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最も印象に残ったのは、ラスト近くのセリフ
”君に私を消すことはできない 私は君の一部なのだ 君たち全員の” および、エンディングのひとつ前の歌カーチャ・エプシュタインの本作の原題でもある歌”Er Ist Wieder Da”(彼は帰って来る)の歌詞(オリジナルのドイツ語版の歌詞はこちら、英語版テキストはこちら)の中のいちフレーズです。 ”彼は戻ってくる でも私の為にじゃない*1” この映画には、うっかりしていると、ユダヤ人への感情を露にする部分と犬殺しさえしなければ、この人に任せてもいい、と思えてしまう部分があります。映画のヒトラーは真面目に現在のドイツの諸問題を解析し、人々に問いかけ、真摯にその解決を探る人物として描かれています。ひっかかるのは反ユダヤ感情や犬殺しと世界征服を口にする場面くらい。戦争や弾圧をしない、任期限定の独裁者なら歓迎、という風潮は実際ありそうです。しかし、本作においては、エンディングの歌詞で気づかされます。 歌詞の意味の解釈はひとそれぞれかとは思いますが、私の受けた印象は以下のものです。 「一時的に私/あなたの方を向いてくれていても、やがて彼はいなくなる。戻ってきても、私/あなたの方を向いてくれない。そういうものよ」 *1 英語版では、”He is back, but not with me”、ドイツ語版の歌詞を翻訳機で英訳しても、”That he was not with me”となるので、”私が理由で(私のために)”というニュアンスだと思います。"but not for me"ではないものの、歌詞全体の文脈からすれば、明らかに、for me としての”私の為に戻ってきたわけじゃない”という意味でよいものと思います。 現実の独裁者の最重要の関心事は独裁を続けることです。ひとびとの社会不満が一致することはほとんどなく、あったとしても既得権層や既存政権を倒す時のみ一致し、政権奪取後はそれぞれの不満が異なることから、外部に敵を作るか、内部の勢力を排除することになるのが歴史や現在在任中の独裁者たちが行ってきた/行っていることです。日本では、塩野七生の描くカエサル像の影響などで独裁的政治家を待望する人々が一部にいるようですが、独裁者が権力奪取時、既得権層を壊滅させても、独裁者が長年政権を維持する過程で、内部排除者を次々に生み出して弾圧し、やがては当初の支持者である層も順番に標的となる時が来る、ということは、少し考えてみればわかる話です。もしそうならないスキルのある人がいるとするなら、そういう人は、そもそも独裁者に頼らなくても自分の力で不満の解消を行える筈です。 そういうわけで、ラストに至って「やっぱ独裁者より衆愚政治を地道に改善してゆく方がまし」だと気づかされることになるわけですが(あくまで私の場合)、それでも本作に登場するヒトラーは、魅力的に見えます。恐らく多くの視聴者もそのように感じる部分がある筈です。それは何故かといえば、本作で描かれるヒトラーは、大衆の集合表象でもあるからです。これはラスト近くではっきり述べられています。 君に私を消すことはできない 私は君の一部なのだ 君たち全員の 問題は集合表象にあるわけですが、この状況をドイツ人のサブカル活動家マライ・メントラインがコラム「帰ってきたヒトラー:広報活動を通じて「視えた」ものとは!」で「理性・教養主義に対する失望と怨嗟」だと端的にまとめています。これはわかりやすい指摘ですが、ちょっとまってよ。と思う部分もあります。 理性・教養主義に対する失望は、それこそナチズムとスターリニズムを生み出した二十世紀前半に人類の知の行き着いた先を分析した、二十世紀を代表する思想家であるアドルノやホルクハイマー、アーレントといった人々が既に行っていた筈です。遡れば近代理性の陥穽は、ニーチェにおいて提起され、第一次大戦後に既に近代合理性に抑圧された人類の感情というものが問われていた筈です。ヒトラーとナチズム、スターリニズムのような非合理的な野蛮や全体主義が、なぜ科学と理性が興隆している現代に起こるのか、との分析は、1980年頃には既に終わっていたものと思います。それにも関わらず、30年以上過ぎた現在でなぜ同じ問いかけが続いているのか。 これは、冷戦後の米国中心のグローバリゼーションが、この問題に対する思索を先送り、或いは一時的忘却に追いやってしまった部分があるからではないのか。という気がしています。 1960年代、ドイツでは、既に”ヒトラーとナチスだけが悪かった”という認識は問い直されていました。ドイツ史学会では、1960年代、「ドイツ特有の道論争」というものがありました。第三帝国に至る思想は、ヒトラーとナチスが天災のようにドイツにもたらしたものではなく、ニーチェやルターにまで遡る社会体質と思想(ドイツ特有の道)にあるとするものです。一方、1986-7年にドイツで勃発した「ドイツ歴史家論争」は、ナチスとヒトラーの災厄を、スターリニズムなどと同一の文脈においたもので、ドイツ史特有の問題ではない、とする点で特有の道論争とは異なります。しかし、ナチズムとヒトラーを近代ヨーロッパ史の文脈に置くことで、”ヒトラーとナチスだけが特別である”とする観方を相対化したという点では、特有の道論争と共通しています。 このような論争を経てヒトラーとナチスは悪かったが、それ以外にも伝統的ドイツ自体や、近代合理性や近代欧州社会そのものの中にも要因があるのだ、という見解は、ある程度社会で共有されており、”ヒトラーとナチスだけが悪”という言説は、政治的方便だと認識していたのですが、今回『帰ってきたヒトラー』を見て、ヒトラーがインタビューする一般の人々に継続していることが確認できた一方、ヒトラーを演じた役者が驚きを表明しているところに、冷戦終了がこうした言説を(理性・教養主義に対する失望同様)一部の人々において、一時的忘却に追いやってしまったのでないか、という印象を受けました。 こうした点では、冷戦終了直前くらいに議論されていた思想の一部は、案外今の時代に再び有用なのではないか、という気がしています。全体としてみれば、冷戦期にソ連共産主義陣営が西側自由主義体制を相対化する存在としてあって、西側の思想界で西側自由主義体制の問題点(資本主義の問題、近代世界システム論の問題、集合感情のコントロール)、を議論していたところ、冷戦終了で西側自由主義体制は正しかったみたいになって問題点の議論は置き去りにされたけれども、結局ひととおり西側自由主義体制がグローバリゼーションという形で世界にいきわたったところ、問題点が再浮上してきた、という感じがしなくもありません。個人的には、排外主義とか国家主義とか、いずれは比重が減少するものを論じるより、資本主義とグローバリゼーションとイノベーションの果てと、人類における非合理的感情の解消法を正面から論じてゆく方が重要だと思っています。資本主義と自由主義思想は単なる経済体制を越えて、今や”永遠にイノベーションを行い続ける”という、人類史上画期的な展開に向かっているからです。こういう観点からも、冷戦末期の西側の現代思想は今読めば面白いもの(ドゥールーズ=ガタリとか)がいろいろあると思うんですが、、、、。 マライ・メントラインが代弁している、 「「道徳的に正しいとされる」建前の手続に従ってもな~んも良いこと無いやんか! どうせ年金も出ないやんか! きれいごとばかり言いよって、理性とか教養とかいうヤツらはこの俺を救わなかった!(中略)そして困るのが、この問題、この力学を正面から収拾しようとする知性・理性の言論があまり見受けられない点です」 という言論があまり見られないのは、二十世紀におけるいくつかの実験で検証済みで、どうなるかはだいたいわかっているからでははいでしょうか。それは思想とか、宗教や、或いは巨大な知性が解決できるものではなく、寧ろテクノロジー的に不満の流路をどのように解消するか、というテクニカルな問題になっているのではないかと思います。 選択枝一、普通に政治・社会運動→取り合えず有効(ないよりまし) 選択肢二、独裁権力で全員平等を強制する→ソ連型抑圧社会で実験→破綻 選択肢三、全員道ずれのカタストロフィ→戦争→巻き込まれた人々は懲りた 選択肢四、スケープゴート→カウンター集団との内ゲバ→共倒れ or 失敗して内乱 選択肢五、薬品や手術で矯正する→?(現在はNG、将来は不明) 選択肢六、ヴァーチャル世界で不満低減→→→? 選択枝七、実存主義、各種宗教・思想で納得する 選択枝八、A.I.に期待→→? 選択枝九、苦悩/苦痛転移/体験装置の発明→→→??? ひとびとの不満にはキリがありません。私は部下や後輩には「転職会社に登録して、1年に一度話をしにいきなさい」とずっといってきましたが、これは暗に転職を促しているわけではなく、自分の市場価値を知ってもらう為です。また、いざ転職という時にも役立ちます。確かに企業は人材を使い捨てにする部分があります(リストラを卒業といったりします)。転職会社の人はどういうスキルが価値があるのか、その人が、そのスキルを満たしているのかどうかを客観的に指摘してくれます。また、自分が直接注意をして煙たがれるのを回避することができます(これは選択肢三の、カウンターをあてがう方法に近いとは思います。たしかにずるいところはあります)。不満を口にする人は多いと思いますが、本当に誰が見ても不満をもって当然でしょう、という環境にいる人は、ネット空間にあふれている言論ほど、実際には多くは無いのではないかと思います。集合表象は、(色んな人と会話して、多方面から自分の立ち位置を把握するという手順を踏まずに)不満の上澄みだけを掬ったものなので、現実に適用しようとすると無理がでてしまい、挙句の果てに自分の身にも降りかかってくる、という結果になってしまうからですが、そうであってもなかなか止められないところは問題だと思います。 私が昔から開発できないか、と思っているのは、九番目の苦悩/苦痛転移/体験装置です。不満は主観的なものなので、他の人と比較することがなかなかできません。そこで苦悩/苦痛転移/体験装置で他人の苦悩がわかればある程度解消させる、合理的に対処することができるのではないか、と思ったりしています。高齢者体験セットと似た発想です。出世に不満を持っている人には上司体験ヴァーチャル・ロールプレイングとか、排除されている人・被差別者、少数派の状況を体験するヴァーチャル・ロールプレイングなども遠くない将来技術的にはできそうです。真面目な独裁者なら、自分の苦悩を国民全部に理解してもらうためにこの手の転移装置を望んでいるかも知れませんが、、、 現実的には、選択肢六の「ヴァーチャル世界で不満低減」技術が現在もっとも技術革新が進んでいる分野で、今後も飛躍的に進歩する分野なのではないかと思います。ヴァーチャル空間でA.Iの擬似人間相手に差別・迫害・暴力と欲望をやりたい放題。優越願望や承認欲求を満たすことが出来るようになりそうです。或いは上述のように、ヴァーチャル・ロールプレイングで差別・迫害・暴力を振るわれる側になって体験してみる、というのも可能性がありそうです。飛浩隆がSF小説『 廃園の天使』で描いたような世界は遠からず来るのではないかと思います。また、ヴァーチャル機器で現実を変容させて社会に適用させる、という技術もできそうです。選択枝八のA.I.は膨大なデータを解析しているだけなので、結局選択枝二~四を実行しそうですが、未知の領域なので取り合えず期待はしてます。言語の壁をITで低くして、グローバリゼーションが作り出す周辺の人々が結束して中心に改善圧力をかけることができるように百年後くらいにはなるような気もしています。IT業界はこの三つには貢献できるのではないか、と思っています。 マライ・メントラインの代弁は、以下のように分解することが可能です(実際に知人で近いことを言っている人が何人もいますが、よく話をきくとだいたい以下のように分類できます。これは私の経験的な感想です)。 ・な~んも良いこと無いやんか!→人生大体その通りです。人生は我慢と努力の連続です。我慢と努力をしていても大していいことはありませんが、我慢と努力をしないともっと酷いことになったりします。リア充(正確には「リア充」という表象の一部を演じている人が圧倒的)とか漫画や小説の主人公など架空の存在と比較すれば良くはないかも知れませんが、「何も良いことが無い」のか、多様な人と会話してみる必要があるのではないでしょうか。 ・どうせ年金も出ないやんか!→これはその通りで対策する必要があります(積立方式と世代内賦課方式の組み合わせを導入するとか、人生90歳で2.5世代となる時代にふさわしいキャリアパターンや持続モデルの構築と導入などが必要なのではないかと思います) ・理性とか教養とかいうヤツらはこの俺を救わなかった!→理性と教養の限界は既に知られているところで、人々にそうと気づかれないような高度な管理社会化や、不満や感情解消流路の整備が現在模索・実行されています。 ・この俺を救わなかった!→これらの言動のほとんどの場合、自分が救われるべきだと錯覚している可能性があります(ただし確実にほぼ誰がみても救われるべきだと考えられる人々はいるので、そこについては対処する必要があります)。 取り合えず不満の声を上げることは必要です。改善に向けての第一歩です。しかし、ほうぼうに相談して自分の不満が客観的にどうなのか、その位置づけを認識することがまずは必要だと思います。個人的には、「不満」が「問題」であるのかどうかを、切り分ける方法は、それなりの企業では導入されているように思えるので、こうした手法が社会に広まり足りていないのであれば、それを広める方法を考えていきたいと思っています。 本作を見て、連想した作品がいろいろとあります。 アニメ『PSYCHO-PASS』(テーマ:集合表象の管理) SF小説「夢見るポケット・トランジスタ」亀和田武『まだ地上的な天使』所収(テーマ:残酷なリアル世界をヴァーチャル化で美化する、この手の作品にはP.K.ディックの作品が多数ある) SF小説『 廃園の天使』(テーマ:ヴァーチャル世界でA.Iを迫害して不満解消) 小説『海の向こうで戦争が始まる』(テーマ:カタストロフィ/祝祭願望(人類における伝統的抑圧解消法、ニーチェ以来の現代思想の主要テーマ)) 漫画諸星大二郎『夢見る機械』(テーマ:ヴァーチャル化の行き着く果て) 映画『THX1138』(テーマ:薬物による抑制) 映画『時計仕掛けのオレンジ』(テーマ:手術による抑制) 小説『ハーモニー』(テーマ:管理医療技術による全人類の意識の強制同調) 映画『紳士協定』(テーマ:差別ロールプレイング) 小説『イワン・デニーソヴィチの一日』(テーマ:抑圧社会の乗り切り方) 小説『コンビニ人間』(テーマ:抑圧社会の乗り切り方、感想はこちら) SF小説『プレイヤー・ピアノ』(テーマ:資本主義&管理社会の行き着く先) 専門書『民主主義がアフリカを殺す』(テーマ:独裁者の傾向解析) 書籍『君はヒトラーを見たか』(1人数行の、市民のヒトラーの記憶インタビュー集) 『海の向こう・・』、『イワン・・・』『プレイヤー・・』を読んだのは約30年前なので、今読むとイメージが変わるかも知れません。そのうち再読してみようと思います。集合表象の問題を扱ったSF作品は結構あるように思えるのですが、なぜか『サイコパス』しか連想しませんでした。マライ・メントラインが指摘しているように、思想が行き詰まりを見せているのであれば、こういうときこそ思考実験としてのSFは有用なツールなので、SF作家は活躍するチャンスだと思う次第です。
by zae06141
| 2016-09-29 00:18
| 世界情勢・社会問題
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