古代世界の午後雑記


「古代世界の午後」更新履歴と雑記
by Solaris1
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普通という名のパノプティコン:村田沙耶香著『コンビニ人間』とドストエフスキー

 アマゾンレビューにもレビュー(こちら*1)を書いたのですが、書き切れない部分が多いのでこちらに追加を書くことにしました。この本は、内容自体も面白いのですが、読者の反応を読む方がもっと面白いという、そして賛否が「あちら側」「こちら側」「どっちでもないけど共感できる部分があります」の概ね三者に分かれているのが特徴的です。

*1 10/3 レビューの題名を変更しました。本作は、「普通という名のパノプティコン」を風刺した小説だと考えるようになった次第です。結局本記事の題名も変えました。

 私にとって小説や文学、映画は、基本的には、共感や感情移入というより、作者や監督の主張は何なのか?、この作品がヒットした社会的・心理的土壌は何なのか? という分析的な読み方をしてきたので、「登場人物に感情移入」という視点を意識するようになったのはここ数年のことです(「面白い・つまらない」はありました)。もちろんそれ以前に感情移入が無かったわけではないものの、個人的好き嫌いは二の次だと思っていたので、好き・嫌い、共感する・しないで書かれているレビューを読むと違和感を感じていたのですが、いつの間にか自分も、アマゾンレビューの「参考になった」「ならない」ボタンを、「共感した・しない」で押している場合があることを意識するようになりました。アマゾン・レビューも、「製品紹介・批評」という意味で理解していたので、できるだけポジション・トーク的なものは避けて製品紹介に徹しようと思っているものの、やはり限度はあります。本書は特に、好き・嫌いのレビューが目立つもので、この手の作品への言及はなるべく避けたいものの、実際読んでみたところ、分析的に解体できる部分もあるため、レビューを書いてしまいました。キーワードのひとつはドストエフスキーです。




【1】ドストエフスキー

一般的に人は価値観を脅かされると不安になります。理解できないものも不安になります。物語化して安心しようとします。

主人公の幼年時代の言動や、赤子の甥とナイフのエピソードは、作者による撒き餌ではないかと思います。
幼年時代に両親とカウンセリングに行ったものの、主人公は医学的には病気であるとされてはいません。
しかしアマゾンレビューや読書メーターを読むと、主人公を病気と断定しているレビューが複数あります。
こういう主人公は病気でないと不安になる、ということなのではないかと思うのですが、これでは作者の術中にはまってしまっているのではないでしょうか?

「ほらね、やっぱりあなたも不安になるでしょ?病名つけて安心したいのよね」

そんな作者の声が聞こえてきそうです。

共感できない、というレビューには、作者のこんな声が聞こえてきそうです。

「だから最初からそう言っているのに」

主人公はじめ、登場人物が極端にカリカチュアされているので、わかり易い反面、深みが感じられないのは中篇である以上仕方がないかと思います。これをドストエフスキーばりの長編で書き直せば、主人公を、病気という解釈の入る余地のない、ニヒリストと解釈されうる人物像で描くことは可能なのではないかと思います。

例えば偽装同棲者。

20世紀の思想は大きく三つにわかれます。ひとつは自分を変えることなく、世界の方を変える(改善する)という社会主義(含マルクス主義)に代表される理性に基づく社会改革思想、もうひとつは、自分自身を社会に適用させる実存主義思想、三つ目はこれらを構造で説明しようとする構造主義です。世界を変える(改善する)という思想は、一部の人間に、<個人の思想を世界に適用する>という鬼子を生み出しました。前近代においては、誇大妄想狂に過ぎなかった人でも、世のすべてを説明することが可能だった世界宗教思想が後退した近代において、本来は自分個人の思想に過ぎないものを、<全世界の原理を説明し、政治権力や武力で世界に押し付けよう>とすることが可能になりました。世界の原理を説明し尽くせる程知能が高く、知識を持っていると自負する人物ほどこうした傾向に陥りやすくなります。こうした万能感は、一般には思春期を過ぎて大人になる過程で、現実に敗北し、人々は世界での役割を受け入れて<大人>になってゆくわけですが、一部の能力のある人物は政治家や思想家/宗教家になったりするわけです。<世界の原理を体現する>ことに成功した思想家の代表はヘーゲルやマルクス、ニーチェという人々、政治家ではロベスピエール、ナポレオン、スターリン、毛沢東、というところになるのではないかと思います。

 しかし現実には世界はそれほど単純なものではなく、結局権力を握った政治家は自分の思想が世界を完全に取り込めない限界と知ると、自分の思想を世界に押し付けるため独裁者とならざるを得ず、粛清をやらかすことになり、政治家にすらなれない人物は<革命家>や<テロリスト>となったりしたわけです。一方で、自らが世界を変えることはできないと自覚し、世界内での役割を受け入れることで「大人」になった人々でも、一部には代わって自らに近い思想を体現してくれる人物に託すことで独裁者を待望するようになる、現代の一部はこういう構造です。政治的党派争いが、「アクチャルなむき出しの利権争い」であればよいのですが、その根底に、大人になっても解消されえなかった<自らの中に世界を体現したい欲望=世界を生きる欲望>にあるのだとすると問題は厄介です。本質は個人的利権争いの筈なのに、世界を説明ずける思想や価値観を持ち出して正当化するようになり、イデオロギーの争いとなるからです。

 『コンビニ人間』の登場人物白羽氏は、まさにこの、自意識過剰だけれども実現能力がまったくない無にもかかわらず、<世界を生きようとする欲望>を持ち続けている人です。縄文時代から現代社会までの一貫する社会理論を頭でっかちに「理解」し(たつもりになり)、その世界では自分は成功を収めることになっているものの(自分の思うように世界の方が変わらねばならない=革命)、現実はまったくそんなことはなく、しかし<世界全体を生きる自分>を維持するために、世界との結節点を最大限縮小し、主人公のヒモとなり風呂場に引きこもることで幻想の万能感を維持しようとする。借り物の社会主義思想でペラペラとしゃべり、理屈を捏ね回し人をうまく利用しようとするところは、まさにドストエフスキー『悪霊』のピョートル・ヴェルホーヴェンスキーです。

一方の『コンビニ人間』の主人公は、高い現実解析能力(知性)があるものの、ニヒリストで倫理感に不足が見られるところは『悪霊』のニコライ・スタヴローギンを髣髴とさせます。『悪霊』においては、”悪霊”は直接的には19世紀の社会主義思想を指していますが、『カラマーゾフの兄弟』においては、明らかに近代西欧の合理主義思想として捉えられています。『コンビニ人間』の置かれた状況は、近代合理主義的会社経営、更には近代合理的社会において理解されるさまざまな「役割」により”疎外”されている人物です。主人公は、社会で市民権を得ているさまざまや役割を断片的に演じることでいささか受身的に世界と折り合いをつけていたところ、<世界を生きるか世界を拒否するか>の二択しかない白羽氏と出会うことで、主体的に世界と折り合いをつけるようになる、この点が20世紀実存主義を連想させるところです。

 本書を読んでドストエフスキーを連想した人はアマゾンレビューで1件見つかりました。検索したところ、著者のインタビュー(「作家の読書道」)記事でもドストエフスキーに影響されたのでは、という指摘を受けたことがある、と書いているので、著者の作品にドストエフスキーを連想する方は少なからずいるようです。

 話はそれますが、ドストエフスキー絡みで高野史緒『カラマーゾフの妹』も最近読みました。レビューアの一人が、笠井潔が書けば良かった、と書いていますが、私の感想も同様です。そうして、多くのドストエフスキーファンの方にとっては許しがたい内容だったようですが、私はあまり違和感は感じませんでした。イヴァン像は確かにまったく違うと思いましたが、アリョーシャに期待しても駄目なのではないか、というところが。

 『カラマーゾフの兄弟』の図式は以下の通りです。

長男ドミトリー・カラマーゾフ(伝統的ロシアの体現者)
次男イヴァン・カラマーゾフ(近代西欧合理主義思想の体現者=ニヒリスト)
三男アレクセイ・カラマーゾフ(キリスト教的共同体の体現者)

19世紀、西欧近代合理主義の浸透に、伝統的共同体の解体を迫られたロシア社会の状況を描いた『悪霊』の10年後、ロシア社会の取るべき選択肢を描こうとしたのが『カラマーゾフの兄弟』です。作者が完成させないままに終わってしまったことと、アレクセイ・カラマーゾフに期待を寄せるような描かれぶりであるため、アリョーシャを汚すような『カラマーゾフの妹』は、ファンの方々には許せないのだと思いますし、私の印象も、アリョーシャが一番ましかも、とは思うものの、それで問題が解決する程単純な話ではないから、こんな大長編になっているのだし、そこにドストエフスキーだけではなく、近代化を中々乗り越えがたい現代世界の苦悩があり、発表から140年近くたった今でも読み継がれているのだと思います。

 10年ほど前にドストエフスキーの新訳が出るようになってから、日本でドストエフスキーブームが起こりましたが、私は、西欧近代化(最近はグローバリゼーションの名の元に議論されている)の苦悩に晒されている社会では、どこでもドストエフスキーは読まれるのではないか、と思っています。実際、ブルガリアやフィリピンでドストエフスキーを読んでいる人に出会いましたしトルコで読んでた青年は学校の課題で読んでいました(トルコは反共産主義教材として扱っていたのかも知れないが)。この点で、本来であればイスラーム社会でも人気が出てもおかしくないように思えるので、イスラーム社会におけるドストエフスキーの受容具合を知りたいと常々思っているのですが、なかなかドストエフスキーが読まれているという情報を得ることができないため、キリスト教的なところがイスラーム社会では駄目なのかも知れない、などと推測しています。なんだかんだで知識人は西洋思想かぶれの面のあるイランなどでは読まれていておかしくないように思えるのですが、、、
 
 日本での受容の図式は以下の通りです。

長男ドミトリー・カラマーゾフ(伝統的社会の体現者=伝統的日本社会)
次男イヴァン・カラマーゾフ(近代西欧合理主義思想の体現者)
三男アレクセイ・カラマーゾフ(世界宗教や何らかの近代欧米思想へのカウンターとなる思想)

世界宗教や伝統社会が、振り返り見れば美点ばかりが目に付くような印象があるとしても、実際には多くの問題点があり、近代社会はそれら問題点を多かれ少なかれ改善してきたということもまた事実です。『コンビニ人間』のレビューにあるように、実存主義が、ある意味、現状の社会と自分の自己肯定に終わってしまう、という点は確かにあるにしても、もはや後戻りのできなくなった近代社会における現状選択肢のひとつではあると思います。

 深読みすれば、世界文学たるドストエフスキーに通ずるテーマを扱っているので、本書が「文学賞にあたらない」とする指摘は少し違うのではないかと思います。私の印象は、本書により戯画化されている内容に不愉快さを受けた人が、それゆえ「こんな作品は文学賞に値しない」といっているようにも思えます。芥川賞は中篇に与えられるものなので、極端な戯画化されているのは無理からぬところです。長編でドストエフスキーばりに重厚に描けば「文学」になるのでしょうか。


【2】風刺文学

 過去の作品を見ても、この作者は社会の価値観に波紋を投げかけることを意図しているようですし、芥川受賞も波紋を意図してのことではないかと思われ、この意味で賞に値する作品云々の議論になりやすくなっているように思えます。文学的に感じたのは冒頭とラストだけで、途中から思想小説という印象になりました。こういうところは筒井康隆に通じるところがあるように思えます。筒井康隆は芥川賞のイメージと違うだろう、という観点からの芥川賞にあたらない、という指摘は確かにその通りかと思います。

 現代の先進諸国は多様性に寛容な社会となってきていますが、既知の市民権を得ている多様性は許容できるものの、新たに未知のものがでてきたら不安になるということはあり続けます。市民権を得ている多様性ではあっても、社会のどこかにあるのはいいけれど、身近な所に登場すると困惑する、というパターンは多いのではないかと思います。本書は個々の登場人物に感情移入したり、万人を納得させ得ような構造をそもそも持っておらず、一種の風刺小説だと理解すればいいのではないでしょうか。

 そもそも筒井康隆がそうですが、作者は登場人物に一切感情移入していなかったりして、へたに感情移入して読んでしまうと、「お前も戯画化してやる~」と強烈なしっぺ返しを喰らったりします。『コンビニ人間』の著者が30代未婚・子無し・働く女性の視点で描いているので、基本的にはこの要素を持っている方を裏切るような意図はないように思えますが、そうはいっても、見る人によっては病気だと思える描写もあったりするので、著者が主人公を全面肯定している本だと断定しまうと、いや違いますよ、みたいな冷や水をかけられる可能性はありそうです。他著のテーマを見ている限り、この可能性は低そうで、筒井康隆のように、あらゆるものをなで切りにするほど身ふたもない感じは無さそうな印象を受けますが、油断はできません。少し意地悪くとれば、あるレビューアが書いているように(こちらに「一般的なOL等に否定されない程度に作家らしい態度を取る、というのは現代を生きる日本の作家に課せられた疚しいハードル」とあります)、コンビニ経験者やコアな読者を敵に回さないよう、作者は身を安全圏に置いている、と言えなくも無い部分は確かにあり、また一面では、率直に発達障碍者のダイバーシティを単に描いた、という解釈も成り立ち得る余地を残しているところなどに、周到な戦略を感じます(この点、著者自身がスタヴローギン的な感じもします)。

 安易な共感を求めると返り討ちにあう可能性もありながら、著者の主張(風刺)だと思われる部分に共感するところも多く、どっちに行っても作者の術中から抜けられない、そんな風に思わせる、意外によく出来ている作品だと思いました。



【3】コンビニ店員

 私は、コンビニ店員になったこともなく、業務で関わったこともないので、実際のところは良くわからないのですが、主人公のコンビニ店員は、非常に有能に見えます。これまで日本トップ5に入るコンビニの本部システム導入案件に幾つか関わったことがありますが、最初の頃(25年近く前)はBIやデータ・マイニングという言葉さえ無かったものの、現在においてビッグデータと呼ばれるシステムはセブンイレブンなどでは既にあり、膨大なデータを各店舗から吸い上げ、本部で解析し、店舗側は本部の指示通りに商品を入れ替えていればいい、という印象は確かにありました。しかし、15年程前から通常の商品だけではなく、公共サービスやチケット販売、目まぐるしく行なわれる多彩なイベントやキャンペーンなど、あまりに複雑化した業務に、本部側システムを見ているだけでも、店舗従業員は高度な業務能力が必要なのではないか、との印象を抱くようにようになりました。この印象が深まったのは、7年前に引っ越した自宅の両隣に某大手企業のコンビニと、同じ企業の100円ショップを見た時です。100円ショップの従業員は一部外国人、コンビニは日本人。100円ショップはまさに円高の産物で、アベ政権になって円安に転じると、為替レートに応じて次々に100円以上の商品が登場し、当初は日本人の従業員もいたものの、やがて外国人だけとなり、それでも持ちこたえられずに2年程して閉店しました。客の目から見ても原因は明らかで、競争力が価格しかないためです。一方のコンビニは、円安になっても特に大きな値上げも無く(元々100円ショップより単価が高いため)、店員も日本人だけ。愛想もサービスも益々向上する一方。様々なIT機器が導入され、機械の質問もある程度対応でき、これは大変な業務だとの印象を抱くにいたりました。スーパーのレジ打ちの方が分業されている分、コンビニより遥かに単純労働なのではないか、という印象があります。いまにいたるまでコンビニ店員経験者と直接の交流が無い為直接的情報は無いものの、本作に描かれるコンビニ業務の高度さは、そうした印象の裏づけになりそうです。

 店舗周辺の状況を常に確認し販売機会を逃さない*1、駄目な店のポイントを瞬時に見抜く、仕事のための健康管理を怠らない、18年間無遅刻・無欠勤、不満を口にしない、新人教育も任せられる。・・・人間ばなれしていますが、もしこうした人物が実在するとしたら、よほどのブラック企業で無い限り、普通に考えればアルバイト契約以上の待遇が与えられるのではないかと思います。どんな有能な社員でも、18年も同じ業務を続けることは飽きがきて難しく、必ずローテーションとなるのですが、それもなく、しかも進化の激しいコンビニで18年も続けられる。本人が黙っていても待遇があがりそうなものです。もしこうした店員が、1000円前後の時給だとすれば、待遇改善があってしかるべきかと思います。もしかしたら、こうした点を著者は告発しているのかも知れない、との印象も受けました。

 というのも、著者は非常にクレバーな人ですから、女性にせよ男性にせよ、本人の意思で子供を育てずに生きていく、ということは、老後の社会保障を子供世代に頼ることはできないことを認識している筈だからです。つまり、老後の生活を支える貯蓄を現役のうちに蓄えなければならない、業務を有能にこなせる人材(熟練労働者)は、たとえ子世代に支えられなくても、自分の老後を自分で面倒が見れる資金を稼げる給与であるべきだ、というロジックです。これは確かにその通りかと思います。
 しかし、逆に言えば、主人公がここまで有能な設定でない場合、共感する人がここまで多くなったのかどうか、このあたりにも著者の周到さを感じました。

*1 私的にはこれは相当重要なポイントです。コンビニに限らず、他業種でも、顧客から戻ってきた部下に報告を聞き、あれこれヒアリングして的確に顧客状況を判断するには、”単に言われた仕事だけやってきました”的なのでは駄目なのと同じ理屈です。もちろん上司側にもそれを引き出せるスキルがなくてはなりませんが、、、

 
【4】男は狩をし、女は子を育てる社会

 登場人物の白羽氏と同じ主張をしているレビューを見つけました(こちら)。

 「子育てママの権利拡充が叫ばれる昨今、反子育て映画のジャンル化は急務と考えます」

 現実にこういう人と遭遇したことはありませんが、こういう人は、子育てママの権利が拡充され、女性一人で子育てが出来るような環境ができてしまうと、男は不要となる、ということを恐れているのでしょうか?メスがオスを食べてしまう事例は、昆虫では幾つか見られる話ですし、白羽氏は

 「女というだけで寄生虫になることが許されている」

と主張していますが、オスがメスに寄生するアンコウのような事例もあります。

 哺乳類では無いようなので、進化論的に「オスが狩、メスが子育て」という主張は成り立つのかも知れませんが、そうでない可能性もあります。この話を読んで直ぐに思い出すのは、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの小説群です。

「男は本当に必要なのか?」

この100万年くらいはそうなのかも知れませんが、百万年後は違うかも知れません。私は中学生のとき、シマックの『都市』を読んで、「人類はもしかしたら、1億年後のゴキブリ文明を育てるのが役割かも知れない」「火星や金星にゴキブリを運ぶのが人類の役割で、火星/金星でゴキブリは突然人類より進化するかもしれない」と考えてしまいましたし、アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』で地球にやってきた宇宙人が、「進化の袋小路に入った我々にとって、新人類はうらやましい」と発言したように、1億年後の地球人は、新たに勃興したゴキブリ文明に、似たような発言をしているかも知れない、とか思ってしまったクチです。オスの役割は、メスだけの生物社会を育てる進化の踏み台かも知れない、という可能性はあるかも知れないとは思ってます。

【5】未婚・子無し

 さて、本書では、主人公の同郷の同級生の未婚・子無しのキャリア・ウーマンが登場していて、この人は市民権を得ています。しかし、同じ非婚・子無しの私の経験からすると、30代後半くらいから、非婚・子無しは扶養家族のある者のより+30%以上のパフォーマンスを出してあたりまえ、いや出せ、というプレッシャーを感じるようになりました。30代の頃は、独身税払うからそれでなんとか納得してくれないだろうか、と考えていましたが、ここ数年で、年金ゼロで生きる覚悟と準備が必要だと考えるようになりました。理由は前述の通り、子供を育てないのに子供世代から社会保障を受けることはできないからです。こういう可能性を想定しています(積立方式+世代内賦課方式)。

1.平均余命まで最低限の生活ができる資産がある生涯子なしの人は、余分全額を同世代の他の人の社会保障に回す(強制徴収・同世代内賦課:非積極的子なしの人は控除)
2.仮にそうなることが公的に決定されても、積極的非婚・子無しの人は生活を変えないと思われる。資産隠し・非積極的子なし証拠捏造と徴収当局との攻防となる。
3.最低生活年金受給額に拠出額が到達できなかった人(強制徴収分を分配される人々)への不平等感は起こるが、彼らは決して怠け者だったわけではない、との論調が支配的になる。
4.IT業務が進化し、足腰が弱って外出ができない老齢になっても、ベッドの上で勤務できる生涯就業が広まる
5.2人以上の子育て夫婦は従来型の賦課方式、子供一人は積立と一部同世代内賦課

このように、国民年金も厚生年金もゼロとなる可能性と95歳まで生きる可能性を想定して人生設計をするようになりました。最近まで平均寿命の85歳で年金ゼロで想定していましたが、今年に入り95歳までを想定しないといけないと考えるようになっています。生涯就業に関してIT業でどうにかしたい、という考えは10年程前からあります。当初は起業を考えていましたが具体的なアイデアがあまり浮かばないうちに起業して失敗した友人が出たりしてしまったこともあり、最近では普通に「ベッド上でもコールセンター業務の延長線上でいけるのでは?」となどと考えるようにもなっています。
 積立方式+世代内賦課方式は現実の導入は簡単ではないかも知れませんが、私の同級生には、将来の財政破綻時に配給制が採用されることを想定して戦中戦後の配給制を研究して対策を練っている人もいたりしますので、それぞれに最悪の想定をしている人は結構いるように思えます(彼は官庁の人ではなく、仕事ででもありません、念のため)。『OL進化論』の何巻だったか忘れましたが、「私って一生何かに備えているのね」という話がありましたが、私の人生もそんな感じだったし、今後もそんな感じでいきそうな気がしています。85歳になっても、残りの10年間に備えて(過度のインフレなど)暮らしているのだろうな、というような。

【6】まとめ

いつものように話が拡散して終わってしまいましたが、人類が自然から離脱して、社会や心理というものの領域を拡大してきた方向性からすると、主人公のありかたは人類の進化の一部であるように思えます。グローバリゼーションもドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を書いて140年近く経た現在も問題であり続けるということは、そこにやはり有用性もあるからだと思われます。近代西洋が現在も新たなイノベーションを生み出し続けていて、その成果物を捨てられないのであれば、問題点を解決しつつ、前向きに受け入れてゆく実存主義的ありかたは、現在でもある程度有効なのでは?というのが本書自体と本書への反響を見ていて抱いた一番の印象です。

※つけたし
坂田 靖子、橋本多佳子、波津彬子共著の『フレドリック・ブラウンは二度死ぬ』の中の現代に転移したナポレオンの話を思い出しました。俺はナポレオンだと大真面目に主張したため精神病院に入れられた男(本当に本人)が、同僚の患者に言われます、「君がナポレオンでないならいつか退院させてくれるだろう。もし君が本当にナポレオンなら、ここから出るのは難しいだろうね」

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by zae06141 | 2016-09-22 00:15 | 世界情勢・社会問題 | Comments(0)
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