうです。

 ということで、両者は、私的にはツボにはまった論説でした。

追記:
記事を書いた後妄想がとまらなくなったので取り合えず書きだして整理することにしました。後期アルサケス朝が周辺属国と国内非パルティア系貴族と非ギリシア人を権力基盤とし、その統制強化に向かったという論点からすると、前期アルサケス朝の帝権支持基盤はパルティア系とギリシア人、ということになります。後者はセレウコス朝の統治体制の引継ぎ、前者は、当初のパルティアはダハエ族を中心とする部族集合体だった、ということになり、「諸王の王」の称号はイデオロギー的な意味だけで、南部氏が描いた後期パルティアの強力な帝権に比べると実行権限は小さかった、ということになるのかも知れません。しかしそれだとセレウコス朝が使っていなかったギリシア語のバシレイオス・バシレオーンをなぜパルティア時代に入ってギリシア語だけで貨幣に使っていたのか不思議です(アラム文字やパフレヴィー文字の貨幣銘には登場していない筈。単に未発見なだけかも知れませんが、、、)。セレウコス時代もアラム語等現地語では継続的に「諸王の王」の称号が使われ続けていたのかも知れませんが、この点そのうち調べてみたいと思います。アケメネス朝以降サーサーン朝まで一貫した「諸王の王」理念が古代イラン世界にあったのか、セレウコス朝で途切れたのか、、、、これがひとつめの疑問。

 次の疑問は大貴族と本国内の統治体制です。アケメネス朝のサトラップが容易に現地世襲国となってしまう運用だったようなので(アケメネス朝についてはあまり知りません)、セレウコス朝もほぼ同様、たぶんパルティア時代も初期は概ね同様だったように思えます。スーレーン家のゴンドファルネスが北西インドで独立してしまったり、属国にパルティア王族を送り込みはしても、属州化しないところにそのような印象を受けます。ただ、パルティア名門7大貴族はパルティア王族やダハエ族などの出身だと考えられ、アケメネス時代以来の地方大領主と入れ替わったようなところが感じられます。パルティア名門貴族はササン時代末期になっても地元に基盤を持つ貴族であり、宰相や将軍を輩出し続けているので、ササン朝の中央集権は、直轄王領地内にとどまっていたという印象も受けますが、ササン朝末期の混乱で、大貴族が大規模反乱を起こした形跡がなく、むしろデフカーン層が割拠する情勢となったところを見ると、パルティア以来の大貴族の所領地は縮小していて、ササン家の王領地が中央集権の主体となり、大貴族は官職貴族と化していた、という印象があります。もしパルティア時代のような巨大貴族が国内にいたとしたら、カワード(エフタルへ)、バフラーム・チョービーン(突厥へ)もホスロー二世(ビザンツへ)も外国へ亡命しなくて済んだのではないかと思うわけです(あくまで私の印象)。最近後期ローマ帝国の行政制度や税制、統治制度、及び帝政時代の東方領土の属州の社会経済行政について調べているのでだいぶ先のことになりそうですが(特に帝政ローマ東方領土の小アジア・シリアの属州の行政や統治を詳細に扱った書籍と論文がなかなか見つからないので、帝政時代のギリシア語圏を研究されている桑山氏にどんどん研究してもらい、書籍を出して欲しいと思っています*1)、アケメネス朝とセレウコス朝の地方行政制度の変遷について調べてみたいと思います(ただ邦書はもとより洋書にも文献がなさそうな感触があるので、素人では手に負えない気がしてます。

*1 研究史と研究論文紹介本『古代西洋史研究入門』(1997年)の第二部ローマの部の「外民族と属州」の章では、ヒスパニア、ガリア、ブリタニア、北アフリカ、ドナウ諸州、エジプトは節が立っているのに、バルカン半島(イリュリア、ギリシア、トラキア)、小アジア、シリア、パレスチナ、及びコーカサスはゼロ)。研究史に言及すらしてもらえない悲しい状況です。桑山氏や田中創氏等帝政期東方研究者の方々にはぜひ、共著でいいので、いつか帝政ローマのシリア・小アジアの・ギリシアの社会史/行政史/経済史/心性史の書籍を出して欲しいものです(あと高橋亮介氏には帝政期エジプト史の本を将来的に期待しています)。帝政期の東方領土は、後の東ローマ、イスラーム帝国に繋がるという点で重要な筈なので、社会史/行政史/経済史に関してまとまった著作が少なそうなのが不思議です(宗教史や思想史を中心とする文化史著作は結構ありますが、、、)。

 というわけで、パルティア時代はなんとも言えませんが、ササン朝時代は、王領地の拡大という方向で中央集権化が進み、大貴族の広域支配は漸次削減されたものの、地域の領主ではあり続け王朝末期を迎えたのではないかと推測しています(あくまで推測)。これは、イスラム時代になってから大貴族というものが登場せず、地方地主デフガーンが登場していることにも繋がるのではないかと思います(スーレーン家の末裔と考えられる人物が874年に唐で死去していることから、名門貴族は王家とともに唐に亡命したと思われます)。

 「諸王の王」の称号への疑問はもうひとつあって、アルメニアのティグラネス大王やインド・パルティア王国のゴンドファルネス、クシャーン朝の王が「諸王の王」を名乗った頃のパルティアとアルメニアおよびクシャン朝の力関係は逆転していたのではないかと推測できますが、ササン朝時代には、ササン朝を一時的に服属せしめた突厥やエフタルが「諸王の王」を名乗った形跡がないので、この点でも古代イラン帝国の領域の帝権はひとつだとの認識が広まっていたのではないかと推測でき、パルティア>ササンにかけての帝権の強大化のひとつの側面であるような気もします(そういえばバクトリア王の称号に「諸王の王」はなかったのだろうか。調べなくては)。

 というわけで、南部氏と桑山氏の論説には久々にいろいろと調査項目と調査意欲がわいて刺激を受けた次第です。

※今年はなぜかレコンキスタ本の出版が多いような気がしています。何か背景があるのでしょうか。

レコンキスタの実像_中世後期カスティーリャ・グラナダ間における戦争と平和』黒田祐我 3/15
レコンキスタと国家形成-_アラゴン連合王国における王権と教会』阿部俊大 10/5
スペインレコンキスタ時代の王たち(仮)中世八〇〇年の国盗り物語』西川和子 12/23発売予定

また、スペイン関連で、『カルリスタ戦争-スペイン最初の内戦』石塚秀雄 8/8 も出ています。今年ご紹介した西ゴート歴史映画『アマーヤ』の原作者フランシス コ・ナバーロ・ヴィロスラーダがカルリスタだったこともあり、若干カルリスタに興味が出ているところなので、そのうち読むかも知れません。

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by zae06141 | 2016-11-05 00:07 | 古代イラン関係 | Comments(0)
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