古代世界の午後雑記


「古代世界の午後」更新履歴と雑記
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ビザンツ帝国とオスマン帝国の財政規模

  Wikipediaのビザ ンティン経済の項目に、年間財政収入一覧表があります。一方、オ スマン帝国経済史の項目にも、同じような年間財政収入一覧表があります。それぞれもっともらしい数字が並んで いますが、この数字は、どのような史料に基づいているのでしょうか。興味が出てきたので調べてみました。調べてみてわかったことは、似たような一覧表にもかかわらず、両者の性質がまった く異なっていることに驚きました。ご興味のある方はこちらをご覧ください

 数字のお遊びで、オスマン朝の財政金額と明代の財政金額を日本円に換算して比較してみました。オスマン朝の換算方法は、上の記事にありますので、ここでは明代の換算式を書きます。

・『中国的貨幣金融体系(1600-1949)』(燕紅忠著/中国人民大学出版社/2012年) p234に明代歳入一覧表があり、その1602年は、

 米2837万石、布39.5万匹、絹14.8万匹、宝紗0.1万錠、銀458万錠

とあります。一条鞭法により布や絹、宝紗などは銀納に一括されたので、米2837万石を1石あたり1.15両(1600年頃のデータが見つからなかったので、1652年の値で換算)で換算すると3262万両、これに458を加えた3720万両を歳入合計額とする(布や絹は小額なのでここでは無視する)

・『明清中国の経済構造』(足立啓二/汲古書院/2012年)p161に、明末清初の農業経営のコスト細目一覧表があり、3人の農業労働者の賃金が51両(一人当たり17両)とある。17両を100万円とすると1両約5万8824円となる。

 以上の値から、明代の1602年の歳入は、2兆1882億3529万円となります。オスマン帝国の1582/3年の歳入は3764億8800万円です。オスマンは明の約1/6です。一方1602年頃の明の推計人口が1億5300万、16世紀のオスマン朝が約1500万なので、人口で1/10のオスマン帝国の歳入が1/6なのだから、オスマン朝の生産性は結構良いということになりそうです。

 しかし、これにはその先があります。明の財政は中央財政の歳入ですが、オスマン帝国は、直轄地であるアナトリアとルメリア(バルカン半島)の地方財政の一部も含んだ値だと考えられます。直轄州以外の地域は、貢納金だけが中央財政の収入とされており、アナトリアとルメリアは、「貢納金」相当額以上の税収であることから、非直轄州の地方財政の一部に相当する部分の税収額を、アナトリアとルメリアについては含んでいると考えられ、その結果、アナトリアとルメリアの税収額規模が、非直轄州の税収規模より遥かに多い額となっていると考えられます。こういうわけなので、仮にアナトリア・ルメリアと非直轄州を同じ税収範囲で税収額を算出し、明とオスマン朝の税収範囲を同等の基準にして比較すれば、どちらも人口規模に比例した同じスケールの歳入額となるのかも知れません。

 更に別の方向からの検討も可能です。

 明代の人口推計値は1億5300万ですが、史書に残る値は6000万人です。人口推計値は、中国史上他の時代のデータ、平和時は最大年率2%、平均1%の増加率を想定して算出したものです。恐らく、課税逃れの為に戸籍登録をしていなかった人口が多いものと考えられているようです。史書の数値では、明初から清初まで一貫して6000万人前後であり、これは実情と違うのではないかと疑問を持った清朝の康熙帝が、税額を固定することで、実際の人口を把握するようになって人口増加が見られるようになったことから、このように推定されているようです。明初から清初の間の平和時混乱時に年間人口増減率を割り当てて算出すると、1600年頃の明の人口は1億5000万程と推計される、という話です。

 明代の人口にはこのような留意点があるのですが、実際に人口が1億5000万人であったとしても、実際に納税していたのは史書に残る6000万人程度ですから、国家財政も、この6000万人に支えられていたわけで、このように考えると、6千万の人口で2兆1882億の財政を捻出しているということは、仮にオスマン朝人口が4倍の6000万とすると、3765億*4=1兆5060億円となり、明の方が徴税能力が高い、或いは、富裕だったと見なすことができます。なお、1兆5060億円という値は、人口5000万時の古代ローマ帝国の中央税収額1兆2800億円と近い値となっています。オスマン朝の徴税力は、古代ローマの徴税力に近い、ということなのかも知れません。

  ところで、明の2兆1882億円は、前漢末の中央財政額2兆5600億円と近く、どちらも政府把握人口が6000万人ですから、漢と明では、国家の徴税構造・人口などがあまり変わっていない、中国史は、ずっと静態的に同質的な国家体制が続いたことのひとつの証拠ともなりそうです。その反対に、漢代に比べて明末の方が商業が発展していたことは間違いないので、明朝の国家構造が旧態的なために、新興の商業の徴税機能が追いついていなかった、とも考えられます。

 このように、数字をあれこれ比較して考えてみると、いろいろと面白い側面が見えてきて楽しめます。


 話をオスマン朝に戻しますと、オスマン朝は面積が広いので、オスマン朝と比較するなら、ムガル帝国や明という先入観があったのですが、人口規模からすれば、同時代の日本と比較すると、案外数字が近くなるかも知れません。

 しかしなんというか、適当に資料から数字をもって来て少し計算しただけでも、それなりの値となるということは、それ程実情から遠い値では無い、ということなのかも知れません。
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by zae06141 | 2015-01-26 00:19 | 古代ローマ・ビザンツ関係 | Comments(0)
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