古代世界の午後雑記


「古代世界の午後」更新履歴と雑記
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セウェルス凱旋門に描かれたパルティアの都クテシフォンの概観

※10/26(水)~ トルコの歴史ドラマ『エルトゥールル』第三部放映開始 第二部以上にビザンツが登場しそうです。

 同時代に限らず後世含め、史料が殆どなく、遺跡すら殆ど定かではないパルティア・サーサーン朝時代の都クテシフォン。サーサーン朝時代の一部の遺構は少し発掘・調査されているものの、概観については殆どわからず、パルティア時代となると、まったくといっていいほど史料が無い幻の都。パルティアもサーサーン朝の都市は、ローマ都市のようにある程度の統一的な規格が見られる都市と違い、遺跡を見る限り、地方により結構多様です。パルティア時代のメソポタミア都市遺跡として有名な世界遺産ハトラ遺跡がありますが、ハトラのイメージをそのままクテシフォンに適用し難いところがあります。ローマについても、ローマやコンスタンティノープルの概観を地方都市から類推することは難しいものがあり、首都の景観は独特のものがあります。そういうわけで、まったく大した内容ではないのですが、少なくともクテシフォンに遠征したセウェルス帝が作らせた凱旋門のレリーフに登場するクテシフォンの概観は貴重なものがあります。

 




 概要と写真は、古典サイドLiviusのセウェルス凱旋門のレリーフの説明に端的に記述されているのですが、4枚つのレリーフに対し、写真が6枚あったり、実際のレリーフとは異なる写真も掲載されていて、確認に時間がとられてしまいました。そこで、本記事では、他のサイトの写真含めて解説したいと思います。

 セウェルス帝凱旋門の東側(コロッセオ側)には、ニシビスとオデッサでの戦闘のレリーフ(こちら)、西側(カピトリーノの丘側)には、セレウキアとクテシフォンでの戦闘の場面があります(こちら)。ニシビスの戦闘(左側)のレリーフは磨り減っていて、目視では何が描かれているのかわかりずらい程です。そこで、復元レリーフが製作されていて、Liviusのサイトに掲載されているニシビスの場面(こちら)とエデッサの場面(こちら)は、都市ローマの復元模型で有名なローマ文明博物館による復元レリーフの画像です。Liviusには線画のリンクも貼られています(こちらはニシビスの浮彫りの線画)(こちらはエデッサの浮彫りの線画)。非常に明確に町の概観がわかる浮彫りですが、残念ながら、復元時の想像の可能性も高そうです。なお、レリーフは、下から上に向かって時間が経過しているとのことです。恐らく、トラヤヌス円柱同様、左下→右下→左中→右中→左上→右上の順番で読んでいくのではないかと思われます。

 西側レリーフの左側がセレウキア攻撃の場面、右側がクテシフォン攻撃の場面で、西側はオリジナルも明瞭です。Liviusのサイトには双方、オリジナルの画像と復元画像が掲載されています。セレウキアのオリジナルがこちら復元浮彫り画像がこちら線画がこちらです。クテシフォンのオリジナルはこちら復元浮彫り画像がこちら線画がこちらですこちらのサイトのオリジナルの写真も有用です。

 クテシフォンの概観は、レフリーフの右上と、右下の少し上の部分に登場しています。がっかりするような内容ですが、これだけでも凄いことだと(個人的には)思うわけです。もっとも、これがどの程度参考になるのか?という点は吟味しなくてはなりません。例えば、イスタンブルの聖ソフィア教会内のモザイクに、ユスティニアヌスが聖ソフィアを建設した時に製作されたと思われるこちらのモザイクがあります。左側の人物が聖ソフィアを建設したユスティニアヌスで、手に聖ソフィア教会の模型を聖母マリアとイエスにささげています。右側は、コンスタンティノープルを建設したコンスタンティヌスが、都のミニチュアを同じく聖母マリアとイエスにささげていますが、聖ソフィア教会の模型はともかく、コンスタンティノープルの模型は、まったく現実の概観と関連していません。

 こういうことと同じで、セウェルス凱旋門のレリーフのクテシフォンも、極度に抽象化され、原型を留めていない可能性もあります。しかし、遠征に参加した兵士も見る可能性のある、同時代に建設された凱旋門ですから、遠征参加者から、「ちょっと違うんじゃないか」という所感をもたれることが無い程度には、皇帝自身含め、実見した人物の意見を反映した内容となっている筈です。

 なお、セウェルス帝の遠征については、『ローマ皇帝群像』邦訳第二巻p122-124では、非常に簡単で、ニシビスやオデッサ、セレウキアの記述はありません。ディオ・カッシウスの『歴史』76巻ではもう少し詳しくふれられていて、ニシビスとセエレウキアに関する言及はありますが、エデッサに関する記載はありません。もしかしたら他の史書かも知れませんが、凱旋門自身に、地名が刻まれているのかも知れません。ディオの記述(少なくとも英訳)では、セレウキアは既に放棄されていた町だと記述されていますが、凱旋門のレリーフでは、戦闘場面が描かれているので、都市としては放棄されていたものの、セウェルス軍の侵攻に、迎撃する軍隊が派遣されていた、ということなのかも知れません。

 なお、凱旋門の別の部分(下の方or側面)の画像もLiviusの別のページ(こちら)に掲載されていて、その画像には、捕虜となった一般のパルティア市民が描かれています(こちらと、こちら)。さらに、セウェルス帝凱旋門かどうか定かではないのですが、「セウルス、凱旋門」で画像検索をかけたところヒットした画像(こちら)にも、同じようなパルティア人の浮彫りがあります。特徴的なスキタイ帽子を被っていて、衣服の様子もよくわかる画像となっています。現在発見されているパルティア人の彫像は、ハトラ出土のハトラ王ウタル(こちら)とか、同じくハトラ出土の司令官像(こちら)や、シャミー出土の貴族像(こちら)などがありますが、帽子のひだの様子までわかる彫像は、(貨幣の浮彫り以外)パルティア側で出土したものには無いので、セウェルス帝凱旋門の、一般人だと思われる浮彫りは非常に貴重で参考になりました。なお、スキタイ式帽子型のヘルメット(こちらの画像はフリギアのもの)はあったようで、Liviusの、パルティア市民のレフリーフの解説に、「彼は市民である、なぜなら、彼を連行しているローマ人は、市民だからだ」とあるところを見ると、パルティア兵の軍装にもスキタイ帽子型のものがあったのかも知れません。スキタイ人(サカ人)とパルティア人は、居住地域も近いので、似たような風俗であることはわかるのですが、フリギア人とも似ている(例えばこちらの復元画)ことや、クテシフォンに住むようになってから350年近く経っているいるのに、スキタイ帽子を被っているパルティア人には驚きました。

 ところで、数度のイラン旅行で多数の史跡を訪問されているバハラム氏(サイト「空の旅」はこちら)は日本語情報のない史跡も多数訪問されています。今夏はエスファハーンとケルマーン州を訪問され、パルティア・ササン朝時代の、日本語で情報が存在しないと思われる史跡として以下のものを訪問されています(リンク先はバハラム様のツイート、舗装道路遺跡は情報のみ)。

パルティア後期~ササン朝初期の拝火寺院(エスファハーン州カーシャーン西30km)
ホルヘ遺跡(セレウコス朝からパルティア初期のヴィラ遺跡:イスファハーン州カーシャーン西90km)
パルティア時代の舗装道路(ケルマーン州都ケルマーン郊外)
ケルマーンのササン朝時代のアルダシール城とドフタル城(ケルマーン州都ケルマーンの市街郊外)

どこの国でも現地でしか情報を得ることができない遺跡は多数あります。私はパルティア・ササン朝の遺跡情報を収集しているのですが、これらについても、今以上の情報を得ようとするなら、現地語をある程度取得しなくてはならないことがバハラム氏の成果からもよくわかります(バハラム氏は以前の旅行でも多数現地でしか見出せない史跡を旅行されています)。幸い?なことにパルティア・ササン朝旧領のうち、イラクやアフガニスタン、イエメンなど治安が悪すぎていけないところが多いので、とりあえずペルシア語を学習してイランに探索旅行にでかけたいとは思うものの、なかなか取り組み出せないのが情けないところです(2012年頃アラブとイランの歴史映画探求時に一時的にアルファベットを読めるようになったのですが、もう忘れてしまいました。一度若干学習してみて大変さがわかったことで余計に再挑戦しにくくなってます)。

 パ・サ遺跡については、湾岸地域のものにも興味がでてきました。
 最近後藤健著『メソポタミアとインダスのあいだ』(筑摩書房)という、古代ペルシア湾岸文明の書籍を読みました。非常に興味深く、この本ではじめてパルティア・ササン朝時代の湾岸地域に興味をもったのですが(この本の主題は前3000年紀の湾岸文明で、パルティア・ササン時代への言及は一切ありません)、巻末の文献一覧をざっとみていて少し不安になったのは、発掘者たちの古代オリエント文明時代の遺跡調査の熱意の前に、パルティア・ササン朝遺跡はついでどころか、ほとんどout of 眼中で、ほとんどその下の更に古い層の発掘のためにパ・サ時代の遺跡層は破壊されてしまっているのではないか、というような不安を感じてしまった次第です。

 なんにせよ、ホワイトスペースがまた見つかったことは嬉しいことではあります。

追記:古代イラン関係図説のタイトルと目次がネットで検索できないので、アマゾンレビューに書きました。

季刊文化遺産 (第14号秋・冬号)   2003/2 特集『文化の回廊 アフガニスタン』

 古代から近代までのアフガニスタン史図説


8号と14号は、出版元のしまね文化振興財団のショップサイトでも絶版となっているので入手は難しいかも知れませんが、ぜひ電子書籍で再販して欲しいものです。



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by zae06141 | 2016-10-26 00:34 | 古代イラン関係 | Comments(0)
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